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■21674 / inTopicNo.1)  Re[98]: : 身体−身振り
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/03/20(Sun) 15:38:04)
    〔新しい意義の運動的獲得としての習慣〕のつづき

    (p246)音楽の演奏家の例は、習慣というものが、思惟にも客観的身体に宿るのではなく、世界の媒介者としての身体に宿るということを、いっそう明らかにする。周知の如く、練達のオルガン奏者は、今まで使ったことがないオルガン、つまり鍵盤の数が彼の常用のものより多かったり少なかったり、音栓の配置が違っていたりするオルガンでも、使いこなすことができる。予定の演奏ができるようになるためには、一時間も練習すれば十分である。こんな短時間の訓練では、新しい条件反射が既成の機構に置き換えられるとは考えられない。もっとも両者がそれぞれのシステムを形づくり、変化が全体的である場合は別である。だがこういう場合には、反応が楽器の全体的把握によって媒介されているのだから、われわれは機械論にとどまっていることはできない。しからばオルガン奏者はオルガンを分析するのだと、つまり、音栓、ペダル、鍵盤、ならびに空間におけるそれらの相互の関係に関する表象をつくり保存するのだと、われわれはいうだろうか。しかし演奏会に先だち短時間試奏する間、彼はイスにすわりペダルを踏み、音栓をひっぱり彼のからだで楽器の寸法をとり、方向や大きさを自己に統合し、家に落ち着くように楽器のなかに身を落ち着けるのである。それぞれの音栓やペダルについて彼が学ぶことは、客観的空間における位置ではない。彼はそれらを彼の「記憶」に委ねようというのではない。試奏の間も演奏の間と同様、音栓、ペダル、鍵盤は、彼にとって、しかじかの情緒的、ないし音楽的な値の能力でしかなく、それらの位置にもこの値が世界のなかに現れる場所にほかならない。総譜のなかに示された楽曲の音楽的本質と、オルガンの周囲に実際に響きわたる音楽との間に、きわめて直接的な関係が打ち建てられ、その結果オルガン奏者の身体と楽器とは、もはやこの関係の通過する場所にすぎなくなる。今後は音楽がそれ自身によって存在し、他のあらゆるものは音楽をとおして初めて存在する、ということになる。ここには音栓の場所に関する「追憶」などの入る余地はない。そしてオルガン奏者が演奏するのは客観的空間においてではない。ほんとうに、試奏の最中の彼の動作は祝聖の身振りなのである。この動作は感情のヴェクトルを張り渡し、情緒の泉を発見し、預言者の身振りが聖域(templum)(訳注45)を区画するように、表出(expressif)空間を創造するのである。

    (p247)この際、習慣の問題はすべては、オルガン奏者が全く音楽に没頭しながら、この音楽を実現するはずの音栓やペダルをまちがいなくとらえるほどまで、動作の音楽的意義が一定の場所に沈殿することが、いかにして可能なのか、ということにある。ところで、身体はすぐれて表出的な空間である。私はある対象を捉えたいと思う。そうするともう、私が思いだにしない空間の一点から、私の手という把握の能力が、この対象に向かって動き始める。私が脚を動かすのは、それが私の頭から80センチメートル隔たった空間中の一点にある限りにおいてではなく、その歩行能力が下方に向かって私の運動志向を延長している限りにおいてである。私の身体の主要な諸領域は、それぞれ行動にささげられその意義にあずかっている。そして、常識はなぜ頭のなかに思想の座を置くのかという問いと、オルガン奏者はいかにしてもろもろの音楽的意義をオルガンの空間中に配分するのかという問いとは、結局同じ問題なのだ。しかしわれわれの身体は、単に他のもろもろの表出的空間とならぶ、一つの表出的空間にすぎないものではない。そのようなものは単に構成された身体にすぎない。われわれの身体は他のいっさいの表出的空間の源泉であり、表出の運動そのものなのである。すなわち、もろもろの意義に場所を与えることによってそれらを外部に投射し、それらがわれわれの手、われわれの眼のもとで、物として存在するようになる、その原因をなすものなのである。動物の場合のようにわれわれの身体は、生まれながらにしてきまった諸本能をわれわれに押しつけるわけではないが、少なくとも身体こそがわれわれの生に一般性の形態をあたえ、人格的な行為を延長して恒久的な資質たらしめるものなのである。こういう意味において、われわれの自然とは古い習慣ではない。というのも古い習慣は自然の受動性をすでに前提しているからである。身体とは、われわれが一つの世界をもつ一般的な手段である。ある場合には、身体は生命の維持に必要な動作だけで満足し、それに応じてわれわれのまわりに生物学的な世界を措定する。だがまたある場合には、これらの基本的な動作を活用して、それらのもつ本来の意味から比喩的な意味へと移行し、それらを通じて新しい意義の核心を表すこともある。これはダンスのような運動習慣の場合である。最後にまた、めざす意義が、自然に身体に備わった手段では、達せられない場合もある。こういう際には、身体は自分のために器具をつくらねばならならぬ。身体はそのまわりに文化的世界を投射する。あらゆる水準において身体は同じ機能を果たしている。つまり、自発性の束の間の運動に「反復可能な行動を独立した存在の幾分か」を貸与するという機能である。習慣とはこの基礎的な能力の一様態にすぎない。身体が新しい意義によって貫かれ、新しい意義の核心をわがものとしたとき、身体が了解したとか、習慣が習得されたとか、言われるのである。

