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■2314 / inTopicNo.73)  そういえば「統合」
  
□投稿者/ pipit -(2020/01/29(Wed) 23:54:26)
    あ、でも、

    統合、が、認識となるには必要っぽいなぁ

    感じたものを考えて認識(対象)とする、としたとき、

    統合のもとに総合、、、
    統合のための総合、、、
    統合ありきの総合、、、

    そんなかんじになるのかなぁ
    違うかなぁ

    統合と綜合の関係性もよくわからないので、そこらへんも理解できたらいいな、と、思います。

    ではおやすみなさい ! ☆彡
引用返信/返信 削除キー/
■2313 / inTopicNo.74)  カント事典の「綜合」見てみました
□投稿者/ pipit -(2020/01/29(Wed) 23:21:15)
    『カント事典』の『綜合』の項目を見てみました。p305〜

    重要概念みたいです。めっちゃ長いのでちょっとだけ抜粋引用します。

    『綜合はカント認識論の中核的概念の一つである。
    有限な人間の認識すなわち経験は 感性と悟性 の二要素からなり、(略)。各々は認識の諸局面を照射はしても究極的には合一し、統一的に把握されねばならない。
    (略)
    直観の多様から対象の認識が生ずるためには多様を通覧し、取り上げ、結合しなければならない。
    両版ともにこの思惟の自発性を綜合と捉え、この概念を初めて導入する。[A77/B102]
    綜合は創造的ではない受容的直観が対象の認識となるために必要な、換言すれば思惟するだけで直観しない人間の悟性にとってのみ必要な自発性なのである。(略略)』

    第一版と第ニ版で、カントの考え方に違いが出てるようで、解説はさらに分かり難くなっています(;_;)
    ※とりあえず第ニ版の考え方を見ていきます。
    分かる気と、勉強する気が、絶望的に無くなりそうですが、
    とりあえず一歩ずつでも進もうとしてみます。
    今日はおやすみなさい〜 ☆彡

    あ、私見書きます。

    感性所与の多様性↓
    私に、いろんなものが感性により心に浮かんでます、が、色とか音とかの素材のまま浮かんでることが、多様性と今のところ思っています。

    様々な色、様々な音、様々な感触
    次から次と違う感性所与の多様性が現れてる。

    もし、考える力が無かったら、それは単に、様々な色、様々な音、様々な感触、ただそれだけ。

    そのバラバラな素材を合一して一つの認識を作る、そのプロセス、素材を思考により認識へと変化させる流れ(プロセス)を総合と呼んでるのかな、と、思いました。
引用返信/返信 削除キー/
■2312 / inTopicNo.75)  統覚という概念がなんか難しすぎます(泣)
□投稿者/ pipit -(2020/01/29(Wed) 22:30:31)
    困難は分割せよ by デカルト ψ(`∇´)ψ

    というわけで、カントの統覚概念が、私にはあまりに難しいので、『純粋理性批判』の該当周辺ページを少しずつ抜粋的に要約することに挑戦します。

    中山元先生訳本では、文庫本第2巻のp66から始めます。
    超越論的論理学の、超越論的分析論の、概念の分析論の、第三節第一〇項 純粋知性概念、すなわちカテゴリーについて
    の箇所からです。

    (略)
    spontaneity of thought requires that
    this diversity be
    examined after a certain manner,
    received into the mind,
    and connected,
    in order afterwards to form a cognition out of it.

    思考の自発性は、認識を形成するために、
    (感性所与である)多様性が特定の方法で検討され、
    心の中へ受け入れられ、
    繋げられることを、要する。

    This Process I call synthesis.

    このプロセスを私は総合と呼ぶ。


    By the word synthesis, in its most general signification, I understand the process of joining different representations to each other and of comprehending their diversity in one cognition.

    総合という言葉の最も一般的な意味は、
    異なる表象をお互いに結びつける、そして、多様性を1つの認識の中において理解するプロセス だと私は理解する。

    (略)

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■2300 / inTopicNo.76)  現象学のお勉強はじめ?
□投稿者/ pipit -(2020/01/25(Sat) 17:47:29)
    こんばんは。
    メビウス掲示板に投稿したものの抜粋を投稿します。
    間主観性のこととか正確に知らないけど、そういう感じの考え方に
    会話が進んでいってるのかな?って、自分では思いました。
    チガウカナ??
    では投稿しま〜す

