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■20873 / inTopicNo.37)  演繹論について
  
□投稿者/ pipit -(2022/02/16(Wed) 21:22:23)
    2022/02/17(Thu) 13:21:49 編集(投稿者)

    さて、カント純粋理性国/原理地方/論理学県/分析市にお住まいの『演繹論』について、諸先生はどう紹介されてるのでしょうか?
    本文を読む前に、概観をつかむために、見てみました。

    まずは黒崎政男先生。
    冒頭一文はカントの文章(B145)です。

    『一切の対象に関して、カテゴリーのア・プリオリな妥当性が説明されれば、この演繹の意図が初めて完全に達成される。(B145)

    つまり、〈主観〉の側に存している純粋悟性概念(カテゴリー)は、確かに人間にとっての認識の方法かもしれない。
    しかし、なぜそんな〈主観的〉原理が、世界という対象の〈客観的〉あり方を説明するのに役立つのか。
    普通に考えればまったく分からない。
    なぜ、そんな〈主観的〉原理が、対象の説明に妥当的なのか。
    つまり、なぜ、そんな〈主観的〉原理が〈客観的妥当性(Objective Gultigkeit)を有するのか、という問いこそ、『純粋理性批判』の最深部「超越論的演繹論」の根本的問いなのである。』
    (『カント『純粋理性批判』入門』黒崎政男先生著、講談社選書メチエ、p132より引用)

    次に、御子柴善之先生がジュニアに向けて書いた本より引用します。
    『(略)私たちが見出そうとしているのは「考える」際の形式です。
    「考える」とき、私たちは「判断」します。
    では「判断」のかたちはいくつあるでしょうか。
    それは古典的な論理学に従えば一二です。
    そこで、その一二の判断形式から一二の純粋悟性概念を導き出したのです。
     しかし、ここに問題が生じます。
    「感じる」際の形式が時間や空間だということには、みなさんはそう違和感をもたないでしょう。
    私たちがなにかを感じるとき、それは「いつ」か「どこ」かで生じるからです。
    しかし、「考える」際の形式が一二ある、それが実際に私たちの認識をかたちづくっているのだ、と言われると、本当にそうなんだろうかという疑問が生じてこないでしょうか。
     この疑問にカント自身が囚われました。
    彼が『純粋理性批判』を完成するまで、ほとんどなにも作品を発表しない月日が続いた原因の中心には、この問題があったようです。
    やがて刊行された『純粋理性批判』では、純粋悟性概念がリアルだということを説明するために、「純粋悟性概念の超越論的演繹」という節が書かれています。
    見るからに難しそうな見出しをもったこの箇所は、同書中の難所中の難所であり、読者を困惑させます。
    仮にみなさんがここを一読して、なにが書いてあるのか分からない、と思ったとしても、それは特別なことでも、みなさんが自信を失うようなことでもありません。
    実際、カントを長年考え込ませた難しいことが書いてあるのです。
    彼自身、第一版刊行の際にこの箇所の記述に満足していませんでしたし、第二版刊行時には新たに書き改められることになります。』
    (『自分で考える勇気』御子柴善之先生著、岩波ジュニア新書、p55.56.57より引用)

    pipit感想
    ちょーーー難しそうで、多分『演繹論』の構造自体にさえ、いろんな解釈が出てそうな箇所だと思っています。
    ですが、せめて目を通してみたい!
    まずは、演繹論の最初から最後まで、目を通すことを目標にチャレンジしてみます。
    (前にチャレンジしかけたときは、苦行のような、じんましん出そうな。。。。W(`0`)Wで、いつのまにかやめちゃってて、挫折。。。でも再チャレンジしてみたい!!)


引用返信/返信 削除キー/
■20868 / inTopicNo.38)  演繹論の住所
□投稿者/ pipit -(2022/02/16(Wed) 15:29:10)
    2022/02/16(Wed) 15:57:14 編集(投稿者)

    ということで、演繹論の住所は、純粋理性の要素の原理(感性と知性)の中の、

    論理学(知性)の方ね。

    それで、論理学は、(分析論と弁証論)に分かれてて、

    その中の分析論の方なんだね。弁証論では有名な二律背反とかの論議になるんだね。

    むむ、なぜ、分析という名付けをしたのか、気になっちゃうではないですか。。。

    https://www.gutenberg.org/cache/epub/4280/pg4280-images.html#chap30
    より

    That part of transcendental logic, then, which treats of the elements of pure cognition of the understanding, and of the principles without which no object at all can be thought, is transcendental analytic, and at the same time a logic of truth.