    (p249)運動機能の研究の結果あきらかになったものは、要するに「意味」(sens)という言葉の新しい意味である。主知主義の心理学、ならびに観念論的哲学の強みは、知覚と思惟とが内在的な意味をもったものであって、たまたまあい伴って現れる内容どうしの外的な連合によっては説明されるものでないということを、難なく明らかにすることができたことにある。コギトはこの内面性の自覚であった。しかしまさにそのため、すべての意義は思惟作用として、純粋な自我の働きとして理解されるに至った。そして主知主義が経験主義を制することは容易ではあれ、主知主義はわれわれの経験の多様性、われわれの経験における不合理なものや、内容の偶然性を説明することができなかったのである。身体の経験は、普遍的な構成的意義によるのではない意味の賦課、つまりある内容に付着した意味を、われわれに認めさせる。私の身体こそ、一般的な機能として行動しながら、しかも実存時、疾病にも侵されうる、かの意味的な核心なのである。私の身体においてわれわれは本質と実存との結びつきを知ることを学ぶのであるが、この結びつきは一般に知覚のうちにも見出されるであろうし、その際いっそう完全に記述されねばならないだろう。

    (訳注45)預言者の身振りが聖域(templum)を区画する、という文は一見分かりにくいが、「預言者」の語源はaugure(鳥占師)。聖域(templum)とは、鳥占いの観測区域。つまり鳥占師の魔術的仕種によって一定区間が聖別され、未来を予兆する空間となること。

                   ⁂

               おしまいおしまい〜

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■21673 / inTopicNo.2)  Re[97]: : 身体−身振り
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/03/20(Sun) 15:33:49)
    〔新しい意義の運動的獲得としての習慣〕p.241−249

    身体像の修正ならびに更新としての習慣は、総合をつねに知的総合として理解しようとする古典的諸哲学に対して、大変な難問を提起する。もろもろの要素的な運動や反応や「刺激」を習慣のうちに統合するのが、外的連合ではないことは確かである。機械論的な諸理論はいずれも、学習が組織的におこなわれるという事実と矛盾する。学習主体は、個別的な運動を個別的な刺激に接合するのではなくて、ある形態の状況に対してある型の解決によって答えるという能力を獲得するのである。というのも、状況は場合で少なからず違うだろうし、応答の運動も時に応じて別の実行器官に委ねられることもあろうし、状況にせよ応答にせよ、さまざまな場合にあって相互に類似しているのは、それらをつくる要素の部分的な同一性によるよりも、遙かにそれらの意味の共通性によるからなのである。それまではまず習慣の諸要素を組織し、そのあげくにそこから身を引いてしまう悟性の作用といったものを、習慣の起源に設定せねばならないだろうか。例えば、あるダンスを習いおぼえるということは、分析によって運動の方式を見出し、ついでこの観念的な設計図に従い、歩行とか走行とかいった既得の運動の助けを借りて、かの運動を再構成することだろうか。しかし、新しいダンスの方式が一般的な運動機能の若干の要素を自己に統合するためには、まずそれ自身がこれに先だっていわば運動機能による是認*を受けていなくてはならない。よくいわれているように、運動を「捉え」(kapiert)「了解する」のは身体なのである。習慣の習得はなるほど一つの意義の把握に違いないが、しかしこれは運動的な意義の運動的な把握なのである。正確にいうとそれはどういうことなのか。帽子をかぶる婦人は帽子の羽根とそれを折る恐れのある物との間に、安全間隔を保つが、彼女はあらかじめこの距離を見積もるわけではない。われわれの手の所在をわれわれが感ずるように、羽根の所在を彼女は感じているのである。車を運転する習慣を私がもっているならば、私はある道路に乗り入れるにあたって、車の泥よけの幅と道路の幅とを比較しなくても、「通れる」ことを見てとれる。戸口を通過する際に、戸口の大きさと私の身体の大きさとを比較しないのと同様である。帽子や車は、他の対象と比較することによって大きさや嵩(かさ)が規定されるような対象では、もはやなくなっている。それらは嵩ばる力であり若干の自由な空間の要求となっている。これと相関的に、地下鉄の昇降口や道路は拘束する力となり、直ちに、私の身体とその付属物にとって通行可能な、もしくは不可能なものとして現れる。盲人の杖は彼にとってはもはや一つの対象ではなくなっている。もはやそれ自身としては知覚されず、その先端は感受性をもった地帯に変わってしまっている。杖は触覚の幅と範囲を増大させ、まなざしに似たものとなっている。対象を探るにあたって、杖の長さは、はっきりした形で中間項として介在するのではない。つまり盲人は杖の長さによって対象の位置を知るというより、むしろ対象の位置によって杖の長さを知るのである。対象の位置は、杖をそれにあてる動作の大きさによって直接与えられえる。そして、この動作の大きさのなかには、腕の伸張能力のほかに杖の作用半径が含まれている。私はステッキの使用に馴れようとするときには、それを試みに使って、若干の対象に触れてみる。しばらくたつと、私はそれを「掌中」におさめて、何が私のステッキの「射程のうち」にあり、何が外にあるかがわかるようになる。この際、すばやい見積もりが、つまりステッキの客観的な長さと到達されるべき目標の客観的な距離との間の比較が問題なのではない。空間のさまざま場所は、客観的な位置といて、われわれの身体の客観的な位置への関係によって定義されるのではなく、われわれの狙いもしくは動作の可変的な射程を、われわれの周囲に書き留めているのである。帽子、車、杖などに馴れるということはそれらに身を落ち着けること、あるいは逆にいうと、それらをして自己の身体の嵩ばり方にあずからしめることである。習慣とは、われわれの「世界への存在」を膨張させるわれわれの能力、あるいは新しい器具をおのれに添加することによって実存を変えるわれわれの能力、の表現である。われわれはタイプの文字盤のどこに単語を組み立てる文字があるかを示すことはできなくても、タイプが打てるようになることができる。タイプが打てるということは、したがって、それぞれの文字の文字盤上の位置を知っていることではないし、いやそれどころか、われわれの眼前に文字が現れると同時に誘発される条件反射を、それぞれの文字について習得していることですらないのである。認識でも自動機制でもないとしたら、そもそも習慣とは何であろうか。手のなかにある知、つまり身体的努力に対してしか与えられず、客観的な指示によってはいい表すことができない一種の知が問題なのだ。手足の一つがどこにあるかをわれわれが知っているように、タイピストは、文字盤のどこに打つべき文字があるかを知っているのであるが、それはなじみの知によるものであって、客観的空間における一つの位置を数える知識に基づくものではない。タイピストの指の移動は、客観的に記述されうる空間的起動としてタイピストに与えられているのではない。彼女にとっては、それは表情によって他の運動から区別される、運動機能のある転調を意味するのだ。あたかも書かれた文字の知覚が同じ文字の表象を呼び起こし、これがまたこれで、文字盤上の文字を打つのに必要な運動の表象を喚起するかのような、問題のたて方がしばしばおこなわれている。だが、こうしたいい方は神話に類するものだ。

