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■18534 / inTopicNo.25)  Re[14]: タイムマシンと〈私〉
  
□投稿者/ おくたがわ -(2021/11/08(Mon) 09:34:26)
    No18383に返信(パニチェさんの記事)

    > 時間的には“今”ですね、〈私〉は“今”にしかありません。

    自然科学的に語れる「私」は空間上の様々な地点に存在する(と見なせる)が<私>は違う、同様に時間軸上でも、様々な時代を「現代」と考えて存在する(した)「私」がいたが、<私>はそうではない。そのようなそれぞれの「私」のどれかではない。ということでしょうか。

    > 空間的な位置については(みのりさんにも返信したのですが)現時点で言えることは世界内にはないということだけです。
    > 世界の接点なのか、それとも外なのか、あるいは丸ごと世界が〈私〉なのかペンディングというか探究途上です。表現しようがないというか。。。。

    ウィトゲンシュタインの場合は、世界丸ごと、もしくは世界全体(の境界面)にべったり張り付いているようなイメージがあり、「外」はないと思いますが、パニチェさんの<私>は外もあり得る(無いとは言えない)ということでしょうか。

    >>ところで、もしタイムトラベルが可能なら<今>は[ここ]と同等なものになるのでしょうか。
    >
    > なるでしょうね。
    > 私にとってタイムマシンの最大のパラドックスは過去に戻って自分に出会うことです。
    > 客観視できる自分がいるとするなら、それは他者であり〈私〉ではない。
    > 〈私〉とは永井氏の言葉を借りれば「私だけがその目から現実に世界が見えており、その体だけが殴られると本当に痛く、その身体だけを実際に動かせる、唯一の人間」ということになります。

    この例は、自分としては始めて目にする説明で、目から鱗的なものを感じています。

    > 〈私〉の理屈上二人の〈私〉は絶対にありえない。多世界解釈もこれに同じで、否定する理由として自明なる〈私〉が今ここに存在しています。

    以下と関連するように思います(あくまで現段階の私の読みで、誤読かもしれませんが)

    5.634 このことは、私たちの経験のどの部分もアプリオリではない、ということと関係している。〜〜
     私たちが見ているものはすべて、別のようでもあるかもしれない。 およそ私たちが記述できるものはすべて、別のようでもあるかもしれない。 モノたちの秩序は、アプリオリには存在しない。
    5.64 ここでわかるのだが、ソリプシズムを徹底すると、純粋な実在論と一致する。ソリプシズムの「私」は縮んで、延長のない点となる。そして残るのは、「私」のためにコーディネートされた実在である。
引用返信/返信 削除キー/
■18532 / inTopicNo.26)  形而上学的主体
□投稿者/ みのり -(2021/11/08(Mon) 08:58:18)
    2021/11/08(Mon) 13:04:20 編集(投稿者)

    最初から、「形而上学的主体」なるものが存在するという前提でウィトゲンシュタインはいたのではなく、
    主体と自分たちがしているものというのは、どうやら実は、言語でその本質について語ることのできない(言い換えれば、世界に属していない)ものなのではないか? ということに気づき、それを証明しようとして『論理哲学論考』でそうしたことについて述べた、のかな。

    そうした中で、いわゆる主体を「形而上学的主体」と置いてみた、というように。
    (これについては、ウィトゲンシュタイン本人がそうしたのではなく、研究者によって
    そのように置くのが妥当だとされたのかな。)

    わかっていない私が、混乱しながら書いてみました。。。
    へんなこと書いてたらすみません。

    逆に、「そんなの当たり前じゃない、何をいまさら」という声もあるかもですが・・・。(笑)

引用返信/返信 削除キー/
■18531 / inTopicNo.27)  Re[13]: 意識の難問と意識の超難問
□投稿者/ おくたがわ -(2021/11/08(Mon) 08:58:01)
    No18379に返信(パニチェさんの記事)

    おはようございます。思うことをできるだけ率直に書きましたが、その分脈絡がない返事になっているかもしれません。

    > こんばんは、おくたがわさん。レスありがとうございます。
    > 勝手ながらこちらに取り置きたいので移動しました。お許しあれ♪
    >
    > ■No18358に返信(おくたがわさんの記事)
    >>最初の方に戻ってのレスになります。
    >
    > >>>>意識は万人にある(特別な例を除く)
    > >>>>で、貴方が意識という言葉で表せる存在であるとするなら
    > >>>>どうやって沢山の意識が存在する意識の中で、どれが自分の意識であるか判別しない
    >
    >>以下パニチェさんはおそらく何回も説明されたことかもしれませんが、すみません。
    >>意識が脳活動に付随すると考える人間にとって、一つの脳内の活動に統一的に伴う意識があるとすれば、他の脳システムに伴う意識と混線することはなく、[それ]のみが自己の意識と分かるのではないかと思うのですが、
    >>これでは「どれが自分の意識であるかを判別」できないとお考えでしょうか?
    >>「意識が個々の脳の活動であったり、それに伴うものである」かどうかではなく、そのように考える者にとっては、どれが自己の意識であるかという問題は生じないのではないかという疑問です。
    >>(そこで生じるのは、個々の脳活動にどうやって意識が伴うのかという問題になるかと)
    >
    > ストレートな返信にならなくて恐縮ですが。。。
    >
    > 上記の(そこで生じるのは、個々の脳活動にどうやって意識が伴うのかという問題になるかと)は「意識の難問(意識のハード・プロブレム)」と呼ばれるテーマですね。
    >
    > これは大方の人が理解できる問題というかテーマです。
    > https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%8F%E8%AD%98%E3%81%AE%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%A0
    >
    > さて。。。。正直なところを、おくたがわさんにお聞きしたのは以下の「意識の超難問」についてです。
    > https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%9C%E7%A7%81%E3%81%AF%E7%A7%81%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%8B
    >
    > この「意識の超難問」についておくたがわさんはどのように思われますか?
    > 率直な感想をお聞かせください。


    パニチェさんはリンク先の以下の問いを問題とすることに同感と考えてよろしいでしょうか?

