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No20805 の記事


■20805 / )  第三章 批判と二つの視点を読み進める準備
□投稿者/ pipit -(2022/02/13(Sun) 15:27:25)
    こんにちは!
    No20803の続きです。

    > これから話題とされる認識システム(理性)に関しての山下先生の記述を引用しようと思っています。(p31-32)<

    『カントとオートポイエーシス』山下和也先生著、p31.32より引用します。

    『認識能力の最後は理性である。
    もっとも、ここで言う理性は狭義の理性と言うべきかもしれない。カントは人間の認識能力を総称して理性と呼ぶこともあるからである。
    悟性が規則の能力と呼ばれたのに対して、
    カントはこの理性を「原理の能力」(B356)と定義する。
    原理とは何か?
    カントによれば、原理からの認識とは「概念において特殊を普遍において認識する」ことであり、「すべての理性推論は、原理からの認識の導出の形式」となる(B357)。
    つまりカントの言う原理とは、理性推論、すなわち三段論法の大前提を指す。
    そのうえ、カントは再び悟性と理性を対置して次のように言う。

    「悟性が規則による現象の統一の能力であるとするなら、
    理性は原理の下で悟性規則の統一の能力である。
    それゆえ、理性は決して直接経験あるいは対象に関わらず、悟性に関わり、その多様な認識に概念による統一を与える」(B359)。

    この理性はまた、よりわかりやすく、
    「それによって、悟性認識が相互にのみ、そして低次の規則が、他のより高次な(その制約が前者[低次の規則]の制約をその範囲に含む)規則に従属させられる」(B362)能力とも規定される。
    「規則の多様性と原理の統一性」(ibid)とも言われ、原理とは言わば、多様な規則がそこから導かれる上位の規則と言うことができよう。
    理性とはすなわち、規則の上位規則を導く能力である。

    これはオートポイエーシスの言葉で言うなら、
    理性とは、意識システムのコードに言及し、
    複数のコードを俯瞰的により上位のコードに包摂する能力ということになる。

    それはすなわち、意識システムに言及する認識システムの働きに他ならない。

    認識システムは同時にコード表象である記号を産出できるから、概念に名前を与えることができるのもこのシステムである。

    無論この際、意識システムの作動は自己言及を通じて繰り上がり、認識システムが概念コードによって認識表象を産出しているのであるが。

    言い換えると、我々がそれぞれに名前をつけて概念と読んでいるものは認識システムの概念コードであり、これによって初めて記号による思惟、したがって言語による思惟も可能になる。

    端的に言えば、理性とは認識システムであり、それゆえカントの言う「感性的存在者」、すなわち生物では人間のみがもつとされるのである。

    この意識システムと認識システムの区別は、現代の認知科学では「二重過程理論(dual process theory)」に対応するであろう。

    これは、
    推論には高速かつ並列的で自動的である潜在的な過程と、
    低速かつ継時的で注意を要する代わりに抽象的思考を可能にする顕在的過程
    の二段階がある、とするものである。

    言うまでもなく、
    潜在的過程が意識システムのレベル、
    顕在的過程が認識システムのレベルになる。』
    引用終了

    =============

    pipit雑感

    山下先生が考えてる意識システムと認識システムの違いを、私がきちんと理解できてるか自信ないんですよね。

    今の段階での私見を書きます。

    (1)主体に感性的直観として何か(たとえば色や音のクオリア的なもの)が現れたとき、
    現れたものは、主体にとって、まだ客体対象としての意味は持っていないとするのが、山下先生の考え方かなと思いました。

    (2)それで現れたものが、主体にとっての意味として分別される状態が、「意識システム」(悟性)と言ってるのではないかと思いました。

    意識システムにおいて、感じたものを考えてある規則に従って分別されてるとしたとき、

    (3)そのさまざまな規則を考察して、その規則がどのような原理に乗って動いているのか、を推論するのが、「認識システム」(理性)と言ってるのではないかと思いました。

    ※※※※

    人間にとっての言語が現れるのは、
    (3)の認識システムだとするのが、山下先生の考え方なのかな、と。

    (2)は、動物でも働いているシステムと捉えてられるのではないかと、思いました。

    関連するような山下先生の記述を引用しておきます。

    『感性は特に生命システムが感官を介してもつ環境からの影響の受容性で、動物レベルの悟性が意識システムであろう。』p171

    『とするならカントの言う悟性とは、意識システムにおけるコードに応じた表象産出とコード創発およびコード連鎖の能力と考えることができる。

    認識の場合、表象は環境からの攪乱に帰せられなければならないから、触発による直観でなければならず、かつ意識システムのコードすなわち概念に従っていなければならない。
    だからこそ「直観と概念はすべての我々の認識の要素を形成する」(B74)のであり、
    「内容なき思考は空虚であり、概念なき直観は盲目」(B75)と言われるのである。

    この意味において、すべての表象は、鈴木貴の言う、事物を自らの関心に応じて分類する「分節表象」(鈴木貴:一四二)になっている。

     ただし注意しておかなければならないが、意識システムのレベルのコードは本来コード表象化されていない。
    つまり認知科学で言う、言語化以前の「名無しの概念」である。
    カントは本を書いている関係上、概念に言語で名称をつけねばならないのであるが。
    そのためには、もう一度の自己言及が必要になる。
    それでも、このコード表象なきコードのみによる思惟は、脳をもつ脊椎動物になら可能と思われる。
    認知科学では「非言語化思考」と呼ばれるこの思惟は、意識システムが表象を創発したコードの一項に包摂し、それに連鎖するコードの一項に包摂される表象を産出する操作である。(略)』p30.31

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