□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/02/13(Sun) 19:52:45)
| お邪魔しま〜す。 pipitさま、前からちょっと思ってたのをちょっと書かせてもらうね。
『純粋理性批判』の訳本で、pipitさまが紹介してくれた箇所を、たしかうましかさんだっとだと思うけど、書き写したのを再掲して見ます。
No.16076、だったかな? >序論の最後<に、 >ところで、人がこの学の区分を体系一般という一般的な観点からこころみようとするならば、私たちが今論述している区分は、第一には純粋理性の原理論、第二には純粋理性の方法論を含まねばならない。これらの主要部分のそれぞれはその小区分をもつであろうが、それにもかかわらず、そうした小区分の根拠はここではまだ論述され得ない。ただ、次のことだけは序論あるいは前書きには必要であると思われる。それはすなわち、おそらく共通の、しかし私たちには未知の根から生じているところの人間の認識の二つの幹、つまり感性と悟性とがあるが、これらのうちの前者によって、私たちには対象が与えられるが、後者によって対象が思考されるということである。ところで、感性もア・プリオリな諸表象を含んでいるはずであり、そうしたア・プリオリな諸表象が、私たちにそのもとで対象が与えられる諸条件をなす限り、感性は超越論的哲学に属するであろう。超越論的感性論は原理論の第一部門に属さなければならないだろうが、それは、人間の認識の対象がそのもとでのみ与えられる諸条件は、その同じ対象がそのもとで思考される諸条件に先行するからである。→原佑訳上巻、p.140〜p.142参照<
のなんかの、 >人間の認識の二つの幹、つまり感性と悟性とがあるが、これらのうちの前者によって、私たちには対象が与えられるが、後者によって対象が思考されるということである。< っていうこと、わたしもそうだな、って思ってるのね。 でも、 >おそらく共通の、しかし私たちには未知の根から生じている<っていうとこはどうなのかな?だけど。
そして、■20806、 (1)感性 sense ↓ (2)知性(悟性) understanding ↓ (3)理性 reason
これから、カントの「人間の認識」おいて、 「認識」の二つの幹=「感性」と「悟性」。そしてこの両者の共通の未知の根っていうのがあって、それを「理性」とした。っていうのかな?って。 でも、カントのはあくまでも人間の「認識」について、なんだと思うのね。人間の「精神(意識)」じゃなくて。
もし、感性が存在しなかったら、知性(悟性)は成立しない、って、カントは言ってるようにもわたしには見えるんだけど。
No20783、 >あんまり理詰め的に考えない方がいいのかもしれませんね。< わたしもそう思ってる。 わんちゃんに人間ほどの「知性(悟性)」はないとわたし思ってるんだけど、まったく無いとは思えないよ。「感性」の方が主なんだと見てるのね。 人間もこの原初的な領分(感性)がなければ世界のなかで”生きていくこと”ができないんじゃないかしら?って。
ごめんね、思ったことを日記的に書いちゃたけど、こういうのもいいよね。
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