    > 最も一般的には次のような形で表される問題である。
    >
    > 世界中に今現在 沢山の人がいる、また今までに数多くの人が生まれてきて、これからも多数の人が生まれてきて死んでいくだろう。しかしそれにも拘らず「なぜ私は他の誰かではなく、この人物なのか?」(Why am I me, rather than someone else?)

    もしそうであるなら、何故それが問題になるのかが自分には分からない、というのが率直な返事になります。(リンク内すべて読んだうえで)

    自分の発想では、
    ・とある人物の脳活動に伴って発生する何かが[私]と自覚されているなら、それが、その脳を持っている人物としての「私」を自己に一致させることに不思議さはない。
    ・そうではなく、なんらか魂のようなものが飛んできて、とある肉体に憑依するような合体で私の意識と身体がある場合なら、その[私]意識が「私(身体)」に憑依したのはたまたまだろう。(なんらかの選択理由があるかもしれないが、それは現在の人知では分からない)

    従って「私はなぜ、この私なのか」という文言を、今までにも目にしてはいましたが、<私>の問題の核心は、文字通りのその問いではないのだろうと思っていました。

    ちなみに、形の上では同じ問いを私自身、子供のころに持っていましたが、いつの間にか疑問に思わなくなっているのは、上に書いたような解釈のゆえだろうと思います。

    そこで、「意識の超難問」、<私> の問題は、それではないだろうと思って見てきました。なんであるのかは分かっていませんが。

    今、書きながら思ったこと。
    >「なぜ私は他の誰かではなく、この人物なのか?」(Why am I me, rather than someone else?)

    このように表現すると、問題の意味が理解されないのではないか。
    問題となるのが<私>という特異な「何か」であることは、この疑問文からは分からないだけでなく、wikiのあの記事全体を読んでも、やはり分からない(少なくとも自分には)。
    単に二物が一致した理由を問うていると見えるので。

    この鉛筆は、なぜこの鉛筆なのか
    この目の前の木材の塊は、なぜ、この鉛筆になったのか
    ある木材が、なぜこの鉛筆として加工されたのか
    そういった問いとの違いが分からない。

    時間性が加わった、「なぜ今、ここ」という書き方も出ていますが、
    それも、カントの意識があの時代のあの人物に宿り、ニーチェの意識があの時代に灯り、パニチェさんの意識は現代にある、それは「たまたま」でしょう、と。

    世界の開闢である特異な何かである<私>とは、なんであるのか、どのようにあるのか、そして、なぜ常に<今>にあるのか。常にそうでしかあれない<今>とはなんなのか。
    こういう問いであれば、問いとして分かる気がします。
    それを、多数併存する自然科学的な「私」の一つと結んで「なぜ、この人物?」と問うたり、また時間の流れの中のとある時期にあることを「なぜ?」と問うのが分からない。


    しつこくなりますが、分からない人間(おくたがわ)が、どう分からないのかの材料を提示します。

    > …なぜ君の兄は君ではなく、君は遠縁のいとこのうちの一人ではないのか。

    兄に宿った意識は兄を自己とし、その弟である人物(一つの「私」)に宿った意識はこれを自己としている。そこに宿ったのはたまたまである。

    > もしアルプスの風景が客観的に同じものだとしたら、いったいなにが君にこの違い─君と誰か他の者との違い─をかたくなに見いだそうとさせているのであろうか。

    アルプスの風景と富士山の風景を異なるものと見出しているのと同じ。

    > 自分が〜なぜほかの処ではなく、この処に置かれているか、また私が生きるべき与えられたこのわずかな時が、なぜ私よりも前にあった永遠と私よりも後に来る永遠の中のほかの点でもなく、この点に割り当てられたのであるかということを知らない

    たまたまとしか考えられない(仮に選択の理由があるのであっても現在の人知では分からない)。

    結局 <私>というものを特別扱いする理由が分からないということになるかもしれません。
    各時期・各場所に夥しい数併存する「私」のそれぞれに、そこからしか世界を見ることができない[私]がある、とみてはなぜいけないのか。それらがコミュニケーションをとって相手の内面を、相手の見ている世界を垣間見ようとしたりしながら存在している。そういう自然科学的な見方で足りないものは何であるのか。そのような言語的捉え方をしたときに「抜け落ちるもの」とはなんなのか。

引用返信/返信 削除キー/
■18530 / inTopicNo.28)  Re[15]: 無我
□投稿者/ みのり -(2021/11/08(Mon) 08:22:22)
    2021/11/08(Mon) 18:16:40 編集(投稿者)

