(現在 過去ログ3 を表示中)

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 最新記事及び返信フォームをトピックトップへ ]

■19892 / inTopicNo.37)  Re[35]: 引用
  
□投稿者/ みのり -(2021/12/12(Sun) 10:15:52)
    >みのりさん、引用ありがとうございます。
    >お気遣いいただき、すんまそん♪
    >先のレスは半分は冗談っぽくカキコしたつもりでした。^^;

    いえいえ〜、こちらこそ。^^
    ありがとうございました。
引用返信/返信 削除キー/
■19898 / inTopicNo.38)  Re[36]: Z 第一部 説話[20]
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/12/12(Sun) 10:49:30)
    No19886
    みのりさま、ありがとございます。

    あまり難しいことはわたしわかんない。
    ほら、わたしニーチェをスケベおやじって見てるから、
    なんか言ってやりたかっただけ。

    No19887
    パニさん、了解で〜す。




引用返信/返信 削除キー/
■19973 / inTopicNo.39)  Z 第一部 説話[21]
□投稿者/ みのり -(2021/12/16(Thu) 08:44:28)
    [21] 自由な死について

    ・・・・・
    11 わたしはきみたちに向かって、わたしの死を称える。それは、わたしが欲する
    がゆえに、わたしのところへやってくる、自由な死だ。

    12 して、わたしはいつ欲するであろうか? ─ 一つの目標と一人の継承者とを
      持つ者は、目標と継承者にとって然るべき時に死を欲するのだ。
    ・・・・・『ツァラトゥストラ』上 ちくま学芸文庫 p130より引用

    2 では、「然るべき時に死ね」ということが語られていて、また、15では、「歯の抜けた口には、もはやいかなる真理を口にする権利もない」ということも語られていて、ニーチェの「死」に対する考え方が垣間見えるものになっていると思います。
    大地において成すべきことを成したなら、自分が欲する時に死んでいきたい、という一つの美学のようにも私には感じられます。
    こういうところにも、ニーチェの理想の炎が燃えているのを感じますね。

    死ぬも生きるも自分の意志だけではどうすることもできない、というのが一般的な考え方というか観方なんじゃないかな、思うのですが、そうしたことを押しのける激しさがニーチェなのだろうな。



    この章、次回、最後まで読んでまとめます。
    投稿の時間がなかなか取れず、もしかしたら今年のうちに第一部を終えられないかもしれないけど、それはそれでということでやっていこうと思います。
    考えてみれば、諸価値は自分で創造せよ、とニーチェも言ってるんですものね。
    マイペースで行こう!




引用返信/返信 削除キー/
■20001 / inTopicNo.40)   Z 第一部 説話[21]
□投稿者/ みのり -(2021/12/18(Sat) 09:51:20)
    2021/12/18(Sat) 16:51:46 編集(投稿者)


    [21]自由な死について

    23、24は、後に続く25〜29の、イエス・キリストの死に関する言及の前書きに当たるのだと思います。

    ・・・・・
    23 すみやかな死を説教する者が来てくれればいいのだが! この者たちなら、
      生の木々をゆすぶる、おあつらえ向きのあらしになってくれるだろうに!
      だが、わたしが聞くのは、ただゆるやかな死を説教し、また一切の
      「地上的なもの」を忍耐するよう説教する声だけだ。
    ・・・・・『ツァラトゥストラ』上 ちくま学芸文庫 p131より引用

    大地(現実世界)ではなく、背後世界こそが真の世界であると説く者たちへの批判が語られている部分だと考えます。

    そして。

    25では、背後世界が真の世界だと説く者(キリスト教の聖職者など)が崇めるイエスの早過ぎた死が、人々にとって悲運であったと語られています。

    ・・・・・
    27 彼がなんとかして荒野にとどまり、善にして義なる者たちから遠ざかって
      いたなら! おそらく彼は、生きることを学び、大地を愛することを
      学んだであろう ─ さらには、笑うことをも!
    ・・・・・同書p132より引用

