| 〔新しい意義の運動的獲得としての習慣〕のつづき
(p246)音楽の演奏家の例は、習慣というものが、思惟にも客観的身体に宿るのではなく、世界の媒介者としての身体に宿るということを、いっそう明らかにする。周知の如く、練達のオルガン奏者は、今まで使ったことがないオルガン、つまり鍵盤の数が彼の常用のものより多かったり少なかったり、音栓の配置が違っていたりするオルガンでも、使いこなすことができる。予定の演奏ができるようになるためには、一時間も練習すれば十分である。こんな短時間の訓練では、新しい条件反射が既成の機構に置き換えられるとは考えられない。もっとも両者がそれぞれのシステムを形づくり、変化が全体的である場合は別である。だがこういう場合には、反応が楽器の全体的把握によって媒介されているのだから、われわれは機械論にとどまっていることはできない。しからばオルガン奏者はオルガンを分析するのだと、つまり、音栓、ペダル、鍵盤、ならびに空間におけるそれらの相互の関係に関する表象をつくり保存するのだと、われわれはいうだろうか。しかし演奏会に先だち短時間試奏する間、彼はイスにすわりペダルを踏み、音栓をひっぱり彼のからだで楽器の寸法をとり、方向や大きさを自己に統合し、家に落ち着くように楽器のなかに身を落ち着けるのである。それぞれの音栓やペダルについて彼が学ぶことは、客観的空間における位置ではない。彼はそれらを彼の「記憶」に委ねようというのではない。試奏の間も演奏の間と同様、音栓、ペダル、鍵盤は、彼にとって、しかじかの情緒的、ないし音楽的な値の能力でしかなく、それらの位置にもこの値が世界のなかに現れる場所にほかならない。総譜のなかに示された楽曲の音楽的本質と、オルガンの周囲に実際に響きわたる音楽との間に、きわめて直接的な関係が打ち建てられ、その結果オルガン奏者の身体と楽器とは、もはやこの関係の通過する場所にすぎなくなる。今後は音楽がそれ自身によって存在し、他のあらゆるものは音楽をとおして初めて存在する、ということになる。ここには音栓の場所に関する「追憶」などの入る余地はない。そしてオルガン奏者が演奏するのは客観的空間においてではない。ほんとうに、試奏の最中の彼の動作は祝聖の身振りなのである。この動作は感情のヴェクトルを張り渡し、情緒の泉を発見し、預言者の身振りが聖域(templum)(訳注45)を区画するように、表出(expressif)空間を創造するのである。
(p247)この際、習慣の問題はすべては、オルガン奏者が全く音楽に没頭しながら、この音楽を実現するはずの音栓やペダルをまちがいなくとらえるほどまで、動作の音楽的意義が一定の場所に沈殿することが、いかにして可能なのか、ということにある。ところで、身体はすぐれて表出的な空間である。私はある対象を捉えたいと思う。そうするともう、私が思いだにしない空間の一点から、私の手という把握の能力が、この対象に向かって動き始める。私が脚を動かすのは、それが私の頭から80センチメートル隔たった空間中の一点にある限りにおいてではなく、その歩行能力が下方に向かって私の運動志向を延長している限りにおいてである。私の身体の主要な諸領域は、それぞれ行動にささげられその意義にあずかっている。そして、常識はなぜ頭のなかに思想の座を置くのかという問いと、オルガン奏者はいかにしてもろもろの音楽的意義をオルガンの空間中に配分するのかという問いとは、結局同じ問題なのだ。しかしわれわれの身体は、単に他のもろもろの表出的空間とならぶ、一つの表出的空間にすぎないものではない。そのようなものは単に構成された身体にすぎない。われわれの身体は他のいっさいの表出的空間の源泉であり、表出の運動そのものなのである。すなわち、もろもろの意義に場所を与えることによってそれらを外部に投射し、それらがわれわれの手、われわれの眼のもとで、物として存在するようになる、その原因をなすものなのである。動物の場合のようにわれわれの身体は、生まれながらにしてきまった諸本能をわれわれに押しつけるわけではないが、少なくとも身体こそがわれわれの生に一般性の形態をあたえ、人格的な行為を延長して恒久的な資質たらしめるものなのである。こういう意味において、われわれの自然とは古い習慣ではない。というのも古い習慣は自然の受動性をすでに前提しているからである。身体とは、われわれが一つの世界をもつ一般的な手段である。ある場合には、身体は生命の維持に必要な動作だけで満足し、それに応じてわれわれのまわりに生物学的な世界を措定する。だがまたある場合には、これらの基本的な動作を活用して、それらのもつ本来の意味から比喩的な意味へと移行し、それらを通じて新しい意義の核心を表すこともある。これはダンスのような運動習慣の場合である。最後にまた、めざす意義が、自然に身体に備わった手段では、達せられない場合もある。こういう際には、身体は自分のために器具をつくらねばならならぬ。身体はそのまわりに文化的世界を投射する。あらゆる水準において身体は同じ機能を果たしている。つまり、自発性の束の間の運動に「反復可能な行動を独立した存在の幾分か」を貸与するという機能である。習慣とはこの基礎的な能力の一様態にすぎない。身体が新しい意義によって貫かれ、新しい意義の核心をわがものとしたとき、身体が了解したとか、習慣が習得されたとか、言われるのである。
(p249)運動機能の研究の結果あきらかになったものは、要するに「意味」(sens)という言葉の新しい意味である。主知主義の心理学、ならびに観念論的哲学の強みは、知覚と思惟とが内在的な意味をもったものであって、たまたまあい伴って現れる内容どうしの外的な連合によっては説明されるものでないということを、難なく明らかにすることができたことにある。コギトはこの内面性の自覚であった。しかしまさにそのため、すべての意義は思惟作用として、純粋な自我の働きとして理解されるに至った。そして主知主義が経験主義を制することは容易ではあれ、主知主義はわれわれの経験の多様性、われわれの経験における不合理なものや、内容の偶然性を説明することができなかったのである。身体の経験は、普遍的な構成的意義によるのではない意味の賦課、つまりある内容に付着した意味を、われわれに認めさせる。私の身体こそ、一般的な機能として行動しながら、しかも実存時、疾病にも侵されうる、かの意味的な核心なのである。私の身体においてわれわれは本質と実存との結びつきを知ることを学ぶのであるが、この結びつきは一般に知覚のうちにも見出されるであろうし、その際いっそう完全に記述されねばならないだろう。
(訳注45)預言者の身振りが聖域(templum)を区画する、という文は一見分かりにくいが、「預言者」の語源はaugure(鳥占師)。聖域(templum)とは、鳥占いの観測区域。つまり鳥占師の魔術的仕種によって一定区間が聖別され、未来を予兆する空間となること。
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おしまいおしまい〜
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