    私が差し出されたテキストを一覧するとき生じるのは、表象を呼びさます知覚ではない。典型的な、もしくは親しい表情をもった、もろもろのまとまりがその場で自然と出来上がるのである。私がタイプライターの前に座ったとたんに、私が読んだものをやがてそこにおいて演ずることになる運動的空間が、私の手の下に広がるのだ。読まれた単語は視覚的空間の一つの転調であり、運動の遂行は手の空間の一つの転調である。そして問題のすべては、どのようにしてある表情をもった「視覚的な」まとまりが、ある様式の運動上の呼び求めることができるのか、そのようにして、それぞれの「視覚的」構造がしまいにその運動的本質をもつようになるのか、しかもこの際、単語を運動に翻訳するために、単語の綴りを読んだり、運動を分解*したりする必要がないのはどうしてか、この点を知ることにっかっている。しかしながら、この習慣の能力は、一般にわれわれが自分の身体に対してもっている能力から区別されるものではない。もし私が自分の耳や膝にさわれといわれるなら、私は最短の途を通って耳や膝に手を運ぶであろうが、この際、出発点における私の手の位置、私の耳の位置、それに両者の間の行程を表象する必要はない。習慣の習得において「了解」するものは身体であると、われわれはすでに述べた。もし了解することが感覚与件を一つの観念のもとに包摂にすることであり、また身体が一個の対象であるなら、このいい方は不条理のように見える。しかしまさに習慣という現象こそ、「了解」と身体とに関するわれわれの概念の改訂へとわれわれを誘(いざな)うものなのだ。了解することは、われわれがめざしているものと与えられているものとの間の、つまり志向と実現との間の、一致を体験することであり、――そして身体とは一つの世界のなかへのわれわれの投錨である。私が手を膝にもってゆくとき、運動の各瞬間に私が体験するのは、一つの志向の実現なのであるが、この志向がめざしていたのは観念としての膝ではない。いや対象としての膝ですらない。私の身体の現在の、現実の一部分としての、つまり結局は世界に向っての私のたえざる運動の通過点としての、わたしの膝なのである。タイピストが文字盤の上で必要な運動をおこなうとき、この運動は一つの志向によって導かれているが、しかしこの志向は文字盤のキーを客観的な位置として措定するのではない。タイプを学ぶということは文字盤の空間を身体的空間に統合することであるといわれるが、これは文字通り真実である。

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■21672 / inTopicNo.3)  Re[96]: : 身体−身振り
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/03/20(Sun) 15:29:12)
    〔身振りの了解〕p.305〜308

    現代の心理学は、われわれが目撃する身振りの意味を、われわれが自己自身のうちに、つまり自分の内的経験のうちに、探し求めるのではないということを、いみじくも明らかにした。怒りの身振りにせよ、おどしの身振りにせよ、私はそれを了解するために、私はみずから同じ身振りをしたときに体験した感情を想起するのではない。私は怒りの表情を内部からでは十分に知るというわけにはいかないのだから、類似連合にせよ、類推にせよ、決定的な要素が欠けている。――そのうえ、私は怒りやおどしを、身振りの背後にかくれた心的事実として知覚するのではない。私は身振りのなかに怒りを読むのである。身振りは私に怒りを思わせるのではない。身振りが怒りそのものなのである。しかしながら身振りの意味は、例えば絨毯の色が知覚されるように知覚されるのではない。もしそれが一つの物のように私に与えられてとするなら、なぜ私による身振りの了解がたいていの場合は人間的身振りに限られているのかわからなくなる。私は犬の性的身振りを「了解」しない。黄金虫やかまきりのそれはなおさらのこと、「了解」できない。私は原始人や私の生活環境からあまりに隔たった生活環境における情緒表現でさえ了解できない。たまたま児童が性的情景を目撃したような場合、彼は情欲と情欲を表現している身体の態度の体験をもたずとも、この情景を理解できる。しかし、このような行動が可能となる性的成熟の段階に児童がまだ達していないときには、性的情景は突飛な、不安な気持ちをそそる光景にすぎないだろうし、およそ意味をもたないだろう。なるほど、時として他人についての知識が自己についての知識を促進する場合がある。外的光景が見せる実例も、児童の内的諸可能性に出会わなければ、注意されずに見逃されてしまうだろう。