    ロムの方で、私(みのり)のように、ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』について何も知らない、という方もおられるかと思うので、パニチェさんが先日、私宛に引用してくださったものを先にまず記載します。

    >『論理哲学論考』の以下です。
    >
    > ************************************
    > 5.631 思考し表象する主体は存在しない。
    > もし私が「私が見出した世界」という本を書くとすれば、そこでは私の身体について報告がなされ、またどの部分が私の意志に従いどの部分が従わないか、等が語られねばならないだろう。即ちこれが主体を孤立させる方法であり、むしろある重要な意味で主体は存在しないことを示す方法なのである。というのもこの本では主体だけが論じることのできないものとなるであろうからである。
    > 5.632 主体は世界に属さない。それは世界の限界である。
    > ************************************

    No18518に返信(パニチェさんの記事)

    >>言語で語れる私についてはいくらでも言語を用いて語ることはできる。
    >>しかし、語れない主体についてはいっこうに語ることはできない。
    >>ということでしょうか。
    >
    > そうです。

    はい。

    >>ふと思ったのは、そもそも主体というのは人間独自の思考によって設定されているものであり、言わば人間の思考によってのみ(言語によってのみ)存在させられているものなので、主体の「本質」について語ろうとしても語れるものではないのではないか、ということ、それをウィトゲンシュタインは引用文で言おうとしているのかな、ということです。
    >>そして、
    >>>主体は世界に属さない。
    >>とは、「主体というのはそもそも存在しない」という意味? とも思いました。
    >
    > ここで言う主体とは形而上学的主体のことです。
    > そもそも存在しないということではなく、世界内には属さないということですね。

    「主体は形而上学的主体であり、世界には属さない」。
    そうか〜、形而上学的主体についてなんですね。
    わからずにすみませんでした。

    それであるなら、眼の位置から開闢する世界には主体は属さない、ということにもなりますよね?
    そう言い換えられるものでいいのでしょうか?
    その眼の位置から開闢する世界にある様々についての中には、自分と言われるものについての姿形などを含めてのあらゆる情報も含まれ(例えば、マッハ図のように)、属性について様々に言語表現はなされるが、その言語表現において、他者とは絶対的に違いのある自分という主体を語ることはできない、ということ。
    必ず頽落してしまうんでしたね。

    通常の感覚では世界に属すると考えられている主体(私がいる、あなたがいる、とか普通に言うようなこと)ですが、その、通常の感覚では世界に属するとも考えられる主体、それの本質を言語表現は不可能だということ(言い換えれば、世界には属さない)ということで、「形而上学的主体」と呼んでいる、と考えたのですが、こうしたことで合ってますか?

    また。先日、パニチェさんとみのりとでやりとりした話で言うところの、「どこにあるここにあるとは明言することが不可能なもの(主体)」とも重なっていそうですね。

    > >>例のカニッツァの三角形みたいなイメージで捉えています。
    >>あの図というのは、ウィトゲンシュタインが考えたものなのでしたっけ?
    >>それともそれ以前からあるものでしたか?
    >
    > カニッツァの三角形はもともとウィトゲンシュタインとは無関係で有名な錯視の図です。

    そうなんですね。 ありがとうございます。

    >>でも今回は理解できた気がします。
    >>黒い三つの丸いパックマンみたいなのが、三人の人間。
    >>そして、対角線上のそれぞれの頂点が、それぞれの人間の主体になるんでしょうね。
    >>主体、〈私〉と言い換えてもパニチェさん的にはいいのだと思うのですが、それはそれぞれの本人にしか知りえない、というのを表している図なのかな、と。
    >
    > 黒い三つの丸いパックマンみたいな形や直線が論考で語っている部分の象徴(例え)です。
    > 論考で語れるところを語ることによって(言語の限界を示すことによって)語れない部分(透明の三角形、これがカニッツァの三角形です)が浮き彫りになるという構図を示したつもりでした。
    > 余計に分かりにくかったかもしれませんね。

    真ん中の透明というか浮き出される三角形は、『論理哲学論考』で「主体だけが論じることのできないものとなるであろうからである。」と書かれている、その形而上学的主体についてである、ということ。その喩えとしてパニチェさんが出された、ということですね。
    これであってますか?

    > >>世界内に存在する身体性も含めた空間や物質に関して「私の意志に従う」ものが自であり、「従わないもの」が他であるというような自他の境界みたいなものだと私は読解しています。
    >>なるほど。 自分のものとされている例えば心臓は、自分では制御できない(しつこいな〜 (笑)んですが、それは「自」ですか、それとも「他」と考えられますか?
    >
    > ここで前提になっているのは言語と論理を世界との対応関係(写像理論)として示しています。
    > 心臓は自分では制御できませんが身体の特性を述べている文脈ではないので、世界に属するうちの自他の境界を示し、語れる自を語る(書籍に書く)ことで、世界に属さない形而上学的主体を浮き上がらせる(孤立させる)に有効な手段だというようなことを述べているのだと思います。

    哲学上において、他についてはそもそも何も語れない、とウィトゲンシュタインは考えていて、自について語れるものをどんどんと語っていっても、形而上学的主体(主体といわれるものの本質)については語ることができない、というのを示す有効な手段、ということですか?

