| p 「ここからなくなりたい、という気持ちから、わたしは仏教の経典の一節を思い出したよ。お釈迦さまが、 「バーヒヤさん、それでは、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。『見られたものにおいては、見られたもののみが有るであろう。聞かれたものにおいては、聞かれたもののみが有るであろう。思われたものにおいては、思われたもののみが有るであろう。識られたものにおいては、識られたもののみが有るであろう』と。バーヒヤさん、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。バーヒヤさん、まさに、あなたにとって、見られたものにおいては、見られたもののみが有るであろうことから、聞かれたものにおいては、聞かれたもののみが有るであろうことから、思われたものにおいては、思われたもののみが有るであろうことから、識られたものにおいては、識られたもののみが有るであろうことから、バーヒヤさん、それですから、あなたは、それとともにいないのです。バーヒヤさん、あなたが、それとともにいないことから、バーヒヤさん、それですから、あなたは、そこにいないのです。バーヒヤさん、あなたが、そこにいないことから、バーヒヤさん、それですから、あなたは、まさしく、この〔世〕になく、あの〔世〕になく、両者の中間において〔存在し〕ないのです。これこそは、苦しみの終極“おわり”です」と。』って、バーヒヤさんにお話した経典だよ。(小部経典3:ウダーナ1.10. バーヒヤの経(10)) ちなみに、仏教では、なくなりたい気持ちも渇愛の1つで、無有愛(むうあい)って言うんだって。存在したい気持ちは有愛(うあい)って言うんだって。 渇愛は苦しみの原因と言われてるよ。 ある ない ありたい なくなりたい いろいろだね 」
p「バーヒヤさんは、この説法を聞いて阿羅漢になるけど、そのあとすぐに子牛連れの雌牛に当たられ亡くなられるよ。 このバーヒヤ経のさいごは、次の釈尊の言葉で締めくくられてるよ。
そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を知って、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。 「しかして、そこは、水と地と火と風が依って立たざるところにして、そこに、星々は輝かず、日は輝かず、そこに、月は輝かず、そこに、闇は見い出されない。 しかして、〔真の〕婆羅門たる牟尼(沈黙の聖者)が、寂黙〔の知慧〕によって、自己みずから、〔このことを〕知ったとき、しかして、形態(色)から、かつまた、形態なきもの(無色)から、楽苦〔の思い〕から、〔彼は〕解き放たれる」と。 〔以上が〕第十〔の経〕となる。 この感興〔の言葉〕もまた、「世尊によって説かれたものである」と、わたしは聞きました。ということで――
わたしにはcoolな経典に聞こえるけど、 yさんの好みじゃなかったらごめんなさいね。 おはよ。」
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