    (p306)身振りの意味は与えられるのではなくて了解される、つまり、目撃者の作用によって捉え直されるのである。この作用を正しく理解し、それを認識作用と混同しないことが肝心で、問題のすべてはここにかかっている。意思伝達、あるいは身振りの了解は、私の志向と他人の身振りとの間の、私の身振りと他人の振舞いのなかに読みとられている志向との間の交互性によって獲得される。それはあたかも他人の志向が私の身体に住まい、私の志向が彼の身体に住まうが如くである。私が目撃している身振りは志向的対象の輪郭を大ざっぱに描きだしている。私の身体の諸能力がこの対象に適合し、それと一致するとき、この対象は現実的となり、完全に了解されるのである。身振りは私の前に一つの問いとして現れ、私に世界の若干の感覚的な点を示して、この点をたどって身振りに追いつくようにと私を誘うのである。私の振舞いがこの道のなかにおのれ自身も道を見出したとき、伝達が成し遂げられる。私による他人の確認と他人による私の確認とが同時に行われる。この際たいせつなことは、物の知覚的経験についてと同様、主知主義的分析によってゆがめられた他人経験をもと通りの姿に戻すことである。私が一つの物――たとえば一つの暖炉――を知覚するとき、そのさまざまな見ざまの一致が、実測図としての、そしてまたこれらすべてのパースペクティヴの共通の意義としての、暖炉の存在を、私に結論っしめるのではなく、むしろ逆に、私は物をそれ固有の明証性において知覚するのであり、そしてまたさらにそれだからこそ、知覚的経験の展開によって互に符合しあう眺めの無限の一系列が物に関して得られるはずだと私は確信するのである。知覚経験を通じて保たれる物の同一性は、探査の運動をなしつつある自己の身体の同一性のもう一つの相にすぎず、したがってこれと同じ種類のものなのだ。身体像と同様、暖炉ももろもろの等値性のシステムであるが、これは何らかの法則の認知によるものではなくて、身体的現存の体験に基づくものである。私は私の身体をもって諸事物の間に加わり、諸事物は受肉した主体として私と共存する。そして諸事物のさなかでの私のこの生は、科学的対象の構築とは何の共通性もない。これと同様に、私は他人の身振りを知的解釈の作用によって理解するのではない。意識と意識との交信は、彼らの経験の共通の意味に基いているのではなく、むしろ逆にこの意味をも基礎づけているのである。私が光景に身を委ねる運動は、根源的なもの、ほかの作用に還元できないものと、認めなくてはならない。意味の定義や知的な仕上げに先だつ一種の盲目的な認知において、私は光景に加わるのである。各世代は次々と、性的な仕種を、例えば愛撫の仕種を、哲学者がその知的な意味を定義する以前に「了解」したり、実行してきたのである。哲学者によれば、愛撫の仕種の知的な意義とは、相手の受動的な身体をそれ自身のうちに閉じ込め、快という無気力状態に保ち、それが諸事物と他者に向って自己を企投する間断なき運動を中断せしめることなのだが。私が「物」を知覚するのは私の身体によってであるが、それと同様に、私が他人を了解するのも私の身体によってである。こうして「了解」された身振りの意味は、身振りの背後にあるのではない。それはこの身振りが描きだすところの、そして私が引き継いで自分のものとするところの、世界の構造の一つである。意味は身振りそのものの上に展開する。――知覚経験において暖炉の意義が、感覚的な光景のかなたに、つまり私のまなざしと私の運動が世界のなかで見出すがままの暖炉そのものかなたに、あるのではないのと同様である。

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■21671 / inTopicNo.4)  Re[95]: : 身体−身振り
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/03/20(Sun) 15:15:45)
    残りのページは、メルポンの『知覚の現象学』のなかから、わたしが「身体−身振り」と題して、書き写したのがあるんでそれを紹介しときま〜す。
    長いから分けて、

    〔身体の統一性と芸術作品の統一性〕p251−

    空間に関してすでに述べられた相互に含みあう構造が、身体の統一のなかにも見られる。私の身体のさまざまな諸部分、その視覚的、触覚的、運動的な相は、単に並列しているのではない。私がテーブルに向かって座り、電話器に手を伸ばす際の、対象に向かっての手の運動、胴の立て直し、脚の筋肉の収縮は、相互に含みあっている。私がある結果を欲するならば、さまざまな課題がおのずから、それに関係のある身体諸部分に分配される。この際いくつかの可能な組合せが、あらかじめ等値のものとして与えられる。例えば、もっと腕を伸ばすなら、私は肱掛椅子にもたれかかったままでいることができるが、また私は前かがみになることも、半分立ち上がることもできる。共通の意義から出発して、これらのいずれの運動もわれわれの意のままである。

    (p252)それゆえ幼児は、把握を最初に試みる際に、自分の手を見るのではなくて対象に注視する。彼らの身体のさまざまな部分が知られるのはひたすらそれらの機能的な意味においてであって、それらの整合は学ばれるものではない。同様にして、私がテーブルに座っているとき、私はテーブルの下にかくれている私の部分を即座に「可視的にする」ことができる。私は靴のなかで足を曲げると同時に、それを見る。私がいまだかつて見たこともない身体部分に対してすら、私はこのような能力をもっている。

    ある患者たちが内側から見た自分自身の顔の幻覚をもつのは、こういう風にしてである。われわれが自分自身の手の写真を認識することができず、また実に少なからぬひとびとが他人の筆跡にまじった自分の筆跡を見わけるのに躊躇するというのに、誰でも自分のシルエットや映画に映った自分の足どりを認知できないのに、われわれは見えない身体部分の視覚な表象物を、苦もなく認知するのである。自己像幻視(héautoscopie)(訳注46)
    の場合、患者が眼の前に見る二重身は若干の顕著な細部において必ずしも再認されているわけではないが、それでも患者はそれが自分なのだとう絶対的な感じをもっており、したがって自分の写しが見えると断言するのである。われわれは皆いわば内的な眼でもって自分を見ている。この内的な眼は数メートルの距離から、われわれを頭から膝まで見つめている。こういう次第で、われわれの身体諸部分間の結びつき、ならびに視覚的経験と触覚的経験との結びつきは、漸次的な集積によって出来上がるのではない。私は「触覚の与件」を「視覚の言語に」もしくはこの逆に、翻訳するのではない。