    DeepL訳
    そして、超越論的論理学のうち、理解の純粋な認識の要素、および、それなしにはいかなる対象も思考できない原理を扱う部分は、超越論的分析学であり、同時に真理の論理学である。

    pipit私見
    それなしでは認識が成立し得ない(とカントが考える)悟性の要素や原則を考察していくので、(悟性能力の)分析論と名づけたということかな、と思いました。
    知性(悟性)を分析していくんですね。

    ということで、演繹論は
    原理論の論理学の分析論にて論述されるということですね。

    前よりはスッキリ!かな?
    (勘違いかも( ̄▽ ̄;))
引用返信/返信 削除キー/
■20867 / inTopicNo.39)  Re[16]: 何の原理論?
□投稿者/ pipit -(2022/02/16(Wed) 15:03:08)
    やったね、投稿できました

    (^○^)v ♪
引用返信/返信 削除キー/
■20866 / inTopicNo.40)  Re[15]: 何の原理論?
□投稿者/ pipit -(2022/02/16(Wed) 15:01:51)
    No20865 で削除した@Aの部分です。

    If we wish to divide this science from the universal point of view of a science in general, it ought to comprehend, first, a Doctrine of the Elements, and, secondly, a Doctrine of the Method of pure reason.


    Only so much seems necessary, by way of introduction of premonition, that there are two sources of human knowledge (which probably spring from a common, but to us unknown root), namely, sense and understanding. By the former, objects are given to us; by the latter, thought. So far as the faculty of sense may contain representations a priori, which form the conditions under which objects are given, in so far it belongs to transcendental philosophy. The transcendental doctrine of sense must form the first part of our science of elements, because the conditions under which alone the objects of human knowledge are given must precede those under which they are thought.
引用返信/返信 削除キー/
■20865 / inTopicNo.41)  何の原理論?
□投稿者/ pipit -(2022/02/16(Wed) 14:59:34)
    ※うぅ、投稿がアクセス禁止になったので、一部削除を試して投稿します。→@Aと二箇所の英訳を削除しました。次の投稿で、削除した英訳部分のみで投稿してみます。

    ☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡

    みなさま、こんにちは。

    No20863
    >第一部 超越論的な原理論 にある、
    第二部門 超越論的な論理学 にある、
    第一部 超越論的な分析論 にある、
    【第二章 純粋知性概念の根拠づけ [=演繹]】

    I. Transcendental Doctrine of Elements
    → TRANSCENDENTAL LOGIC
    → TRANSCENDENTAL ANALYTIC

    【Chapter II. Of the Deduction of the Pure Conceptions of the Understanding】<

    さて、この演繹論は、
    大元としては、『第一部 超越論的な原理論』(I. Transcendental Doctrine of Elements)に収納されている、ということですよね。

    何の原理論?と疑問を持った私は、序論を見てみました。
    ばっちり書いてましたよー。
    ちょうど悪魔ちゃんとお話ししてた、人間の認識には、二つの幹(感性と悟性)と一つの共通の根がある、の箇所でしたよ
    (^ ^)B29あたり?中山先生番号033です。

    先に答えを書いとくと、『純粋理性の』原理論、ということみたいです。

    序論部分の英訳を載せます。
    https://www.gutenberg.org/cache/epub/4280/pg4280-images.html#chap10

    削除@

    この学を、区分けするなら、
    第一部は純粋理性(pure reason)の要素の学説(a Doctrine of the Elements)[=原理論]
    第二部は純粋理性(pure reason)の方法の学説(a Doctrine of the Method)[=方法論]

    続く未知の根を含む箇所も引用しておきます。

    削除A

    英訳の引用は、
    ※ Title: The Critique of Pure Reason
    Author: Immanuel Kant
    Translator: J. M. D. Meiklejohn
    からです。

    ※※※※※※※※
    引用英訳部分を翻訳アプリDeepLにかけてみました。

    ------------------------
    この科学を科学一般という普遍的な観点から分割しようとするならば、それは第一に、元素の教義、第二に、純粋理性の方法の教義を含んでいなければならない。
    ------------------------
    人間の知識には、感覚と理解という二つの源泉がある(おそらく共通の、しかし我々にとっては未知の根源から生じている)ことを、予感させるために、これだけは必要なようである。前者によって対象が与えられ、後者によって思考が与えられる。感覚能力は、対象が与えられる条件を形成するアプリオリな表象を含むことができる限り、超越論的哲学に属する。なぜなら、人間の知識の対象が与えられる条件は、それらが思考される条件よりも優先されなければならないからである。

