□投稿者/ pipit -(2022/02/13(Sun) 21:56:29)
| 悪魔ちゃん、こんばんはー ■No20809
> ごめんね、思ったことを日記的に書いちゃたけど、こういうのもいいよね。<
もちろん!書いてくれて嬉しいです (*^▽^*)
> >人間の認識の二つの幹、つまり感性と悟性とがあるが、これらのうちの前者によって、私たちには対象が与えられるが、後者によって対象が思考されるということである。< > っていうこと、わたしもそうだな、って思ってるのね。 > でも、 > >おそらく共通の、しかし私たちには未知の根から生じている<っていうとこはどうなのかな?だけど。<
私たちには未知の、だから、ねー そんな書き方するから、みんな推測しちゃうよねー
> そして、■20806、 > (1)感性 sense > ↓ > (2)知性(悟性) understanding > ↓ > (3)理性 reason > > これから、カントの「人間の認識」おいて、 > 「認識」の二つの幹=「感性」と「悟性」。そしてこの両者の共通の未知の根っていうのがあって、それを「理性」とした。っていうのかな?って。< > でも、カントのはあくまでも人間の「認識」について、なんだと思うのね。人間の「精神(意識)」じゃなくて。 > > もし、感性が存在しなかったら、知性(悟性)は成立しない、って、カントは言ってるようにもわたしには見えるんだけど。<
カントは本当にいろいろややこしいんだけど、時間的な順序としては、感性→知性の順番かもだけど、存在論的?に言えば、どちらも同じ的な表現の文章があるから、引用しておくね。 感性直観が存在しない対象に知性を働かせてもそれはきちんとした認識(知識)にならない、ってかんじにpipitは捉えてるよ。
(カントの文章、B76あたり、中山元先生訳、第二巻p76、中山先生番号082) 『わたしたちの心が何らかの形で触発されたときに、心のうちに像をうけとる能力が受容性であるが、この受容性を、感性と呼ぶことにしよう。 これにたいして心には、みずから像や観念を作りだす能力も存在しているが、これは認識の自発性であって、これを知性[=悟性]と呼ぶことにしよう。 わたしたち人間の本性からして、直観は感覚的なものでしかありえないのであり、わたしたちが対象によって触発される方法だけを含む。 これにたいして知性とは、感覚器官が直観した対象を思考する能力である。 この二つの能力の特性を比較してみても、どちらが勝っているとも言えない。 感性なしでは対象が与えられないし、知性なしでは[対象を]思考することができない。 内容のない思考は空虚であり、概念のない直観は盲目である。 だから対象の概念を感覚的なものにすること、すなわち概念に直観の対象を与えることが必要であると同時に、直観を理解できるものにすること、すなわち直観の対象を概念のもとに配置することもまた必要なのである。 これら二つの能力あるいは性能は、その機能をたがいに交換することができない。 知性は何ものも直観することができないし、感覚能力は何ものも思考することができない。 このためにこの二つが結びつかなくては、認識が生まれないのである。 だからといってこれらの能力のそれぞれの〈持分〉を混同してはならない。 それぞれの能力を慎重に分離して区別するには、それだけの重要な理由があるのである。 だからここでは感性論(エステティーク)を論理学(ローギク)と区別するのである。 感性論は、感性一般の規則の学であり、論理学は知性一般の規則の学である。』 引用終了
> No20783、 > >あんまり理詰め的に考えない方がいいのかもしれませんね。< > わたしもそう思ってる。 > わんちゃんに人間ほどの「知性(悟性)」はないとわたし思ってるんだけど、まったく無いとは思えないよ。「感性」の方が主なんだと見てるのね。 > 人間もこの原初的な領分(感性)がなければ世界のなかで”生きていくこと”ができないんじゃないかしら?って。<
うん。 いろんな人の考えの表明を読む時、 言葉に込める意味の違いもあると思ってるんだ。
もしかしたらなんだけど、山下先生の言う意識システム、って、 悪魔ちゃん的には〈感性〉に含まれる領分なのかもって気もしてるんだよね。
悪魔ちゃんのおかげで、思いもしなかった考え方を知ることができたりしてる。 ありがとね!
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