    また。以前に、〈私〉についての説明を、パニチェさんがみのりにしてくださった際の手法もこのことと似ていますよね。 そのように感じました。


    >>なんでウィトゲンシュタインは一冊しか書かなかったんでしょうね。
    >>哲学で大人気だし、たくさんの解説書も出されているほどなのに。
    >>ニーチェのように何冊も出していれば、言説がわかりやすかったのかもしれないですね。
    >
    > 論考をもって語ることをいったんやめました。

    なるほど。植木屋さん、小学校の教員になったりというのが、『論理哲学論考』を書いたあとになるんですね。

    > 新たな言語論(言語ゲーム)の発想でもって哲学に復帰しましたが書籍にまとめる前に他界してしまい、多くのメモ書きや論文、講義ノートがみつかり、これをもとにした複数の書籍が出版されたということです。

    言語ゲームは後期のものというのは、漠然と知ってましたが、それらもメモ書き、論文、講義ノートをもとに編集されたものから解説本として世に出ている、ということなのですね。

    (このあたりは、先日、教えていただいた分と重なる部分もありますが、再確認の意味で文章化しました。ロムの方にもいいかな、と思い。)

    >>私自身に関しては、今、『ツァラトゥストラ』で一杯なので、ウィトゲンシュタインの解説書までは手が出せないし、なにしろ去年、永井さん解説のを買って少し読んだけど、わからなすぎで途中でやめてますからねぇ。。。(´;ω;`)ウッ…
    >>で、読んでもいないのに、興味本位に自由奔放にレスして、申し訳ない気持ちでもあります。。。
    >
    > 全然、大丈夫です。^^

    ザザビのふくろうさんに勧めてもらった本が来たら、『ツァラトゥストラ』の合間に少しずつ読んでみようと思ってます。
    入不二基義『ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか』(NHK出版)

    パニチェさん的には、私が読もうとしている本についてどう思われますか?
    忌憚のない意見を、参考としてお聞きしたいです。
    (あまりいいと思わない、ということであっても、読んでみようと思うに変わりはないので、率直な意見を聞きたいのです。 読んでないのでわからない、も含めて、よかったら教えてください。)
引用返信/返信 削除キー/
■18529 / inTopicNo.29)  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ 時 -(2021/11/08(Mon) 05:04:30)
    ザビビのふくろうさんへ

    お久しぶりです。お元気そうで何よりです。

    No18471

    > 「思考し表象する主体は存在しない」――ウィトゲンシュタイン

    インド聖者のある言葉で「行為は行われるが、そこに行為者はいない。」というものがあります。上記に当てはめると「思考は起こるが、そこにその思考している主(体)は存在しない」となり、これは、私には理解できそうです。

    > 風は吹く。
    > しかし、風は吹く主体(実体)ではない。
    > 風とは、吹くことそのものである。

    > 炎は燃える。
    > しかし、炎は燃える主体(実体)ではない。
    > 炎とは、燃えることそのものである。

    > 私は語る。
    > しかし、私は語る主体(実体)ではない。
    > 私とは、語りそのものである。
    > 私は私の言葉である。

    上記で感じることは、風と炎の譬えは良いとして「私は語る。→私は私の言葉である。」という流れに仏教思想との違いがあるように思います。ここで確認のために付け加えておきたいのですが、私自身はウィトゲンシュタインの哲学を全く知りませんので、ウィトゲンシュタインの哲学、それを否定するために書くのではないということです。ご理解ください。

    私の知る仏教での「私」の扱いですが、「私は存在する・存在しない」のどちらかという二値での答えは説かれないようです。仏陀自身のことについての死後には存在するのかしないのかといった問いかけには無記(スルー)でした。なぜならば仏陀曰くの二値でのその答えは「涅槃や解脱に役立たないから」です。

    それに関連して、五蘊非我(無我)が説かれています。五蘊とは(色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊)と表現されますが、五つの蘊(固まり、集まり)のことで、これらはすべて我に非ざるものということになります。

    例えば色が我ならば「私の体は病気になるな。老いるな、このようになれ。」とできるはずで、非我ゆえに体(色)は、やがては病になり崩れます。

    受が我ならば「常に嫌な感情よ湧き起こるな」とできるはずで、非我ゆえにそれも不可能です。といった具合での説明が続き、それらはあなたではないので、捨てなさい離れなさいと教えが続きます。五蘊非我の教えです。

    ですので「私の探求」は、仏教ではしていないと思います。唯一答えらしきものが記載されているのは「私が存在する。というのは妄想です。」という一文です。そして例えばの「私とは何か?」と、それを探求していくのが哲学ですよね?そして

    > 私とは、語りそのものである。
    > 私は私の言葉である。

    哲学的なこの答えは、答えとしてよいのではないでしょうか。

    仏教的にみると「我の誤認」ということになりそうですが、何も仏教(仏陀の教え)が正しくて他は間違いだというものでもないでしょうから。(ウィトゲンシュタインの哲学の著書の解釈でのお話合いとは別に)

    私はウィトゲンシュタインの哲学を知りませんし、失礼ながらザビビのふくろうさんは、仏教をご存じないようですので、私とは、議論にはなりそうにありません。すみません。

    それともう一つですが、気まぐれさんには少しご説明しましたが、西洋の論理と東洋の論理は違うように思います。東洋思想を西洋論理では当てはめて理解はしにくいでしょうし、逆に、西洋思想を東洋論理には当てはめて理解はしにくいと思います。それをしようとすると、その洋の東西の思想体系でのそれぞれの答えらしきものが出ないだろうと思うということです。