引用返信/返信 削除キー/
■20863 / inTopicNo.42)  第二版のものから読みます
□投稿者/ pipit -(2022/02/16(Wed) 11:13:04)
    あ、引用する英訳には第二版のものしか載ってないっぽい。

    ということで、消去法で第二版から読んでみます。
    (^^;;

    『純粋理性批判』カント/中山 元先生訳
    第二巻p91-178(B117-169あたり、中山先生番号129-179)

    第一部 超越論的な原理論 にある、
    第二部門 超越論的な論理学 にある、
    第一部 超越論的な分析論 にある、
    【第二章 純粋知性概念の根拠づけ [=演繹]】

    I. Transcendental Doctrine of Elements
    → TRANSCENDENTAL LOGIC
    → TRANSCENDENTAL ANALYTIC

    【Chapter II. Of the Deduction of the Pure Conceptions of the Understanding】

    https://www.gutenberg.org/cache/epub/4280/pg4280-images.html#chap38
引用返信/返信 削除キー/
■20862 / inTopicNo.43)  日記
□投稿者/ pipit -(2022/02/16(Wed) 10:49:52)
    うーん、どうしようかなぁ

    私が演繹論と呼んでいる箇所は、初版と、初版からかなり書き替えられた第二版のものがありまして、そのどちらも中山先生本に載ってます。

    どちらから読もうかなぁ。

    解説は第二版についてのものが多いだろうなぁ。

引用返信/返信 削除キー/
■20852 / inTopicNo.44)  今後の予定☆
□投稿者/ pipit -(2022/02/15(Tue) 21:09:58)
    みなさま、こんばんは (^_^)
    光文社古典新訳文庫から『純粋理性批判』の訳本を出版されている、中山元先生のタイトルを読解の導きとして使用させていただこうと思っています。

    中山先生がつけられた段落番号とタイトルについての光文社さんの投稿
    https://mobile.twitter.com/kotensinyaku/status/1267379513081712640
     
    以下https://www.kotensinyaku.jp/column/2011/09/005064/
    より引用

    『中山 元さんによる新訳『純粋理性批判 』では、すべての段落にタイトルと番号がつけてあり、解説はすべてこの番号で行われています。このタイトルと番号をピックアップして、タイトル・リストをPDFで作成しました。 訳者あとがきでもふれていらっしゃいますが、かつて中山さんご自身も理解を確かめるためにタイトル・リストを作成されていたそうです。 ぜひ、カントの思考を理解するための一助としてご活用ください。
    (略)
    《訳者あとがきより》
    「ページの指示は紙の上の配置という偶然的な要素に依存したものである。ページ数よりもカントが一つの思考のブロックとして示した段落を指示するほうが、カントの思考に忠実だと考えたのである。&#8232; 読者はできればこの段落の番号とタイトルだけを書き取ってタイトル・リストを作ってほしい。(中略)&#8232; そして本書を通読した後で、このリストを眺めながら、そこで何が書かれていたか、思い出してほしいのだ。ぼくも昔、自分の理解をたしかめるために、よくやったこと・・・」』
    引用終了

    ================

    と、中山先生と光文社さまが太っ腹にアップしてくださってるのが、下記のリストです。↓

    https://www.kotensinyaku.jp/common/guide/pdf/kant01-07.pdf

    =================

    ↑上記日本語タイトルと、多分150年前くらいに出版された英訳本↓

    Title: The Critique of Pure Reason
    Author: Immanuel Kant
    Translator: J. M. D. Meiklejohn

    https://www.gutenberg.org/cache/epub/4280/pg4280-images.html

    を組み合わせて、純粋理性批判・演繹論の箇所を投稿していこうかな、と、思っています。
    私自身がメインに読解するのは、中山元先生の日訳本『純粋理性批判』カント、中山元先生訳、光文社古典新訳文庫シリーズです。

    予定変更するかもですけど、今のところ、そんな感じで進めてみようかなと思っています。

    (超早期挫折可能性大有り) _| ̄|○

引用返信/返信 削除キー/
■20840 / inTopicNo.45)  Re[17]: 批判と二つの視点
□投稿者/ pipit -(2022/02/15(Tue) 15:46:16)
    No20838