    ニーチェのイエス観が見て取れる文章だと思います。

    イエスが、司祭などの偽善的、形式重視の人々の言動を批判したり、当時の掟の一部を軽視する言動をしていたことから反逆者として注目され、死期を早めてしまったことを残念に思っているのですね。

    28では、イエスがツァラトゥストラの年齢(ツァラトゥストラの年齢設定いくつなのだろう?
    イエスの死が30歳ぐらいだったと思うので、40歳以上なのだと思う。序章でも、イエスより年上だという設定が書かれていたし。)まで生き延びていたなら、その教えを撤回しただろうに、と惜しむ内容が書かれています。

    29では、イエスはまだ成熟するところまでいっていなかったために、未熟な憎み方で人間と大地を憎んだ、としています。

    ツァラトゥストラ(ニーチェ)にとってイエスは、神ではなくあくまで一人の青年であり、高貴であったとしながらも(28に記述あり)、青年がゆえの未熟さを持つ者と考えていたのですね。

    このあたり、興味深い記述ですし、『ツァラトゥストラ』における重要な記述の一つになっているのだと思います。


    次回で、残り部分に少し触れます。









引用返信/返信 削除キー/
■20041 / inTopicNo.41)  年明けから
□投稿者/ みのり -(2021/12/21(Tue) 08:36:59)
    早いもので今日は12月21日。 今年も残りわずか。

    家の用事などで落ち着いて取り組む時間が取れそうもないので、
    年明け後、また『ツァラトゥストラ』を再開することとして、
    しばらくニークラへの投稿を休みます。

     
    少し早めですが。
    皆様、よいお年をお迎えください。^^

引用返信/返信 削除キー/
■20317 / inTopicNo.42)  年が明けました。
□投稿者/ みのり -(2022/01/08(Sat) 08:37:29)
    2022/01/08(Sat) 08:42:07 編集(投稿者)

    久しぶりに投稿です。 今年もよろしくお願いします。

    久しぶりの投稿ということもあり、今年もまたぼちぼちとですが続けて
    『ツァラトゥストラ』を読んでいきます〜、という報告も兼ねての投稿
    とさせていただきます。

    最近ぼちぼちにも程があるのですが、けして忘れたわけではないのです。
    (きっぱり!!!)

    今日は天気が良くて暖かくなりそうなので、暮れに剪定して庭に積みっぱ
    なしになってる木枝をゴミに出せるようにする作業を外でします。

    来週は時間がゆっくり時間が取れるので、また再開します。


    2022から変えてみたこと。

    @ パソコンマウスを左手で操作するようにした。
      慣れてきてだんだんと違和感がなくなってきて、右肩のコリが改善され
      てきた。

    A 血圧若干高め、しかし、まだ薬は服用したくない私は、いろいろと調べ、
      血圧が高くなる人は、呼吸が浅くて速い傾向があるのを知り、深くゆっくり
      の呼吸を心がけるようにしたら、これも慣れてきた。

    呼吸が浅く速いと、血流が悪くなり、それが血圧上昇の一因にもなるそう。

      
    合谷(ごうこく)という手のツボを、1日に3回くらい、休憩などで椅子に
      座った際に押す。
      
      この2つは、血圧低下にかなり効果があるようです。
      血流を良くして血圧低下させるので、血圧だけでなく、リラックス効果も含め
      心身にとてもいいようですね。

    B 一番弱いリーディンググラス(老眼鏡です(^▽^;)を購入し、かけてパソコン
      を見るようになった。 結果、目の疲れも改善された。
      視力がずっとよかった私は、眼鏡に抵抗があったのだけど、かけてみたら
      すっごいらくだとわかった。
      もっと早くかけておけばよかった。


    ではまた。^^


引用返信/返信 削除キー/
■20358 / inTopicNo.43)   Z 第一部 説話[21]
□投稿者/ みのり -(2022/01/11(Tue) 12:20:19)
    [21] 自由な死について