    もしもザビビのふくろうさんが、長年にわたり熱心に仏教思想にはまっていたのであれば、その思想体系は解き明かされていたのではないだろうかと、ふと思う時があります。

    ですので、ウィトゲンシュタインの哲学の著書に
    > 私とは、語りそのものである。
    > 私は私の言葉である。
    と記載があっても、ザビビのふくろうさんの解釈がこのようであっても問題はないと思います。

    ウィトゲンシュタインを知らない私が書くことですので、何も参考にはならないかもしれません。この辺で。
引用返信/返信 削除キー/
■18528 / inTopicNo.30)  ひきずり男さんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/11/08(Mon) 01:14:41)
    ひきずり男さん

    やれやれ。
    論理的反論が無理なので、権威に頼るしかないのね(笑)

    >少なくとも私の知る限りで「私は私の言語世界である」「私が存在するとき、常に既に、言語が存在する」と論考を読解している者は一人だけである。

    『論考』解釈マニアにとっては、これは誉め言葉以外の何ものでもないよ。ありがとう。
    ただ、私の主張を理解したら、あなたが挙げている人たちも、反対するかどうかは疑問ですけどね。

    >「私は私の言語世界である」「私が存在するとき、常に既に、言語が存在する」なんてことはウィトゲンシュタインは論考で述べてない

    『論考』を解釈するということは、ある意味、『論考』の諸命題の行間を埋めることであって、『論考』に文字通りの意味では書かれていないことを述べるのは当然です。
    それは、あなたが挙げている研究者にしたって同じことです。
    『論考』の主張と整合しない、もしくは私の主張が矛盾しているというなら、それをきちんとあなた自身で論理的に反論として示してください。
    でないと、議論にはなりません。おわかりですか?
    反論しやすいように、再度、主張を以下にわかりやすくまとめ直してみました。
    よかったらどうぞ。
    ****************************
    No18151を書いたときは、ひきずり男さんがもう少し理解しているだろうと思って省略も多く、そのために理解されないのかもしれません。
    そう考えて、もう少しだけ言葉を足して、かつ、論理が捉えやすいように単純化して議論を再構成というか、まとめてみました。
    厳密な論証形式はとりませんが、十分、わかりやすいのではないかと思います。

    ※以下の「私」は、すべて「世界の限界としての私」(T5.63,5.631,5.632)
    すなわち、「形而上学的主体(T5.633)」を意味します。

    【前提となる『論考』の主張(の解釈と根拠となる命題)】
    (1)私の世界=私の言語が語る世界(私の言語世界) (∵T5.6)
    (2)世界=私の世界(生)(∵T5.62,5.641)
    (3)世界=生(T5.62&5.621)
    (3)私=私の世界(∵T5.63)
    (4)言語=私の言語(T5.62(ただし、「この言語(私が理解する唯一の言語)」と解釈))

    (1)〜(4)より、次が帰結する。
    ∴ 私=私の世界(生)=私の言語が語る世界(私の言語世界)
    よって、ここから次を導き得る。
    【結論】 私(の存在)=私の言語世界(の存在)

    【別角度からの補足説明】

    『論考』における世界とは、言語(命題の総体)のうちの真なる命題が語る事実の総体として定義されています。
    世界の構成要素(ラッセルの言う「原子的事実」)である事態は、要素命題の語るものとして定義され、写像理論によって、写像形式である命題の名の結合構造の可能性と事態の対象結合の構造の可能性は同一とされています。したがって事態は命題に対応する分節構造を有しているわけです。
    だからこそ、本質的に、世界は語りうるもの(言語により写像可能なるもの)だということです。

    言語の限界=論理の内側において、それを超える言語以前の世界(の状態)などというのは語ることも、したがって思考することも不可能です。
    このような想定はカント的物自体世界のヴァリエーションの二世界説となり、独我論と実在論が一致するという『論考』の一元論的世界観と整合しません。
    もちろん、中期の意味の検証理論からみてもナンセンスです。

引用返信/返信 削除キー/
■18518 / inTopicNo.31)  Re[14]: 無我
□投稿者/ パニチェ -(2021/11/07(Sun) 19:29:08)
    みのりさん、こんばんは。レスありがとうございます。

    No18491に返信(みのりさんの記事)

    > 言語で語れる私についてはいくらでも言語を用いて語ることはできる。
    > しかし、語れない主体についてはいっこうに語ることはできない。
    > ということでしょうか。

    そうです。

    > ふと思ったのは、そもそも主体というのは人間独自の思考によって設定されているものであり、言わば人間の思考によってのみ(言語によってのみ)存在させられているものなので、主体の「本質」について語ろうとしても語れるものではないのではないか、ということ、それをウィトゲンシュタインは引用文で言おうとしているのかな、ということです。
    > そして、
    > >主体は世界に属さない。
    > とは、「主体というのはそもそも存在しない」という意味? とも思いました。

    ここで言う主体とは形而上学的主体のことです。
    そもそも存在しないということではなく、世界内には属さないということですね。

    >>例のカニッツァの三角形みたいなイメージで捉えています。
    > あの図というのは、ウィトゲンシュタインが考えたものなのでしたっけ?
    > それともそれ以前からあるものでしたか?