    というわけで、

    『カントとオートポイエーシス』
    山下和也先生著
    序 カント認識論とオートポイエーシス
    第一章 オートポイエーシス論
    第二章 理性と認識システム
    第三章 批判と二つの視点
    第四章 自我とシステム
    第五章 感覚と攪乱
    第六章 カテゴリーと概念コード
    第七章 物自体と認識システムの環境
    第八章 超越論的観念論とラディカル構成主義
    第九章 超越論的自由と自律性
    結 論 認識論の完成に向けて

    の、『第三章 批判と二つの視点』の読解に努めましたが、
    ここで、pipitはいったん、カント自身の作・【純粋理性批判】の演繹論の読解に戻ってみようかなと思っています。

    たまたま、本屋で目にしたこの山下先生の本を購入できて本当によかった、うれしいです。
    私にとっては、純理読解の導きの書の一つになると思っています。

    (けど、一文一文が簡潔すぎる!おくたがわさんが表現されてた、〈知恵の輪〉みたいな言葉を思い出すなー (-_-;)、、、おくたがわさん、お元気かなー。。。)

    疲れた!休憩ー♪

    https://youtu.be/VPRjCeoBqrI
    Coldplay
    ♪A Sky Full of Stars

引用返信/返信 削除キー/
■20838 / inTopicNo.46)  Re[16]: 批判と二つの視点
□投稿者/ pipit -(2022/02/15(Tue) 11:12:23)
    2022/02/15(Tue) 13:37:32 編集(投稿者)

    みなさまこんにちは。

    pipitはいろいろなものを認識してます。

    @例えば目の前の『本』。
    このとき、

    Aどのように『本』と認識したか、を調べるのが『純粋理性批判』だとすると、

    ------------------------

    山下和也先生の言う【二つの視点】とは、


    @『本』が観察、観察者は『認識システム(理性)』であり、

    A観察者(認識システム)に現れる観察(認識対象)に至る順路を、観察者自身の内部から追った記述

    という@Aの視点ということかなと思いました。
    ------------------------

    このAの視点についての、山下先生の文章を引用します。

    『カントとオートポイエーシス』山下和也先生p38.39より引用
    『この視点は、いわば認識システム自身の体感になっている。そして、この視点にはシステム自身のその都度の作動しか把捉されない。システムの構造もシステムの環境も、それどころかシステム自身の全体すら把捉されないのである。
    システム自身にもシステムそのものは見えないわけで、ルーマンの「システムはそれ自身にとってどこまでも不透明である」(Luhmann 1990: 483)という記述はこれを意味する。
    さらに、この視点には環境も他のオートポイエーシス・システムも現れてこない。
    ただしそれにもかかわらず、システムそのものにとっての視点はシステム自身の実在を知っている。
    なぜなら、この視点の絶対的前提条件はシステムの実在であり、かつ、この視点はまさに実在するシステムそれ自身の視点だからである。システムが実在しないなら、システムそのものにとっての視点も存在しえない。
    また環境の実在を把捉するのも、この視点である。
    オートポイエーシスの本性上、環境なくしてシステムは実在しえないのであるから。と言っても、把捉できるのは実在だけで、その具体的なあり方までもわかるわけではない。
    こうした把捉の仕方は無論、観察ではなく、何かの現れを現す表象の産出とは異なる。
    それは否定しようのない直接性をもった把捉である。
    こうした把捉の仕方を「直接知」と名付けてみた(山下二〇一〇:一八三)』
    引用終了

    pipit私見です。

    カント哲学において、不可知の対象として設定されている【物自体】という概念に、カントはどうして身も蓋もなく確実な実在性を与えているのか、

    という、なぜ? に対する山下先生の考えが、上記引用部分なのではないのか、と思いました。

引用返信/返信 削除キー/
■20816 / inTopicNo.47)  日記
□投稿者/ pipit -(2022/02/13(Sun) 22:12:50)
    むむむ、論理ってなんやろーってここんとこ考えてたんやけど、

    No20814
    >論理学は知性一般の規則の学<

    ってことは、カントは論理とは知性一般の規則って考えてることかー。

    山下先生的な考え方によると、

    No20805
    >とするならカントの言う悟性とは、意識システムにおけるコードに応じた表象産出とコード創発およびコード連鎖の能力と考えることができる。<

    私の日記的言葉で言えば、(わたしの)世界を作る規則が論理って、かんじかなー

    ※※※※

    不思議なことに、悪魔ちゃんへ引用するカントの文章は、なんかわかりやすく感じるんだよね。
    前からだよ。

    不思議だね。




引用返信/返信 削除キー/
■20814 / inTopicNo.48)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2022/02/13(Sun) 21:56:29)
    悪魔ちゃん、こんばんはー
    No20809