    ◇◇◇◇


    理解するために、身近な表現に変えてみますね。

    (置き換え)
    たとえば、pipitが游さんのコメントを理解しようとしてたとします。
    游さんが使う言葉の意味だったり、見方だったり、考え方だったりを知ろうとするとします。
    pipitは、游さんが書いたコメントを読んでいろいろ考えます。游さんはいったい何を言ってるのか、って。
    pipitが考えているものは游さん「の」そのものじゃない。
    このとき、「pipitにおける游さん"の"」ってなります。表言の仕方を変えると、「pipitの游さんの」ってなります。

    ※※※※※※※※
    感想書きますね。

    「pipitの游さんの」は、游さんが考えてることに近いことも遠いこともあるでしょう?
    「pipitの游さんの」は、游さんの主観に影響されて現れたpipitの主観、ってかんじでしょうか??

    ※※※※※※※※

    メルロが気になる游さん。
    カントが気になるpipit。
    ヤスパースが気になる宿題さん。

    違うものが好きな3人は、同一の主観ではない、ということですか??


    >これって、どうしてそうなの? が、「私(そのひと)」の意味なのかって、思ったりしてる。<

    どうして三者三様の在り方になってるのか、どうして(要因)が、そのひとであることの意味、ってことかな?違うかな?

    >わたしの問いは「私」。<

    そうなのですね。

    ※※※※※※※※

    自分ではないひとが考えてること、とてもおもしろいです。


    ◇◇◇◇

    わたしも含めてのすべての生命さん
    今日も一日おつかれさまです!
引用返信/返信 削除キー/
■2297 / inTopicNo.77)  とりあえずのまとめ的に
□投稿者/ pipit -(2020/01/23(Thu) 21:27:13)
    pure apperception
    経験的とは区別するために、pure apperception と呼ぶ。

    primitive apperception
    すべての表象に伴い得るI think を生みだす意識だから。

    the transcendental unity of self-consciousness
    アプリオリな認識を可能にする自己意識の統一なので、超越論的自己意識の統一。


引用返信/返信 削除キー/
■2296 / inTopicNo.78)  統覚について
□投稿者/ pipit -(2020/01/23(Thu) 21:25:56)
    こんばんは
    >カント哲学において統覚は、経験的なものと純粋なもの、の、二種類に分けてるみたいです。
    1.経験的統覚
    2.純粋な根源的統覚
    (カント事典p373)<
    について、実際はどうなのか、『純粋理性批判』を少し読んでみました。

    む、難すぎる ((((;゚Д゚)))))))

    ですが、とりあえず、カント哲学においては【純粋統覚と根源的統覚と超越論的統覚】はかなり一緒な感じみたいだとわかる箇所がありました。ので、カントの文章から引用します。
    この3つは、《経験的》と区別されるようです。
    (つまり、経験的なものでないのが、
    【純粋統覚】であり
    【根源的統覚】であり
    【超越論的統覚】である、ということですね。)

    『純粋理性批判2 カント 中山元訳』p116〜より引用します。
    同じ箇所のMeiklejohnさんによる英訳も引用します。

    『第一六項 自己統合の意識[=統覚]の根源的な統一について』
    SS 12. Of the Originally Synthetical Unity of Apperception.

    『わたしは考えるということは、わたしが心の中で思い描くすべての像に伴うことができるのでなければならない。』
    The "I think" must accompany all my representations,

    『(略)だから直観に含まれるすべての多様なものは、この多様なものが発生する主体におけるわたしは考えるということと、必然的に結びついている。』
    All the diversity or manifold content of intuition, has, therefore, a necessary relation to the "I think," in the subject in which this diversity is found.

    『しかしこのような像が生まれるのは、人間の自発的な営みによってである。そしてこの像は、感性に属するものと考えることはできない。』
    But this representation, "I think," is an act of spontaneity; that is to say, it cannot be regarded as belonging to mere sensibility.

    『わたしはこの像を[感性による]経験的なものと区別するために、純粋な自己統合の意識[=統覚]と呼ぶことにする。』
    I call it pure apperception, in order to distinguish it from empirical;

    『これはあるいは根源的な自己統合の意識とも呼べるが、それはこれが、わたしは考えるという像を生みだす自己意識だからである。』
    or primitive apperception, because it is self-consciousness which, whilst it gives birth to the representation "I think,"

    『(略)わたしはこの統一をさらに、自己意識の超越論的な統一とも呼ぶ。』
    The unity of this apperception I call the transcendental unity of self-consciousness,

    『それはこの統一によってこそ、アプリオリな認識が可能となることを示すためである。』
    in order to indicate the possibility of a priori cognition arising from it.

