| 2021/11/06(Sat) 06:53:07 編集(投稿者)
■No18356に返信(おくたがわさんの記事) > 説明なしで、どれが[それ」であるか分かるという特徴について[今] にもそれが言えると永井さんが書いていたように思いましたので、その特徴を持つ[ここ]があり得るかどうかと考えました。 > その特徴だけで < >を使うべきではなかったのでしょうね。
〈 〉の使用については言語ゲームによって変わるでしょね。 今のところ、どれが正解というのはないと思います。
> たしかに、どこを[ここ]にするかは選べる、少なくとも取り換えができるが、何が<私>であり何時(いつ)が[今]なのかは選べないですね。
そうですね。
> 自分がありうるように思った<ここ>は、[私]の[今]いる[ここ]であって、全二者に支えられているものかもしれません。 > しかも<私>が空間に位置しないということであれば、[ここ]を支えるのは<私>ではなく個々の「私」にすぎないので、[ここ]が唯一性を持つことはない、となるでしょうか。
そうです。[ここ]を支えるのは個々の身体性だと思います。 話者の身体が位置するところが「ここ」に当たります。そして他者もそこを[ここ]にできます。 [ここ]はご指摘通り選択可能であるのに対して〈今〉と〈私〉はそれ以外ありえないという自明なものです、
> 〈私〉が空間に位置しないということは、時間軸上にも位置を持たない、時空内に無いということでよろしいでしょうか?
時間的には“今”ですね、〈私〉は“今”にしかありません。 空間的な位置については(みのりさんにも返信したのですが)現時点で言えることは世界内にはないということだけです。 世界の接点なのか、それとも外なのか、あるいは丸ごと世界が〈私〉なのかペンディングというか探究途上です。表現しようがないというか。。。。
> ところで、もしタイムトラベルが可能なら<今>は[ここ]と同等なものになるのでしょうか。
なるでしょうね。 私にとってタイムマシンの最大のパラドックスは過去に戻って自分に出会うことです。 客観視できる自分がいるとするなら、それは他者であり〈私〉ではない。 〈私〉とは永井氏の言葉を借りれば「私だけがその目から現実に世界が見えており、その体だけが殴られると本当に痛く、その身体だけを実際に動かせる、唯一の人間」ということになります。 〈私〉の理屈上二人の〈私〉は絶対にありえない。多世界解釈もこれに同じで、否定する理由として自明なる〈私〉が今ここに存在しています。
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