    (p253)私は私の身体の諸部分を一つ一つ集め組み合わせるのではない。この翻訳やこの組み合わせは、私において一度に決定的になしとげられているのであり、実はそれらこそ私の身体そのものなのである。しからば一個の立方体のいっさいの可能的なパースペクティヴをその幾何学的構造からしてあらかじめ知っているように、われわれは自分の身体をその構成法則によって知覚するのだというべきであろうか。しかし――外的対象のことはさておき――自己の身体は、一つの法則のもとへの包摂とは違った流儀の統一を、われわれに教えてくれるのである。外的対象が私の前にあって、その姿の組織的に変わるありさまを眼前にさらされている以上、私にはそのすべての諸要素を心のなかで通覧することが許されており、したがって外的対象は少なくとも第一近似(非常に似通っていること)においては、これらの諸要素の変化の法則と定義される。しかし私は私の身体の前にいるのではない。私は私の身体のなかにいる。いやむしろ私は私の身体である。それゆえ、そのさまざまな変容もこの変容の不変式も、あからさまには措定されえない。われわれはただ単に、われわれの身体の諸部分間の関係と、視覚的身体と接触的身体との間の相関関係を静かに見つめるのではなくて、われわれ自身こそ、この腕と脚とを一体化している当のものであり、それらを見ると同時にそれらに触れるものなのである。身体は、ライプニッツの言葉をかりれば、その諸変化の「有効法則」(loi fficase)(訳注47)である。もし自己の身体の知覚においても解釈ということがなおも言われうるとすれば、身体自身が自己を解釈すると言わなくてはならないだろう。ここでは「視覚的与件」はその触覚な意味をとおしてのみ、また触覚的与件はその視覚的意味をとおしてのみ、現れる。それぞれの局所的な運動は全体的な体勢を地として、その上にのみ現れる。また、あらゆる身体的な出来事は、それを顕わにする「分光器」がどんなものであれ、ある有意味的な地の上にのみ現れ、そこでは、その最も遠い反響といえども少なくとも暗示され、感官相互の等値の可能性が直接的に与えられているのである。私の手のさまざまな「触覚的感覚」を統合し、それらを同じての視覚的知覚にも、身体の他の諸部分の知覚にも結びつけるものは、私の手の仕種のある様式であって、またこれは、私の指の運動のある様式を含み、他方では私の身体のある態度に寄与しているのである。

    (p254)身体を物理的対象になぞらえることはできない。むしろ芸術作品になぞらえるべきである。絵画あるいは音楽においては、観念は色彩や音の展開による以外の仕方では伝達されえない。私がセザンヌの作品の講釈を読んだだけで実際に彼の作品に接したことがなければ私は可能的な多くのセザンヌを思い浮かべ、そのいずれを真のセザンヌともきめかねるであろう。私に唯一の実在のセザンヌを与えるのは、セザンヌの絵画の知覚であり、この知覚においてかの講釈もその充実した意味を獲得するのである。詩や小説は言葉でできていても、やはり事情はこれと違わない。周知のとおり、詩は散文にいいかえられる第一の意義をもっているにしても、読者の心のなかでは、それをまさに詩として規定する第二の存在を生きるのである。談話は単に語によって意味を表すばかりではなく、またアクセント、語調、身振り、顔つきなどによってもこれを表現するのであり、そして意味のこの補充はもはや話し手の思想ではなくて、その思想の源泉と、彼の根本的なあり方とをあかすものであるが、これと同様に詩はたまたまの物語り風の、意味表示的なものであっても、本質的には実存の転調なのである。叫びは自然が与えたままの身体を、つまり表現手段としては貧弱な身体を使うのであるが、これに反して詩は言語を、それも特殊な言語を使用し、この点で叫びから区別される。このような言語を使用するおかげで、実存の転調は表現されると同時に消散してしまうのではなく、詩的装置のうちに自己を永遠に保存する手段を見出すのである。しかし詩はわれわれの現実生活で使われる身振りから離れるとはいっても、いっさいの物質的な支えから離脱するわけではない。そのテキストが正確に保存されないなら、それは決定的に失われてしまって取り返しがつかないことになろう。詩の意義は何ものにも拘束されずに、理念の天空に住まうものではない。それは脆弱な紙の上に記された単語の間に閉じこめられている。こういう意味において、いっさいの幻術作品と同様、詩も物のように存在するのであって、真理のように存立するのではない。小説について言うと、なるほど小説の筋書きは要約することができ、小説家の「思想」は抽象的に定式化されうるものであるが、この概念的な意義は、いっそう広汎な意義から抜きとられたものである。ちょうどある人物の人相書が彼の顔つきの具体的な相貌から抜きとられたものであるのと同様である。小説家の役割は諸理念を繰り広げることでもなければ、登場人物を分析して見せることですらない。それは人間の間の出来事を提示し、イデオロギー的な注釈を加えることなく、この事件を成熟させ、爆発させることであり、しかもこの際、説話の順序やパースペクティヴの選択を少しでも変えたら、事件の小説的な意味も変わってしまうという程でなくてはならない。一片の小説、詩、絵画、音曲は、それぞれ個体である。つまり表現と表現されるものとを区別することが許されない存在、したがってじかにそれに接することよってしか、その意味に近づくことができない存在であり、それらの存する時間的・空間的な場所を離れずに、その意義を放射するような存在なのである。われわれの身体が芸術作品に較べられるのは、この意味においてである。身体はもろもろの生きた意義の結び目であって、若干数の共変項の法則ではない。上膊のある触覚的経験は下膊と肩の触覚経験を意味し、同じ上膊のある視覚的な姿を意味している。しかしこれは、一個の立方体の遠近法的に見られたさまざまな視覚像が立方体の理念にあずかるように、さまざまな触覚的知覚が、そしてまた触覚的知覚と視覚的知覚とが、すべて同一の知的に理解された腕にあずかるからではない。そういうではなくて、見られた腕と感触された腕、ならびに腕のさまざまな部分が、皆いっしょになって、同一の身振りをつくりあげているからである。