引用返信/返信 削除キー/
■2278 / inTopicNo.79)  一つの根
□投稿者/ pipit -(2020/01/19(Sun) 22:02:09)
    こんばんは
    メビウス掲示板に投稿した一部分です。

    『統覚が感性の領域か、思考の領域か、
    究極的には、くっきり分けなくても、いいかも??、って思ってたんです。
    もしかしたら、カントは、
    感性能力と思考能力の根は1つ、って、考えてる可能性もあったかもやから?、って。

    カント好きには有名と思われる文言があるんです。『純粋理性批判』の序論に出てくるんです。

    引用開始
    『導入のためのこの序論としての役割においては、人間には認識には二つの〈幹〉があることを指摘しておくだけで十分であろう。この二つの〈幹〉とは感性と知性[悟性]であり、これらはおそらく、まだわたしたちには知られていない一つの共通の〈根〉から生まれてきたものである。』


    感性と知性が、共通の根から生まれてるんなら、統覚も結局共通の一つ根に還れるかな、って。
    でも『純粋理性批判』第2版では、その根がなんなのか、はっきり言明してないみたいですけどね。
    第1版では、構想力が随分と重要視されてるみたいだけど、その勉強はまだなんです。

    けど、面白く感じて、言っちゃった〜 』

    以上です。

    ま〜、でも、いろいろややこしいなぁ

    (>_<)

    あ、麒麟がくる、途中からだけど見ました。
    面白かったです
    厳しい時代だな〜

    輪廻がもしあるとしたら、わたしはどんな生き物で、何してたのかな〜

    あー、
    明智光秀が生きてた時代は、、、
    『我思う、ゆえに、我あり。』の、ルネ・デカルトさまが生きてた時代、かな?
    と、思って調べてみたら、
    デカルトさまは、1596年生まれ。
    明智光秀さまは、1582年に亡くなられたみたい。
    同じ空気は吸っていなかったんだね。
    明智光秀さんが亡くなった14年後にデカルトさんが産まれたんだね。
    ちなみにカント先生は、1724年生まれです☆
引用返信/返信 削除キー/
■2275 / inTopicNo.80)  お坊さま〜
□投稿者/ pipit -(2020/01/18(Sat) 22:07:54)
    こんばんは。
    カント事典の『統覚』についての続きを引用します。

    『(続)このように、「直観されず」ただ「思惟する」働きの主観としての自我は、これを限定しようとしても、永遠に知的には割り切ることのできない剰余であり、せいぜい「あるもの一般、X、意識の単なる形式、最も内容空虚な表象、最も貧弱にして最小の表象、非経験的な対象」であって、単なる自己意識にとどまった。(続)』

    なんか、大乗仏教のお坊さんっぽい文章だなー、と、この文章書いた方を検索したら、仏教の住職もされている先生でした(^^;;
    カント事典は複数の先生によって執筆されていますが、
    この『統覚』の箇所は、『有福孝岳(ありふく こうがく、1939年10月9日[1] - )は、日本の哲学者、京都大学名誉教授、曹洞宗功山寺住職。ドイツ哲学専門だが道元禅の研究者で僧侶。』(wikiより)先生が執筆されています。

    ちょっと偏ってるかも?
    私もだけど、どうしても自分の好みの方向で解釈する危険性はありますよね。
    特にカントの文章は理解し難いから余計にね(^^;;
    もちろん有福先生は最大限に注意されてるのでしょうけど、仏教が身につきすぎてると呼吸するように仏教的な方向で観てしまうかもだな〜と思いました。

    引用続けます。
    『(略)思惟的自我の統覚的自覚は、「現象」でも「物自体」でもない自我の在り方、すなわちただ「私が在るということ(da&#223; ich bin)」[B157]にすぎず、それは自我の現存在の根源的事実はであるが、実体的認識ではない。』
    引用終了
    (カント事典p374.375)

    もう少しいろんな本でカント哲学での統覚についてを調べて、最終的には『純粋理性批判』に書かれてるカントの文章の翻訳文箇所を読めたらいいな、と、思っています。

引用返信/返信 削除キー/
■2266 / inTopicNo.81)  カント事典(・・;)
□投稿者/ pipit -(2020/01/16(Thu) 22:56:28)
    こんばんは
    カント事典、ややこしいです。。。
    『統覚』の【自覚の統一】部分の抜粋引用にチャレンジしてみます。(p374)