    この章で、昨年、途中で終わってしまい残っている分を見ます。

    ・・・・・
    30 だが大人のうちには、青年のうちによりも、より多くの子供がおり、より少なく
      憂愁がある。大人は死と生とに、よりよく精通しているものだ。
    ・・・・・『ツァラトゥストラ』上 ちくま学芸文庫 p133より引用


    ここでの「大人」は、創造者として子供のように世界と遊戯する者(精神の三段階における幼子)のこと。
    (訳注p396を参照しました。)

    31では、その「大人」は、死に対して自由であり、死に際して自由である、ともあり、前回に見たイエス・キリストをまだ成熟するところまでいかなかった青年であったという記述、死への憧憬が彼を襲ったとも26にあることと対比させているのだと思います。

    また、
    ・・・・・
    27 彼がなんとかして荒野にとどまり、善にして義なる者たちから遠ざかって
      いたなら! おそらく彼は、生きることを学び、大地を愛することを
      学んだであろう ─ さらには、笑うことをも!
    ・・・・・同書p132より引用

    という記述、29にある記述から、ツァラトゥストラの語るイエス・キリスト像というのは、大地(現実)を憂い、死を憧憬する若者というニュアンスもあるように私には読み取れました。

    ・・・・・
    32 きみたちの死が人間と大地とを中傷する意味のものでなからんことを、わたしの
      友たちよ。そのことをわたしはきみたちの魂の蜜から得たいと思うのだ。
    ・・・・・同書p133より引用

    この部分、訳注p396の440に、キリストのことを指しているとしている、とあります。

    これは、「死が人間と大地を中傷する意味のもの」という部分を、キリストを指している、と言っているのでしょうか?
    つまり、イエス・キリストの死が人間と大地を中傷する意味のものであった、という意味になるということになるのかな?


    パニチェさん、ここについてよかった教えてください。
    (急ぎません。お時間のある時にお願いできたら幸いです。)


    「魂の蜜」というのは、成熟する魂の内的成果、集められた知恵のことと訳注441にあります。



引用返信/返信 削除キー/
■20359 / inTopicNo.44)  Re[42]: Z 第一部 説話[21]
□投稿者/ パニチェ -(2022/01/11(Tue) 20:31:45)
    こんばんは、みのりさん。

    No20358に返信(みのりさんの記事)
    > [21] 自由な死について

    > ・・・・・
    > 30 だが大人のうちには、青年のうちによりも、より多くの子供がおり、より少なく
    >   憂愁がある。大人は死と生とに、よりよく精通しているものだ。
    > ・・・・・『ツァラトゥストラ』上 ちくま学芸文庫 p133より引用

    > ここでの「大人」は、創造者として子供のように世界と遊戯する者(精神の三段階における幼子)のこと。
    > (訳注p396を参照しました。)

    > 31では、その「大人」は、死に対して自由であり、死に際して自由である、ともあり、前回に見たイエス・キリストをまだ成熟するところまでいかなかった青年であったという記述、死への憧憬が彼を襲ったとも26にあることと対比させているのだと思います。

    > また、
    > ・・・・・
    > 27 彼がなんとかして荒野にとどまり、善にして義なる者たちから遠ざかって
    >   いたなら! おそらく彼は、生きることを学び、大地を愛することを
    >   学んだであろう ─ さらには、笑うことをも!
    > ・・・・・同書p132より引用

    > という記述、29にある記述から、ツァラトゥストラの語るイエス・キリスト像というのは、大地(現実)を憂い、死を憧憬する若者というニュアンスもあるように私には読み取れました。

    そうですね、あと27の前段25に『まことに、ゆるやかな死を説教する者たちがあがめるあのヘブライ人は、あまりに早く死んだ。そして、彼があまりに早く死んだことは、それ以来、多数の者たちにとって悲運となったのだ』とあります。
    この「ゆるやかな死」も含めて、この章で語られている死生観は以下のアフォリズムが参考になると思います。

