| こんばんは >カント哲学において統覚は、経験的なものと純粋なもの、の、二種類に分けてるみたいです。 1.経験的統覚 2.純粋な根源的統覚 (カント事典p373)< について、実際はどうなのか、『純粋理性批判』を少し読んでみました。
む、難すぎる ((((;゚Д゚)))))))
ですが、とりあえず、カント哲学においては【純粋統覚と根源的統覚と超越論的統覚】はかなり一緒な感じみたいだとわかる箇所がありました。ので、カントの文章から引用します。 この3つは、《経験的》と区別されるようです。 (つまり、経験的なものでないのが、 【純粋統覚】であり 【根源的統覚】であり 【超越論的統覚】である、ということですね。)
『純粋理性批判2 カント 中山元訳』p116〜より引用します。 同じ箇所のMeiklejohnさんによる英訳も引用します。
『第一六項 自己統合の意識[=統覚]の根源的な統一について』 SS 12. Of the Originally Synthetical Unity of Apperception.
『わたしは考えるということは、わたしが心の中で思い描くすべての像に伴うことができるのでなければならない。』 The "I think" must accompany all my representations,
『(略)だから直観に含まれるすべての多様なものは、この多様なものが発生する主体におけるわたしは考えるということと、必然的に結びついている。』 All the diversity or manifold content of intuition, has, therefore, a necessary relation to the "I think," in the subject in which this diversity is found.
『しかしこのような像が生まれるのは、人間の自発的な営みによってである。そしてこの像は、感性に属するものと考えることはできない。』 But this representation, "I think," is an act of spontaneity; that is to say, it cannot be regarded as belonging to mere sensibility.
『わたしはこの像を[感性による]経験的なものと区別するために、純粋な自己統合の意識[=統覚]と呼ぶことにする。』 I call it pure apperception, in order to distinguish it from empirical;
『これはあるいは根源的な自己統合の意識とも呼べるが、それはこれが、わたしは考えるという像を生みだす自己意識だからである。』 or primitive apperception, because it is self-consciousness which, whilst it gives birth to the representation "I think,"
『(略)わたしはこの統一をさらに、自己意識の超越論的な統一とも呼ぶ。』 The unity of this apperception I call the transcendental unity of self-consciousness,
『それはこの統一によってこそ、アプリオリな認識が可能となることを示すためである。』 in order to indicate the possibility of a priori cognition arising from it.
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