    『(略)
    いっさいの思惟や判断の不変的主観としての自我の思惟は、
    経験的直観の対象となりえないので、
    それ自身はいかなる内容的表象でもなく、単なる形式的表象である。
    このことによって、統覚は自己の単一性(「数的統一」「最も純粋な客観的統一」[A107])と同一性(「自己自身の同一性の根源的必然的意識」[A108])を保持する。
    (続)』

    まずここまでを考えます。

    自我の思惟、とは、「我思う(I think)』のことかな。
    「I think」は、経験的直観の対象にはなりえない。
    ので、「I think」はいかなる内容的表象ではなく、単なる形式的表象だ。
    ふむー、難しい。
    カントの意図とずれるかもだけど、私見で推測します。

    たった今、私に表象されてるのは、
    見えてる映像
    聞こえてる音
    触れてる感触
    これらは、【内容的表象】

    現れる映像、音、感触、
    《(私は)スマホの画面(と思っている。)》
    《(私は)ピアノの音(と思っている)》
    《(私は)スマホの重さ(と思っている)》

    いつだって、感じるものを思考に乗せる時、私は〜と思う。でサンドしている。
    この、(私は〜と思う)自体は、それ自体に対応するものの表象として現れてるのではなく、感じたものを思考するときの形式として表象されている。
    思考において、(I think)は形式的表象であるがゆえに、単一性と同一性を保持する。

    カント事典の引用続けます
    『(続)それゆえにこそ、「私は考える」という根元的統覚は、もろもろの表象としての対象意識のように、そのつど別々のいちいち特殊な表象ではなく、はたまた現実的経験的なものでもないから、唯一的にして全体的なるものであり、「この純粋な、根源的な、不変の意識」[A107]は「(純粋統覚の)常住不変の自我」[A123]、同一的自己[B135]である。
    しかし、「常住不変の自我』は実体的存在ではなく、あくまで、「機能の同一性』「己れのはたらきの同一性」としてのみ把握され[A108]、自我、すなわち「我思う」は「作用」[B157Anm.、423Anm.]、しかも「自己活動性の作用」[B130]、「自発性の作用」[B132]であり、さらに「統覚」は「一つの能力」である[A117Anm.]
    (続)』

    今日はここで引用終わります。

    少しずつ統覚のこと勉強しながら進みたいです。

    おやすみなさい☆彡

引用返信/返信 削除キー/
■2260 / inTopicNo.82)  I think that ・・・
□投稿者/ pipit -(2020/01/16(Thu) 00:04:09)
    空は青い、と、I think

    海は深い、と、I think

    黄色、と、I think

    音、と、I think


    この、I think が、不動(同じコトバ)

    明日以降に、カント事典の『統覚』の記述、抜粋引用してみようかなって、I think

    今日はおやすみなさい


    仏教が、真実だったらいいな、と、I think


引用返信/返信 削除キー/
■2256 / inTopicNo.83)  Re[15]: 統覚〜
□投稿者/ pipit -(2020/01/15(Wed) 00:10:50)
    No2255に返信(pipitさんの記事)
    > とりあえず、統覚について、黒崎先生の簡潔な説明を引用します。
    >
    >
    > 黒崎政男先生
    > 『「統覚Apperzeption」といってもいろいろある。
    > もともとは、ライプニッツが導入した用語であり、
    > 「知覚」(Perzeption=perception)を取りまとめる(ad-)、
    > という意味であるとかんがえてもらってよい。
    > (続)』
    > 『カント『純粋理性批判』入門』p127
    >
    >
    >

    ああ、怒られるかもだけど、けど、
    言いたい。。。

    瞬間の知覚1つなら、ストーリーも作れませんね (^_−)−☆

    。。。

    ふむふむ、統覚は、知覚をまとめる係りなんだな ♪
引用返信/返信 削除キー/
■2255 / inTopicNo.84)  Re[14]: 統覚〜
□投稿者/ pipit -(2020/01/14(Tue) 23:59:56)
    とりあえず、統覚について、黒崎先生の簡潔な説明を引用します。


    黒崎政男先生
    『「統覚Apperzeption」といってもいろいろある。
    もともとは、ライプニッツが導入した用語であり、
    「知覚」(Perzeption=perception)を取りまとめる(ad-)、
    という意味であるとかんがえてもらってよい。
    (続)』
    『カント『純粋理性批判』入門』p127



引用返信/返信 削除キー/

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