    『誇りある仕方で生きることがもはや可能でないときには、誇りある仕方で死ぬことが大切です。…自発的に選ばれた死。明るく悦ばしい心をもって、子供や立会人の唯中で実行される、頃合いを誤たない死。このような死にあっては、別れを告げる当人がまだ現にそこに居合わす本当の別離がなお可能なのであり、同じように、自分が達成したことや意欲したことの本当の評価、生涯の総決算も、やはり可能になるのであります。・・・自然死とはやはり「不自然」死、一種の自殺に他なりません。人は己自身による以外に、他の誰かによって滅びることは決してありません。ただし、最も軽蔑すべき死、つまり不自由死、頃合いを誤った死、臆病者の死というのもあります。人は生きんとする愛があるからこそ、死とは別様に、自由なものに、意識的なものに、偶然でもなければ、不意打ちでもないように欲すべきでありましょう。(偶像の黄昏 ある反時代的人間の逍遥第36番)』

    ニーチェからすれば「ゆるやかな死」も不自然死であることに変わりないということでしょう。


    > ・・・・・
    > 32 きみたちの死が人間と大地とを中傷する意味のものでなからんことを、わたしの
    >   友たちよ。そのことをわたしはきみたちの魂の蜜から得たいと思うのだ。
    > ・・・・・同書p133より引用

    > この部分、訳注p396の440に、キリストのことを指しているとしている、とあります。

    > これは、「死が人間と大地を中傷する意味のもの」という部分を、キリストを指している、と言っているのでしょうか?
    > つまり、イエス・キリストの死が人間と大地を中傷する意味のものであった、という意味になるということになるのかな?

    > パニチェさん、ここについてよかった教えてください。
    > (急ぎません。お時間のある時にお願いできたら幸いです。)

    ユダヤ・イスラム・キリスト教のドグマでは生は原罪を背負った罪深いものとされています。
    これに対してニーチェは生には普遍的な目的も意味も価値もないが故に、自らが価値や意味や目的を付与しうる白いキャンパスの如く無垢であると考えます。
    またニーチェにとって生や大地は実存そのものであり、死後に訪れる最後の審判や天国、つまり背後世界(プラトニズム)などという妄想の対極にあるものです。
    キリストが人類の原罪を背負って自ら死を選んだのであれば、その死は無垢なる人間や生や大地を罪深いものとして中傷する意味をも有するということになるので、きみたちの死が未熟なまま死んだキリストの死のようにならないことを望むということでしょうね。

    > 「魂の蜜」というのは、成熟する魂の内的成果、集められた知恵のことと訳注441にあります。

    ここは以下に対応します。

    『見よ!蜜をあまりに多く集めすぎたミツバチのように、わたしは自分の知恵に飽き果てている。わたしは差し出される手を必要とする。私は贈与し分与したい、人間たちのなかの賢者たちが、いま一度その愚かさを、そして貧しい者たちが、いま一度その豊かさを、喜ぶようになるまで。そのために、わたしは深みに降りて行かなくてはならない、おまえが夕方、海の背後に沈み行き、なお下界に光をもたらすとき、するように。おまえ、溢れるほど豊かな天体よ!わたしは人間たちのところへ下って行こうとするのだが、この人間たちの呼び方によれば、わたしは、おまえと同じように、没落しなくてはならない。」(ツァラトゥストラ 序説1-1)』

    『31死に対して自由であり、死に際して自由である。もはや肯定すべき時』となるような死を「魂の蜜(生きた結果として溢れ出る蜜)」から得られんことを願うってことだと思います。

引用返信/返信 削除キー/
■20360 / inTopicNo.45)  19.毒ヘビのかみ傷について
□投稿者/ パニチェ -(2022/01/11(Tue) 20:55:04)
    この章で好きなところを引用してみます。