    カニッツァの三角形はもともとウィトゲンシュタインとは無関係で有名な錯視の図です。
    論考がこのような構図になっているということをパニチェが勝手に持ってきて(分かりやすい)と思って採用している図ですが、説明不足だったようです。

    > でも今回は理解できた気がします。
    > 黒い三つの丸いパックマンみたいなのが、三人の人間。
    > そして、対角線上のそれぞれの頂点が、それぞれの人間の主体になるんでしょうね。
    > 主体、〈私〉と言い換えてもパニチェさん的にはいいのだと思うのですが、それはそれぞれの本人にしか知りえない、というのを表している図なのかな、と。

    黒い三つの丸いパックマンみたいな形や直線が論考で語っている部分の象徴(例え)です。
    論考で語れるところを語ることによって(言語の限界を示すことによって)語れない部分(透明の三角形、これがカニッツァの三角形です)が浮き彫りになるという構図を示したつもりでした。
    余計に分かりにくかったかもしれませんね。

    >>世界内に存在する身体性も含めた空間や物質に関して「私の意志に従う」ものが自であり、「従わないもの」が他であるというような自他の境界みたいなものだと私は読解しています。
    > なるほど。 自分のものとされている例えば心臓は、自分では制御できない(しつこいな〜 (笑)んですが、それは「自」ですか、それとも「他」と考えられますか?

    ここで前提になっているのは言語と論理を世界との対応関係(写像理論)として示しています。
    心臓は自分では制御できませんが身体の特性を述べている文脈ではないので、世界に属するうちの自他の境界を示し、語れる自を語る(書籍に書く)ことで、世界に属さない形而上学的主体を浮き上がらせる(孤立させる)に有効な手段だというようなことを述べているのだと思います。

    > なんでウィトゲンシュタインは一冊しか書かなかったんでしょうね。
    > 哲学で大人気だし、たくさんの解説書も出されているほどなのに。
    > ニーチェのように何冊も出していれば、言説がわかりやすかったのかもしれないですね。

    論考をもって語ることをいったんやめました。
    新たな言語論(言語ゲーム)の発想でもって哲学に復帰しましたが書籍にまとめる前に他界してしまい、多くのメモ書きや論文、講義ノートがみつかり、これをもとにした複数の書籍が出版されたということです。

    > 私自身に関しては、今、『ツァラトゥストラ』で一杯なので、ウィトゲンシュタインの解説書までは手が出せないし、なにしろ去年、永井さん解説のを買って少し読んだけど、わからなすぎで途中でやめてますからねぇ。。。(´;ω;`)ウッ…
    > で、読んでもいないのに、興味本位に自由奔放にレスして、申し訳ない気持ちでもあります。。。

    全然、大丈夫です。^^

引用返信/返信 削除キー/
■18513 / inTopicNo.32)  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/11/07(Sun) 19:11:04)
    ザビビのふくろうさん、こんにちは!
    レスありがとうございます

    No18502

    >註2で、「SN 44.10で仏陀は自己が存在しないという立場を取ることを拒否しているので、」と書かれているのがなんか気になりますね^^<

    ↓SN 44.10の経典文のアドレス貼りますね。
    https://www.accesstoinsight.org/tipitaka/sn/sn44/sn44.010.than.html

    ※※※※※※※※
    ★無我について。

    わたしの好きな宗派のおぼうさまがお書きになられた『仏法』(ポーオーパユットーさま著)を読むと、
    無我性の原理も縁起の方向に沿って考察しなくてはならない、とありました。(p84)


    有無中道に関する経典としては、Kaccayanagotta Sutta をよく目にする気がします。アドレスを貼りますね。↓

    https://www.accesstoinsight.org/tipitaka/sn/sn12/sn12.015.than.html

    ※※※※※※※※

    No18504
    >入不二基義『ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか』(NHK出版)<

    本のご紹介ありがとございます
    もし、ウィトゲンシュタインに関する解説本を買う時は、この本を買おうと思います
    (^_^)

    おつかれさまです!
引用返信/返信 削除キー/
■18505 / inTopicNo.33)  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ みのり -(2021/11/07(Sun) 18:26:44)
    No18504に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    > 入不二基義『ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか』(NHK出版)
    >
    > これは現在、電子書籍はあるようですが、紙本は中古品しか手に入らないかもしれませんので、それが難点ではあります。図書館という手もあると思いますが。
    > ウィトゲンシュタインについては、たとえどんな解説書を読もうと、一冊読んで理解できることはまずありえないと思いますが、もし仮に読もうと思われたら、あなたの関心からすると、テーマを絞って書かれている、これが良いのではないかと私は思います。薄いということもあります。
    > ちなみに、pipitさんにもこの本はおススメです。
    > 間違っても、手に入れやすいからといって、鬼界先生の新書本だけは買わないように^^

    勧めていただいた本、探してさっそく注文しました。
    Amazonだと紙の本が中古でまだけっこうあるようです。

    難しそうですが読むのがたのしみです。
    ありがとうございます!
引用返信/返信 削除キー/
■18504 / inTopicNo.34)  みのりさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/11/07(Sun) 17:36:31)
    みのりさん。はじめまして。

    お尋ねの個所については、パニチェさんが既にお教えくださったようなので繰り返しません。

    ただ、せっかくレスをいただいたので、一つだけ余計なお世話のアドバイスをさせてください。

    私が一冊だけあなたにおススメするとしたら、
    パニチェさんも挙げていましたが、
    次の本になります。

    入不二基義『ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか』(NHK出版)