    (訳注46)自己の姿を向こうに見る幻覚、二重身(Doppelgänger)と同じ。

    (訳注47)単に出来事を可能ならしめる法則ではなくて、実際に生ぜしめる法則「有効」(efficase)の使い方としては、神学用語といてgrâce efficaseがあり、grâce sufficaseが善をなす可能性のみを与えるのに対して、これは善の実現そのものを与える恩寵をいう。


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■21670 / inTopicNo.5)  Re[94]: : メルポンの現象学
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/03/20(Sun) 13:42:09)
    現象学っていうの、物事の「見方の方法」を呈示してるように思う。
    だから、“使うもの”として、その見方の方法を使っていろんなものを見て見る、っていうことかな。
    「現象学的還元」「エポケー」「内的時間意識」「過去把持−未来予持」「受動的総合−能動的総合」「ノエシス−ノエマ」「対化」「間(相互)主観性」などはみんな「見方の方法」なんだと思う。

    デカルトの「方法的懐疑」、カントの「批判」っていうのも方法かな?

    方法っていうのは、わたしが〈すること〉において、に関係することなんだと思う。
    〈された(した)もの〉の手前にあるもの、って見ることもできるかな。

    だから、現象学のは、「箴言」(戒めの言葉。教訓の意味をもつ短い言葉。格言。)みたいなのとはちょっと違う感じ。こういうのは〈されたもの〉に入るんだと思ってる。

    メルポンのを想い出す。
    「地の上に図を描いたら、それをまた地に戻してみる」とか「つねに最初からやり直す」とか「永遠の初心者」とか、

    【フッサールの末刊の手稿なかで、哲学者は永遠の初心者であるともいわれている。すなわち、哲学者は世人や科学者たちが知っていると信ずるものを、何によらず、既知のこととは見なさない。哲学がかつて真理をいいえたにせよ、かかる真理おいても、哲学は自己の知識を既知のものと考えるべきではない。哲学とは哲学自身の出発点に立ち帰って、繰り返しこれを体験し直すことである。哲学のすべてはこの端緒を記述することに存する。そして結局、根本的な反省とは、非反省的な生に対する、反省自身の依存性を自覚することなのだ。非反省的な生こそ、反省の出発状況であり、恒常的な状況でもあり、終局の状況でもある。】

    そして、
    【現象学とは本質の研究である。現象学によれば、あらゆる問題は、もろもろの本質、例えば知覚の本質、意識本質などを定義することによって解決されるはずである。しかし現象学とは、また、本質を実存のなかに戻し、人間と世界とを理解するには、それらの「事実性」から出発するほかないと考える哲学でもある。それは自然的態度から生ずるさまざまな主張を理解するために、かえってこれらの主張を保留する超越論的な哲学ではあるが、しかしまた、世界がつねに反省に先だって、廃棄されえない現存として、「すでにそこに」あることを認める哲学でもある。そして世界との、この素朴な触れあいを再発見し、結局はそれに哲学的な資格を与えることに、あらゆる努力を傾注するのである。現象学は、「厳密学」たろうとする哲学の野心であるが、またそれと同時に、「生きられた」空間、世界についての報告でもある。それは、われわれの経験の心理学的な発生や、科学者、歴史家、もしくは社会学者が提供しうるような、その因果的な説明を願慮せずに、経験をあるがままに、直接、記述しようという試みである。】

    そう、メルポンの現象学は、わたしについてのフィロソフィア、ってわたし見てる。

    あ、現象学の、こういうのもあった、
    『デカルト的省察』の訳注に、
    〔フッサールは『論理学研究』においてもこう述べていた。「哲学者はまさに《自明なこと》の背後に最も困難な諸問題が隠れていることをも当然承知していなければなるまい。逆説的ではあるが、しかし深い意味をこめて、哲学とは平凡な事柄についての学であるとさえ言えるほどである」と。〕

    現象学って、普通に大人にった人には「当たりまえ」となってることを考えてるんじゃないかって。
    だから一般的大人私にとっては、ふつうに、いまさら何よ、ってなるんかもね。

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■21669 / inTopicNo.6)  Re[93]: :〈すること〉と〈されたもの〉
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/03/20(Sun) 13:37:39)
    〈するもの〉と〈されるもの〉、〈すること〉によって〈されたもの〉が発生する。

    精神の働きに登場するものたち、感覚、知覚、記憶、想起、予期、想像、思-考‥‥、これらについてもこれで見ていくこともできるかも。

    たとえば、〈するもの〉を「知覚」ってして見ると、

    知覚〈するもの〉と〈されるもの〉、知覚が〈すること〉によって、知覚〈されたもの〉が発生する。

    知覚されているもの=端的な知覚+{想像・想起・予期}←感性的意味
    において、
    〈端的な知覚〉が〈するもの〉として、〈されるもの〉は感覚、端的な知覚が〈すること〉によって〈端的な知覚されたもの〉が発生する。さらに、〈端的な知覚されたもの〉に、{想像・想起・予期}がそれぞれ〈するもの〉として〈することに〉よって{想像・想起・予期されたもの}が付帯となって、〈知覚されたもの〉が構成されている。
    そして、
    思-考を〈するもの〉として、思-考に対して〈されるもの〉は〈知覚されているもの〉。
    ・・・
    こういうふうにして関係性が絡み合っていくのね。

引用返信/返信 削除キー/
■21668 / inTopicNo.7)  Re[92]: :〈すること〉と〈されたもの〉
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/03/20(Sun) 13:31:45)
    いろいろ見てきて、
    〈するもの〉と〈されるもの〉、〈すること〉によって〈されたもの〉が発生する。
    っていう見方、わたしに浮かんだんだけど、これいろいろに使える気がしてる。