    『きみたちに聞きたいが、こういう正義がどこに見いだされるだろうか、盲目的ならざる愛であるような正義が?
    されば、ぜひともこういう愛を考察せよ、一切の刑罰を下すに耐えるのみならず、さらに一切の罪責を負うに耐えるような愛を!
    されば、ぜひともこういう正義を考案せよ、裁く者を除いて万人に無罪の判決を下すような正義を!(ツァラトゥストラ 毒ヘビのかみ傷について11〜13)』

    ニーチェはここで最後の審判をドクマとする限りユダヤ・イスラム・キリスト教の信仰対象である神の愛は正義と言えるのか?という疑問を呈している。
    以下のアフォリズムも上記に同じ。

    『あまりにもユダヤ的。──神は愛の対象になろうと欲するなら、何よりもまず審判と正義を断念せねばならぬことだろう。──審判者というものは、それが恵み深い審判者であったにしても、決して愛の対象とはならない。キリスト教の開祖は、この点にかけての繊細な感受性を十分に持ちあわせていなかった──ユダヤ人であったゆえに。(悦ばしき知識 第140番)』


引用返信/返信 削除キー/
■20371 / inTopicNo.46)  Re[43]: Z 第一部 説話[21]
□投稿者/ みのり -(2022/01/12(Wed) 16:20:28)
    パニチェさん、レスありがとうございました。
    今年もどうぞよろしくお願いします。

    No20359に返信(パニチェさんの記事)
    > こんばんは、みのりさん。
    >
    > ■No20358に返信(みのりさんの記事)
    >>[21] 自由な死について
    >
    >>・・・・・
    >>30 だが大人のうちには、青年のうちによりも、より多くの子供がおり、より少なく
    >>  憂愁がある。大人は死と生とに、よりよく精通しているものだ。
    >>・・・・・『ツァラトゥストラ』上 ちくま学芸文庫 p133より引用
    >
    >>ここでの「大人」は、創造者として子供のように世界と遊戯する者(精神の三段階における幼子)のこと。
    >>(訳注p396を参照しました。)
    >
    >>31では、その「大人」は、死に対して自由であり、死に際して自由である、ともあり、前回に見たイエス・キリストをまだ成熟するところまでいかなかった青年であったという記述、死への憧憬が彼を襲ったとも26にあることと対比させているのだと思います。
    >
    >>また、
    >>・・・・・
    >>27 彼がなんとかして荒野にとどまり、善にして義なる者たちから遠ざかって
    >>  いたなら! おそらく彼は、生きることを学び、大地を愛することを
    >>  学んだであろう ─ さらには、笑うことをも!
    >>・・・・・同書p132より引用
    >
    >>という記述、29にある記述から、ツァラトゥストラの語るイエス・キリスト像というのは、大地(現実)を憂い、死を憧憬する若者というニュアンスもあるように私には読み取れました。
    >
    > そうですね、あと27の前段25に『まことに、ゆるやかな死を説教する者たちがあがめるあのヘブライ人は、あまりに早く死んだ。そして、彼があまりに早く死んだことは、それ以来、多数の者たちにとって悲運となったのだ』とあります。
    > この「ゆるやかな死」も含めて、この章で語られている死生観は以下のアフォリズムが参考になると思います。
    >
    > 『誇りある仕方で生きることがもはや可能でないときには、誇りある仕方で死ぬことが大切です。…自発的に選ばれた死。明るく悦ばしい心をもって、子供や立会人の唯中で実行される、頃合いを誤たない死。このような死にあっては、別れを告げる当人がまだ現にそこに居合わす本当の別離がなお可能なのであり、同じように、自分が達成したことや意欲したことの本当の評価、生涯の総決算も、やはり可能になるのであります。・・・自然死とはやはり「不自然」死、一種の自殺に他なりません。人は己自身による以外に、他の誰かによって滅びることは決してありません。ただし、最も軽蔑すべき死、つまり不自由死、頃合いを誤った死、臆病者の死というのもあります。人は生きんとする愛があるからこそ、死とは別様に、自由なものに、意識的なものに、偶然でもなければ、不意打ちでもないように欲すべきでありましょう。(偶像の黄昏 ある反時代的人間の逍遥第36番)』
    >
    > ニーチェからすれば「ゆるやかな死」も不自然死であることに変わりないということでしょう。
    >
    >
    >>・・・・・
    >>32 きみたちの死が人間と大地とを中傷する意味のものでなからんことを、わたしの
    >>  友たちよ。そのことをわたしはきみたちの魂の蜜から得たいと思うのだ。
    >>・・・・・同書p133より引用
    >
    >>この部分、訳注p396の440に、キリストのことを指しているとしている、とあります。
    >
    >>これは、「死が人間と大地を中傷する意味のもの」という部分を、キリストを指している、と言っているのでしょうか?
    >>つまり、イエス・キリストの死が人間と大地を中傷する意味のものであった、という意味になるということになるのかな?
    >
    >>パニチェさん、ここについてよかった教えてください。
    >>(急ぎません。お時間のある時にお願いできたら幸いです。)
    >
    > ユダヤ・イスラム・キリスト教のドグマでは生は原罪を背負った罪深いものとされています。
    > これに対してニーチェは生には普遍的な目的も意味も価値もないが故に、自らが価値や意味や目的を付与しうる白いキャンパスの如く無垢であると考えます。
    > またニーチェにとって生や大地は実存そのものであり、死後に訪れる最後の審判や天国、つまり背後世界(プラトニズム)などという妄想の対極にあるものです。
    > キリストが人類の原罪を背負って自ら死を選んだのであれば、その死は無垢なる人間や生や大地を罪深いものとして中傷する意味をも有するということになるので、きみたちの死が未熟なまま死んだキリストの死のようにならないことを望むということでしょうね。