    これは現在、電子書籍はあるようですが、紙本は中古品しか手に入らないかもしれませんので、それが難点ではあります。図書館という手もあると思いますが。
    ウィトゲンシュタインについては、たとえどんな解説書を読もうと、一冊読んで理解できることはまずありえないと思いますが、もし仮に読もうと思われたら、あなたの関心からすると、テーマを絞って書かれている、これが良いのではないかと私は思います。薄いということもあります。
    ちなみに、pipitさんにもこの本はおススメです。
    間違っても、手に入れやすいからといって、鬼界先生の新書本だけは買わないように^^

引用返信/返信 削除キー/
■18502 / inTopicNo.35)  Re[14]: pipitさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/11/07(Sun) 17:10:53)
    pipitさん
    レスならびにお気遣い、ありがとうございます。
    でも、わたし、もともとKYなので、ご心配なきようm(__)m

    昔、メビリンで、この無我の話をしたとき、時さんにも原始仏典から(別の個所だと思いますが)、たしか引用して、教えていただいたように記憶しています。

    せっかくなんで、リンクを貼っていただいた
    https://www.accesstoinsight.org/tipitaka/kn/snp/snp.4.14.than.html
    の文章を、全部DeepL翻訳にかけてみました。
    なんか、わかりやすいかも。
    註2で、「SN 44.10で仏陀は自己が存在しないという立場を取ることを拒否しているので、」と書かれているのがなんか気になりますね^^

    ****************************
    Sn 4.14 PTS: Sn 915-934
    Tuvataka Sutta: Quickly
    translated from the Pali by
    Thanissaro Bhikkhu
    &#169; 1997

    "太陽の近親者、偉大な予言者に尋ねる。
    隠遁と平和の状態について。
    僧侶はどのようにして束縛されず、世界の何にも執着しないのか」。
    "彼は、客観的な分類の根源を完全に止めるべきです。
    客観化-分類の根源を完全に止めるべきだ。
    私は考える人だ」[1]。
    僧侶は、常に心を配りながら訓練しなければならない。
    自分の中のどんな渇望も抑えるように訓練しなければならない。
    彼がどんな真実を知っていようとも
    自分の中にあるかないかにかかわらず
    それに縛られてはいけません。
    それに縛られてはいけない。
    なぜなら、それは
    それは「善による解脱」とは呼ばないからだ。
    そのために、自分が良くなったと思ってはいけません。
    より良いと思ったり
    下位、あるいは
    平等だと思ってはいけない。
    様々な方法で接触することで触れられる。
    自分のことを考えてはいけない。
    自分の中に閉じこもる。
    僧侶は、他の人に安らぎを求めてはいけません。
    何か他のものに求めてはいけません。
    自分の中で静まっているからこそ
    抱かれることはありません。
    どうやって拒絶するのか[2]。
    海の中のように
    静止している。
    湧き上がる波もない。
    だから、僧侶は-平静で、静寂で-
    僧侶はどこにいても自分を膨らませてはならない
    どこにも膨らんではならない。"

    "目が開いている人は、自分が見たダンマを
    目を開いている人は、自分が目撃したダンマを説明している。
    危険を克服しています。
    さて、先生、練習方法を教えてください。
    "規律と集中の規範"

    "人は自分の目に不注意であってはならない。
    村の話し声に耳を塞ぐべきではない。
    味覚に飢えてはいけない。
    世の中のあらゆるものを
    私のものだと思ってはいけない。
    接触しても
    嘆いてはいけません。
    どこの国でも、どんな状態になっても、欲しがってはいけない。
    嘆いてはいけない。
    恐怖におののいてはならない。
    食べ物や飲み物を得るとき。
    食べ物や飲み物、主食や布などを
    溜め込んではならない。
    また、利益が得られなくても、動揺してはならない。
    動揺してはならない。
    夢中になって、足元を見てはいけない。
    落ち着きのない行動は慎むべきだ。
    注意を怠ってはならない。
    騒がしい家に住んではいけない。
    睡眠をあまりとらないこと。
    猛烈な勢いで覚醒してしまう。
    怠惰、欺瞞を捨てるべきである。
    笑うこと、スポーツすること
    怠惰、欺瞞、笑い、スポーツ、姦淫、そしてそれに付随するすべてのものを捨てるべきである。
    呪文を唱えてはならない。
    呪文を唱えたり、身体的な印や夢を解釈したりしてはならない。
    呪文を唱えたり、身体の印や夢、星、動物の鳴き声を解釈したりしてはならない。
    また、医療や生殖能力を高めることに専念してはなりません。
    また、医学や生殖能力を高めることに専念してはなりません。

    僧侶は、非難されても震えてはならず
    褒められても傲慢になってはいけません。
    利己主義、貪欲、分裂的な言葉、怒りを捨てなければならない。
    利己主義、貪欲、差別的な言動、怒りを捨て
    買ったり売ったりしてはいけません。
    買ったり売ったりしてはならず、どこかで誰かを誹謗中傷してはならない。
    村にとどまるべきではない。
    村に入り浸ったり、お世辞を言って利益を得ようとしたりしてはいけません。

