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Re[14]: (第三章 批判と二つの視点)
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□投稿者/ pipit -(2022/02/13(Sun) 09:55:16)
| みなさまおはようございます。
山下和也先生の考察を、『カントとオートポイエーシス』p46、47より引用します。
『先に見たように、『純粋理性批判』は純粋理性が純粋理性自身を超越論的に反省する、という構造をもっている。 ここでただちに問題となるのは、この超越論的な反省が『純粋理性批判』において解明されている認識の構造に当てはまっていないということである。 『純粋理性批判』の根源的な前提は、直観と概観が両方なければ認識は成立しないというものだった。 しかし純粋理性の自己反省には、当然のように直観も概念も与えられない。 その意味で超越論的認識は、『純粋理性批判』で言われる認識ではない。 では、それを可能にするものは何か? 上述したように、カントは認識する純粋理性をシステムとして捉えている。 とするならば、その答えは認識するシステムのシステムそのものにとっての視点に他ならない。 そして本書第二章で見たように、カントの言う理性を認識システムとして理解できる。 『純粋理性批判』が何をしているかをオートポイエーシス論的に言うならば、認識システムがシステムそのものにとっての視点から認識表象の産出という自身の作動形式を記述している、ということになる。』 引用終了
この後、最後の文章
☆☆☆『純粋理性批判』が何をしているかをオートポイエーシス論的に言うならば、認識システムがシステムそのものにとっての視点から認識表象の産出という自身の作動形式を記述している、ということになる。☆☆☆
についての山下先生の詳しい説明に入りまして、pipitもその理解に努めようと思っています。が、その前に少し山下先生的用語の復習をします。
『かくして、カントの言う感性、悟性、理性という枠組みが、そのままオートポイエーシスの認識論の枠組みに対応させられたことになる。』同本p33より引用 とあるように、 オートポイエーシス認識論としての山下先生的考察として、
生命システム--------感性 意識システム--------悟性 認識システム--------理性
という枠組みで解釈されていくみたいですね。
意識や認識、悟性や理性、言葉にどのような意味を込めるか、人によって異なるところもあるかもなので、これから話題とされる認識システム(理性)に関しての山下先生の記述を引用しようと思っています。(p31-32)
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