    そうした意味合いが込められていたのですね。
    教えていただいてありがとうございます。
    キリスト教の教義の根幹とも言える贖罪を否定するような表現がなされているのは(しかも牧師の息子であるニーチェによって)、当時としてはとても過激なことだったのだろうと思います。

    実際のところ、イエス自身は、自らの死に際して贖罪のためという意識はあったのかな。
    教義上ではそのようなことになっているのだと思いますが、実際にはどうだったのだろう、というのは本人にしか知りようがないですよね。

    背後世界はもはやあくまで私にとってはですが、その存在はあってもなくてもどちらでもいいもの、むしろどちらかと言えばなくてもいいものになっているなぁ、と自分のところのこととして感じたりします。
    せかせかと生きていつか死んでいく、そしてそれで終わり・・・、それで自分的には何の問題もないな、という感じです。

    いやいや、そんなんじゃないでしょ、という方々ももちろんいらっしゃると思うけど、このあたりはあくまで考え方の相違ですよね。

    >>「魂の蜜」というのは、成熟する魂の内的成果、集められた知恵のことと訳注441にあります。
    >
    > ここは以下に対応します。
    >
    > 『見よ!蜜をあまりに多く集めすぎたミツバチのように、わたしは自分の知恵に飽き果てている。わたしは差し出される手を必要とする。私は贈与し分与したい、人間たちのなかの賢者たちが、いま一度その愚かさを、そして貧しい者たちが、いま一度その豊かさを、喜ぶようになるまで。そのために、わたしは深みに降りて行かなくてはならない、おまえが夕方、海の背後に沈み行き、なお下界に光をもたらすとき、するように。おまえ、溢れるほど豊かな天体よ!わたしは人間たちのところへ下って行こうとするのだが、この人間たちの呼び方によれば、わたしは、おまえと同じように、没落しなくてはならない。」(ツァラトゥストラ 序説1-1)』
    >
    > 『31死に対して自由であり、死に際して自由である。もはや肯定すべき時』となるような死を「魂の蜜(生きた結果として溢れ出る蜜)」から得られんことを願うってことだと思います。
    >