    > ごめんね、思ったことを日記的に書いちゃたけど、こういうのもいいよね。<

    もちろん!書いてくれて嬉しいです
    (*^▽^*)

    > >人間の認識の二つの幹、つまり感性と悟性とがあるが、これらのうちの前者によって、私たちには対象が与えられるが、後者によって対象が思考されるということである。<
    > っていうこと、わたしもそうだな、って思ってるのね。
    > でも、
    > >おそらく共通の、しかし私たちには未知の根から生じている<っていうとこはどうなのかな?だけど。<

    私たちには未知の、だから、ねー
    そんな書き方するから、みんな推測しちゃうよねー


    > そして、■20806、
    > (1)感性  sense
    > ↓
    > (2)知性(悟性) understanding
    > ↓
    > (3)理性  reason
    >
    > これから、カントの「人間の認識」おいて、
    > 「認識」の二つの幹=「感性」と「悟性」。そしてこの両者の共通の未知の根っていうのがあって、それを「理性」とした。っていうのかな?って。<
    > でも、カントのはあくまでも人間の「認識」について、なんだと思うのね。人間の「精神(意識)」じゃなくて。
    >
    > もし、感性が存在しなかったら、知性(悟性)は成立しない、って、カントは言ってるようにもわたしには見えるんだけど。<

    カントは本当にいろいろややこしいんだけど、時間的な順序としては、感性→知性の順番かもだけど、存在論的?に言えば、どちらも同じ的な表現の文章があるから、引用しておくね。
    感性直観が存在しない対象に知性を働かせてもそれはきちんとした認識(知識)にならない、ってかんじにpipitは捉えてるよ。

    (カントの文章、B76あたり、中山元先生訳、第二巻p76、中山先生番号082)
    『わたしたちの心が何らかの形で触発されたときに、心のうちに像をうけとる能力が受容性であるが、この受容性を、感性と呼ぶことにしよう。
    これにたいして心には、みずから像や観念を作りだす能力も存在しているが、これは認識の自発性であって、これを知性[=悟性]と呼ぶことにしよう。
    わたしたち人間の本性からして、直観は感覚的なものでしかありえないのであり、わたしたちが対象によって触発される方法だけを含む。
    これにたいして知性とは、感覚器官が直観した対象を思考する能力である。
     この二つの能力の特性を比較してみても、どちらが勝っているとも言えない。
    感性なしでは対象が与えられないし、知性なしでは[対象を]思考することができない。
    内容のない思考は空虚であり、概念のない直観は盲目である。
    だから対象の概念を感覚的なものにすること、すなわち概念に直観の対象を与えることが必要であると同時に、直観を理解できるものにすること、すなわち直観の対象を概念のもとに配置することもまた必要なのである。
     これら二つの能力あるいは性能は、その機能をたがいに交換することができない。
    知性は何ものも直観することができないし、感覚能力は何ものも思考することができない。
    このためにこの二つが結びつかなくては、認識が生まれないのである。
    だからといってこれらの能力のそれぞれの〈持分〉を混同してはならない。
    それぞれの能力を慎重に分離して区別するには、それだけの重要な理由があるのである。
    だからここでは感性論(エステティーク)を論理学(ローギク)と区別するのである。
    感性論は、感性一般の規則の学であり、論理学は知性一般の規則の学である。』
    引用終了


    > No20783
    > >あんまり理詰め的に考えない方がいいのかもしれませんね。<
    > わたしもそう思ってる。
    > わんちゃんに人間ほどの「知性(悟性)」はないとわたし思ってるんだけど、まったく無いとは思えないよ。「感性」の方が主なんだと見てるのね。
    > 人間もこの原初的な領分(感性)がなければ世界のなかで”生きていくこと”ができないんじゃないかしら?って。<

    うん。
    いろんな人の考えの表明を読む時、
    言葉に込める意味の違いもあると思ってるんだ。

    もしかしたらなんだけど、山下先生の言う意識システム、って、
    悪魔ちゃん的には〈感性〉に含まれる領分なのかもって気もしてるんだよね。

    悪魔ちゃんのおかげで、思いもしなかった考え方を知ることができたりしてる。
    ありがとね!


引用返信/返信 削除キー/

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