    僧侶は、自慢したり、下心で話したりしてはいけません。
    下心を持って話してはいけません。
    不埒な修行をしてはならない。
    喧嘩腰の言葉を口にしてはいけません。
    人を欺くことをしてはならない。
    騙したり、故意に不正をしてはいけません。
    人の人生や生活を軽蔑してはいけません。
    人生は
    判断力
    戒め。
    してはなりません。
    多くの言葉で挑発され
    多くの言葉で挑発され
    普通の人からの言葉で挑発されます。
    厳しく対応すべきではない。
    なぜなら、報復する人は
    穏やかではないからです。

    この教えを知って
    質問する僧侶は
    常に
    心して修行に励むべきである。
    解脱を平穏と知る。
    悟浄のメッセージに無頓着であってはならない。
    悟浄のメッセージを無視してはならない。
    なぜなら、彼は、征服されていない征服者だからです。
    ダンマを目撃したからです。
    伝聞ではありません。
    直接、自分自身で。
    だから、注意して、あなたは
    いつもその祝福された方のメッセージに沿って
    祝福された人のメッセージに沿って、常にトレーニングをしなければなりません」と

    祝福された人は言った。

    www.DeepL.com/Translator(無料版)で翻訳しました。

    [1]
    客観化による分類と、それが紛争につながる役割については、Sn4.11とMN18の序論を参照。私は考える人である」という認識は、これらの分類の根底にある。それは、「私/私ではない」、「存在/存在ではない」、「考える人/考える人」、「アイデンティティ/アイデンティティではない」という一連の区別を現在の状況に読み込んでいるからであり、それが精神的・肉体的な対立へと発展していくのである。このような認識に内在する驕りが、心の足枷となっているのです。心の枷を外すためには、誰もが当たり前のように持っているこれらの区別を吟味し、それが経験に基づかない単なる思い込みであることを知り、それを捨て去ることができるようにならなければなりません。
    [2]
    この読み方は、タイ版Nd.Iに記載されている節のバージョンと、スリランカ版Sn 4.14の脚注に記載されている別の読み方に従っている。ビルマ語版とスリランカ語版では「n'atthi attaa kuto nirattaa vaa」となっている。"自己はない、では自己に反するものは何か?" タイ語版では、「n'atthi attaa kuto niratta,m vaa」と書かれています。"自己がないのに、何がどう拒否されるのか?" この最後の読み方は意味をなさない。ビルマ語とスリランカ語の読み方は、ニラッタアが実際の言葉であるという考えに基づいているが、ニラッタアは「アタカ・ヴァッガ」の他の2つの詩の中でニラッタに代わる可能性のある言葉として登場する(Sn 4.3とSn 4.10)以外は、キヤノンにはどこにも現れない。SN 44.10で仏陀は自己が存在しないという立場を取ることを拒否しているので、この節のn'atthi attaaという読み方はすべて間違っていると思われる。そのため、私はここでの読み方を採用しました。

    www.DeepL.com/Translator(無料版)で翻訳しました。

引用返信/返信 削除キー/
■18500 / inTopicNo.36)  田秋さんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/11/07(Sun) 17:05:01)
    田秋さん。はじめまして。
    レスをありがとうございます。

    私は昔からクラシック音楽を好きで聴きますが,曲を聴いても曲名・作曲家がわからない段階から一歩も成長できないセンスなきど素人です。
    時々,あなたのトピを拝見して,プロの音楽家の方と知り,うらやましいなと思っていました。
    以下述べることを既に御存じであれば,知ったかぶり,ご容赦ください。

    『反哲学的断章――文化と価値』丘沢静也訳(青土社)

    という,ウィトゲンシュタインの日記というか,長年にわたって彼が書き留めたメモを編集した本があります。
    この本の中でもっともよく取り上げられるテーマの一つが,クラシック音楽,作曲家に関するものです。
    ここでは,音楽・芸術に関して彼は,普通の意味できわめて雄弁に「語っています」。
    もしかしたら,田秋さんには,この著作が面白いのではないかと考えていたので,紹介したくてうずうずしていました(笑)。機会がありましたら手に取ってみてください。

    ちょっと参考までに蛇足…
    ウィトゲンシュタインにとって,音楽のもつ意味がきわめて大きいものであった背景には次のような家庭環境がありました。
    彼の育った宮殿とも呼ばれた家には,オーストリアの鉄鋼王と称された父親が多くの芸術家のパトロンをしていたこともあり,クララ・シューマンやブラームスが訪れ,クララがピアノリサイタルを開いたり,
    後年ではマーラーや若きブルーノ・ワルターも出入りしていたそうです。
    また,ウィトゲンシュタインの音楽の才能のあった長兄を含め3人の兄たちは自殺したのですが,一人生き残った兄パウル・ウィトゲンシュタインが第一次大戦で右腕を失ったもののピアニストとなり,プロコフィエフやラヴェルたちに作曲を依頼して,今でも演奏される『左手のためのピアノ協奏曲』を書いてもらっています。これはよく御存じかもしれませんが。

    https://www.youtube.com/watch?v=EswRrhnkbis

    ウィトゲンシュタイン本人は,小学校の教師になるときクラリネットを習ったことがあったそうですが,それより有名な話として,絶対音感の持ち主でもあった彼は,なんと口笛でベートーベンのシンフォニーを一曲全部通して吹くほどの口笛の名手であったという知人の話がのこっています。

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