    ああ、そういえばあったな〜、と思い出しました。^^

    もはや肯定すべき時となるような死を魂の蜜から得られんことを願う、かぁ。
    そうですね、これはほんとに理想だと思います。
    ただ、これも、世の中的な価値観で測られるようなものでもなく、自分なりの価値観で納得して満足できる死であれば、それはその人にとっての理想なのだと思います。






引用返信/返信 削除キー/
■20372 / inTopicNo.47)  Re[44]: 19.毒ヘビのかみ傷について
□投稿者/ みのり -(2022/01/12(Wed) 16:38:03)
    No20360に返信(パニチェさんの記事)
    > この章で好きなところを引用してみます。
    >
    > 『きみたちに聞きたいが、こういう正義がどこに見いだされるだろうか、盲目的ならざる愛であるような正義が?
    > されば、ぜひともこういう愛を考察せよ、一切の刑罰を下すに耐えるのみならず、さらに一切の罪責を負うに耐えるような愛を!
    > されば、ぜひともこういう正義を考案せよ、裁く者を除いて万人に無罪の判決を下すような正義を!(ツァラトゥストラ 毒ヘビのかみ傷について11〜13)』
    >
    > ニーチェはここで最後の審判をドクマとする限りユダヤ・イスラム・キリスト教の信仰対象である神の愛は正義と言えるのか?という疑問を呈している。
    > 以下のアフォリズムも上記に同じ。

    この部分、私は、単に世俗的な意味合いでの「裁く」「無罪の判決」という話だと思っていました。
    日常の上で、人が人を裁くようなことを否定する内容だと考えていたのです。
    そういうことではなかったのですね。

    信じない者は最後の審判によっての選択からも漏れてしまう、そうしたことが教義からは導き出されるのだけれど、それでも神の愛は正義と言えるのか?、という疑問が呈されているのですね。


    > 『あまりにもユダヤ的。──神は愛の対象になろうと欲するなら、何よりもまず審判と正義を断念せねばならぬことだろう。──審判者というものは、それが恵み深い審判者であったにしても、決して愛の対象とはならない。キリスト教の開祖は、この点にかけての繊細な感受性を十分に持ちあわせていなかった──ユダヤ人であったゆえに。(悦ばしき知識 第140番)』

    訳注p396の438にも、『生成の無垢』第二巻の971に、「キリストにおける感情の高貴さの深い欠如、彼のユダヤ人根性が指摘されている」とあります。
    このあたり、重なるものになるのかな、と思いました。

引用返信/返信 削除キー/
■20373 / inTopicNo.48)  猿が魚を捕食
□投稿者/ みのり -(2022/01/12(Wed) 16:58:08)
    昨日、ニュース番組で観て驚いた。
    長野県上高地のニホンザルが、川で魚を取り食べているそう。
    画像としてとらえたのは世界初だそうです。

    動物性のものは、昆虫ぐらいの小さなものぐらいしか食べないと思っていたのだけど・・・。
    好奇心旺盛な個体が、冬場の食べ物の少なさに耐えかねて食べてみたら、わりとおいしかった!(^^)!、だったのかな。


    https://news.yahoo.co.jp/articles/0ca428725315dc282ef305b0430f6d648ac17845


    今日は今日で、飼われている家のお母さんの口癖を覚えてよくしゃべっているオウム(?)の仲間のことを観ておもしろかったなぁ。
    このオウム(正確にはオウムじゃない、インコでもないのだけど、名前を忘れた)、飼われている家のお父さんの声色まで真似て「ラーメン」と言ってて、その声が人間の男性の声(しかもなかなかのイケメン声)とよく似てるそう。
    声帯が人間と似てるんだろうかね。 そんなふうに聞いたことがあるような気もする。。← 新年早々、適当ですみません。(笑)
引用返信/返信 削除キー/

<前の12件 | 次の12件>

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 >>

レス数の限度を超えたのでレスできません。

(レス数限度:100 現在のレス数:101) → [トピックの新規作成]
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -