| ひきずり男さん
やれやれ。 論理的反論が無理なので、権威に頼るしかないのね(笑)
>少なくとも私の知る限りで「私は私の言語世界である」「私が存在するとき、常に既に、言語が存在する」と論考を読解している者は一人だけである。
『論考』解釈マニアにとっては、これは誉め言葉以外の何ものでもないよ。ありがとう。 ただ、私の主張を理解したら、あなたが挙げている人たちも、反対するかどうかは疑問ですけどね。
>「私は私の言語世界である」「私が存在するとき、常に既に、言語が存在する」なんてことはウィトゲンシュタインは論考で述べてない
『論考』を解釈するということは、ある意味、『論考』の諸命題の行間を埋めることであって、『論考』に文字通りの意味では書かれていないことを述べるのは当然です。 それは、あなたが挙げている研究者にしたって同じことです。 『論考』の主張と整合しない、もしくは私の主張が矛盾しているというなら、それをきちんとあなた自身で論理的に反論として示してください。 でないと、議論にはなりません。おわかりですか? 反論しやすいように、再度、主張を以下にわかりやすくまとめ直してみました。 よかったらどうぞ。 **************************** No18151を書いたときは、ひきずり男さんがもう少し理解しているだろうと思って省略も多く、そのために理解されないのかもしれません。 そう考えて、もう少しだけ言葉を足して、かつ、論理が捉えやすいように単純化して議論を再構成というか、まとめてみました。 厳密な論証形式はとりませんが、十分、わかりやすいのではないかと思います。
※以下の「私」は、すべて「世界の限界としての私」(T5.63,5.631,5.632) すなわち、「形而上学的主体(T5.633)」を意味します。
【前提となる『論考』の主張(の解釈と根拠となる命題)】 (1)私の世界=私の言語が語る世界(私の言語世界) (∵T5.6) (2)世界=私の世界(生)(∵T5.62,5.641) (3)世界=生(T5.62&5.621) (3)私=私の世界(∵T5.63) (4)言語=私の言語(T5.62(ただし、「この言語(私が理解する唯一の言語)」と解釈))
(1)〜(4)より、次が帰結する。 ∴ 私=私の世界(生)=私の言語が語る世界(私の言語世界) よって、ここから次を導き得る。 【結論】 私(の存在)=私の言語世界(の存在)
【別角度からの補足説明】
『論考』における世界とは、言語(命題の総体)のうちの真なる命題が語る事実の総体として定義されています。 世界の構成要素(ラッセルの言う「原子的事実」)である事態は、要素命題の語るものとして定義され、写像理論によって、写像形式である命題の名の結合構造の可能性と事態の対象結合の構造の可能性は同一とされています。したがって事態は命題に対応する分節構造を有しているわけです。 だからこそ、本質的に、世界は語りうるもの(言語により写像可能なるもの)だということです。
言語の限界=論理の内側において、それを超える言語以前の世界(の状態)などというのは語ることも、したがって思考することも不可能です。 このような想定はカント的物自体世界のヴァリエーションの二世界説となり、独我論と実在論が一致するという『論考』の一元論的世界観と整合しません。 もちろん、中期の意味の検証理論からみてもナンセンスです。
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