    「主体」と「客体」の関係において、「主体」を〈するもの〉として、「主体」に対して〈されるもの〉を「客体」ってして見ることもできるよね。さらに「主体」を「私」ってして、「客体」を「あなた」ってして見ると、

    私にとってあなたは客体
    あなたにとって私は客体
    私とあなたの関係性はお互いに主体であり客体となってる。

    私とあなた、私がすることによって、私にされたものが発生する。
    私とあなた、あなたがすることによって、あなたにされたものが発生する。

    私にされてるものは、あなたのすることによって、あなたにされたものが発生する。
    あなたにされてものは、私がすることによって、私にされたものが発生する。
    No15014

    私とあなたが会話をしているとき、
    私は私の身振りを、あなたはあなたの身振りを、見ることはできない。
    私にみえているのはあなたの身振り、あなたに見えているのは私の身振り。

    相互(間)主観的に私とあなたは存在している。って見ることもできるよね。

引用返信/返信 削除キー/
■21667 / inTopicNo.8)  Re[91]: : 感性的意味
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/03/20(Sun) 11:56:00)
    感性(感-知覚-記憶)の領域で生まれる意味を感性的意味って言うことにしたんだけど、もうちょとこれについて。

    一般乳幼私は、思-考の領域が十分に発育する以前に、私の外にあるさまざまな「物事」を体験するなかで、「それ」の意味を、感性の領域ですでに形成してるんだと思う。
    こういうのって、〈すること〉自体においてアプリオリだとわたし思う。〈されたもの〉は経験によるものだけど。

    素朴な一般私は経験のなかで世界を分類し名づけ、“そのようなもの”という感性的意味を構成してゆく。こういうのって、経験によるものではない(アプリオリ)って見れる、っていうことになるのかな。

    たとえば、
    「愛ってなあに?」って聞かれたとき、ふつう“言葉で”答えようとするよね。わたし「愛」っていう「語」を知ってるしその意味がわたしのなかに“なんとなく”あるんだけど、いざそれを“言葉で”表現しようとすると、ちょっとつまずくのね。わたしのなんかになんとなくある「愛」の意味、これを〈感性的意味〉って呼んでる。“そのようなもの”っていう意味ね。「愛」の意味を“言葉で”表現されたものが〈思-考的意味〉っていうことになるのかな。
    素朴な私はふつう感性的意味で会話してるんじゃないかしら。

    「愛」っていう実際には〈見えないもの〉でなくて、実際に〈見えるもの〉でも同じことが言えるかも。
    現前しない「ハサミ」、「ハサミってなあに?」って聞かれたら「紙かなんかをはさんで切る物」って〈思-考的意味〉を“言葉で”表現したとしても、それだけでは「ハサミ」の意味を十分に表現しきれてない気がする。
    実際にハサミをも持ってきて、「はい、これがハサミよ、ほらこの紙を切ってごらんなさい」っていわれて、体験することによって「ハサミ」の意味が“そのようなもの”として形成されていくんだと思う。あ、このとき「ハサミ」っていう語がハサミの意味のなかに宿る

    わたしにとって、感性的意味を “言葉だけ”で充実的に表現するのはとっても難しいこと。

    知性(思-考)的意味っていうのは、たとえば辞書かな。語の意味がいっぱい書いてある。
    No11365

    メルポンの
    〔言葉のざわめきの下の原初的な沈黙を再発見し、そしてこの沈黙をやぶる身振りを描き出すこと〕
    に習って、感性的意味っていうのがわたしに再発見できたのはうれしい。

引用返信/返信 削除キー/
■21666 / inTopicNo.9)  Re[90]: : 感性的意味
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/03/20(Sun) 11:46:44)
    No21613で、
    意味を〈感性的意味〉と〈思考的意味〉って分けて見て、
    知覚されているもの=単なる知覚+{想像・想起・予期}←感性的意味
    ってして見たんだけど、
    ここんとこ、もうちょっと書いとく。

    メルポンは『知覚の現象学』のなかで、
    【運動機能の研究の結果あきらかになったものは、要するに「意味」(sens)という言葉の新しい意味である。】
    って言ってる。
    「sens」っていうのはフランス語かな?
    英語の「sense」でネットで調べたら、

    sense
    〔動物の機能としての〕感覚(器官)、五感(の一つ)
    〔感覚器官から受け取る〕感覚、知覚、感触、感じ
    《senses》官能、快楽感覚
    《one's 〜》平常心、本心、正気
    分別ある[理にかなった]判断
    〔ある分野の〕鑑識力、認識力、センス
    〔道徳や倫理に関する〕分別、良識
    〔正しい決定ができる〕知性、判断力
    〔漠然とした〕印象、感じ、予感
    〔全体の〕同意、一致した意見
    〔話などの〕要点、要旨、趣旨
    〔言葉が伝える一つの〕意味、意義
    《哲学》意義、内包的意味

    っていうのがあった。
    で、
    「センス」を大きく分けて「感性(感-知覚)的センス」と「知性(思-考)的センス」がある、ってして見た。

    【「意味」(sens)という言葉の新しい意味】から、
    「感性(感-知覚)的センス」を〈感性的意味〉ってして見てるんね。
    「感性」に対しては「知性」なんだろうから、「知性(思-考)的センス」は、ひとまず〈知性的意味〉ってしとくかな。でも、「知性」っていうの、〈知る性〉ってすると、「感性」も〈知る性〉になるじゃないかって、わたし思ってるから、ここで言う〈知性的〉っていうのは〈思-考的〉っていう意味ね。
    もっとも〈感-知覚的意味〉と〈思-考的意味〉ってすればいいんだけど、そうすると{想像・想起・予期}が抜けちゃうから、いまのところこういうふうにするのはやめてる。
    あと「感性(感-知覚)」と「知性(思-考)」の両者には「記憶」が絡んでるって見ているから、正確には「感性(感-知覚-記憶)」と「知性(思-考-記憶)」ってなるんだけどね。

引用返信/返信 削除キー/
■21657 / inTopicNo.10)  Re[89]: :ふと、
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/03/19(Sat) 19:07:26)
    なんか思いついちゃった

    〈感性を知ろうとする知性(思-考)〉と〈知性(思-考)を知ろうとする知性〉
    前者が現象学で、後者が主知主義、みたいな。
引用返信/返信 削除キー/
■21655 / inTopicNo.11)  Re[88]: :地の上の図
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/03/19(Sat) 18:06:15)
    「地の上の図」
    わたしの例で見て見ると、

    白いシャツにオレンジ色の染みがあるのに気づいた。
    あ〜、どうしよう〜、この染み落ちるかな〜?
    え、でもどこで付いたの?
    ・・・・
    あ、そうだ!お昼にナポリタン食べたんだっけ、きっとそのとき付いたのね。

    もしシャツがオレンジ色だったら、その染み、わたし気づかなかったかもしれない。

    知覚=単なる知覚+{想像・想起・予期}
    にあてはめて見ると、
    〈単なる知覚〉=「オレンジ色の染み」=「図」
    「白いシャツ」=「地」
    〈単なる知覚〉にも「地」が存在している、って見ることにした。

    こう見たとき、〈単なる知覚〉っていう表現だとなんかちょと違う感じがしてきた。
    で、
    「端的」の意味をネットで調べてら、「はっきりとしているさま、明確にそれと分かるようなさまなどを意味する表現。」ってあった。
    こっちの方が「地の上の図」の意味に近い感じがしてきたんで、最初のに戻すね。
    知覚=端的な知覚+{想像・想起・予期}
    って。

    {想起}は、お昼にナポリタンを食べた、っていう記憶、
    {予期}は、この染み落ちるかな〜、っていう未来、
    ってして見たんだけど、

    このばあいの{想像}ってなんだろう?
    「シャツ(地)の上の染み(図)」は〈端的な知覚〉として〈見えてるもの〉、想像は「そこ」には〈見えてないもの〉、ってしたんだから、ん〜ん、なんだろう?
    「ひょとしたら他のところにも染みがついてるんじゃない?」って“想像する”っていうことかな?
    で、他のところも調べて見たら「あ、こんなところにも染みついてる〜、も〜イヤ〜」かな?

    メルポンはこういうことを言ってるんかもしれない。

    No18521、No18523(p83)で、現象学の「地平」を見てきたけど、
    【体験はすべて「地平」をもっている】
    って見ることにしとく。

引用返信/返信 削除キー/
■21653 / inTopicNo.12)  Re[87]: :地の上の図
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/03/19(Sat) 17:25:16)
    わたしの物語りにもどりま〜す。

    メルポンの『知覚の現象学』からのを書き写しね。

    【知覚の研究を始めるにあたって、われわれは、「感覚」という一見、直接的で明瞭に思われる概念に、言語の中で出会う。例えば、私は赤、青、熱さ、冷たさを感覚する、という。だが、やがてこの概念がおよそ不明瞭な概念であり、古典的な分析が知覚という現象を取り逃したのも、この概念を認めたためであることがわかってこよう。・・・
    ・・・
    一様な地(fond)の上に白いしみがあるとしよう。しみを構成するすべての点は、それらを「図」(figure)たらしめるある「機能」を共有している。図の色は地の色より濃密で、いわば抵抗性が強い。白いしみの緑はそれに「属して」いて、同じようにそれと隣接する地には結びついていない。しみは地の上に置かれているように見え、地を中断してはいない。いずれの部分もそれが実際含んでいるより以上のものを告知しているのだから、こんな初歩的な知覚でも、すでに一つの意味を担っているのである。
    しかしこれに対して、なるほど図と地とをいっしょにすれば感覚されるとはいえないにしても、それらを構成する一つ一つの点においては感覚されているはずだと、人は反駁するかもしれない。だがこんなことをいうひとは、各点が各点で、また地の上の図としてしか知覚されないという事情を、忘れているのであろう。地の上の図こそわれわれがもちうる最も単純な感性的与件であるというゲシュタルト学説の主張は、これが事実上の知覚に伴う偶然的な特徴であって、観念的な分析においては印象の概念を導入してもさしつかえない、という意味なのではない。
    地の上の図ということは、まさに知覚的現象の定義にほかならないのであって、この条件がそなわらなければ、いかなる現象も知覚とは言われないのでる。知覚されるもの「あるもの」はいつでも他のもののさなかにある。それは常に「野」(champ)の一部をなしてる。全く一様な平面で、知覚されるべき何ものも提示しないようなものは、いかなる知覚の対象ともなりえない。現実の知覚の構造だけが、知覚することの何たるかを、われわれに教えることができるのである。純然たる印象は、それゆえ単に見出すことができないばかりでなく、知覚されえぬものであり、したがってまた知覚の契機として考えられえぬものである。ひとびとがこの概念を導入するのは、知覚の経験に注目しないで、知覚された対象の立場に立ち、かえってこの経験を見失っているからである。視野というものは、局所的な視覚から合成されているのではない。しかし見られる対象は物質の断片から成り立っており、空間の諸点は相互の外にある。孤立した知覚の与件というものは、いやしくもその知覚を想像の上で経験してみるならば、考えられえないことがわかる。だが他方、世界のなかには、孤立した対象や、物質的な空虚な場所が存在するのである。】

    メルポンは、知覚的現象を「地(fond)の上の図(figure)」と定義した、っていうことでいいかな。

    あとメルポンは
    【地の上に図を描いたら、それをまた地に戻してみる】
    って。

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