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■19150 / inTopicNo.13)  Re[88]:  「形而上学」
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/11/20(Sat) 14:42:24)
    「世界」の見方で、「この世(界)」と「あの世(界)」っていうのあるよね。

    「この世(界)」っていうのを〈私たちが暮らしている世界〉ってして、「この世(界)」とは“別の世界”があって、その世界を「あの世(界)」って呼んでるてして見るね。
    そして、「あの世(界)」は存在する、ってして、でも「あの世(界)」は、この世(界)で暮らしている私たちにはよくわかんない世界ってして見るね。

    このような〈この世(界)〉と〈あの世(界)〉という見方から、
    No19069の(1)の(a)の
    〔形而上学は、感覚ないし経験を超え出でた世界を真実在とし、その世界の普遍的な原理について理性(延いてはロゴス)的な思惟によって認識しようとする学問ないし哲学の一分野である。世界の根本的な成り立ちの理由(世界の根因)や、物や人間の存在の理由や意味など、感覚を超絶したものについて考える。〕
    を見て見るね。

    で、
    1.〔感覚ないし経験〕世界、これを〈この世(界)〉ってして見る。
    2.〔感覚ないし経験を超え出でた世界〕は、〈この世(界)を超え出た世界〉ってなって、このような世界を〈あの世(界)〉ってして見る。
    〈あの世(界)〉というのは〈この世(界)〉を“超え出”てる、あるいは“超越”した世界って見ているのかも。
    こう見たとき、

    〔形而上学は、感覚ないし経験を超え出でた世界を真実在とし、その世界の普遍的な原理について理性(延いてはロゴス)的な思惟によって認識しようとする学問ないし哲学の一分野である。〕
    っていうところは、
    〈あの世(界)〉という、〈この世(界)〉を超え出た世界が存在するとし、その〈あの世(界)〉は真実在であり、普遍的な原理であるとし、そして、このような〈あの世(界)〉を〈この世(界)〉の人間に備わっている理性(延いてはロゴス)的な思惟によって認識しようとする学問ないし哲学の一分野が、形而上学である。
    ってなったんだけど、これ、見方によっては、
    〈この世(界)〉を超絶した〈あの世(界)〉は、人間に備わっている理性的思惟によって認識できる。
    とも見れる。このようなのがアリストテレスの形而上学だとしたら、カントのとは違う気がする。
    カントのは、〈あの世(界)〉が存在するってしてるけど、(中島さんが言うには)人間理性によって〈あの世(界)〉を捉えようとすると、必ず仮象(錯覚)に陥る、ってしてる見たい。

    〔世界の根本的な成り立ちの理由(世界の根因)や、物や人間の存在の理由や意味など、感覚を超絶したものについて考える。〕
    っていうところ、最初に出てくる〔世界〕を〈この世(界)〉と見るか、〈あの世(界)〉と見るか、わかんなかったんだけど、二つ考えて見た。

    a〈この世(界)〉の根本的な成り立ちの理由(〈この世(界)〉の根因)や、(〈この世(界)〉の)物や人間の存在の理由や意味など、そして、〈あの世(界)〉のような感覚を超絶したものについて考える。

    b〈あの世(界)〉の根本的な成り立ちの理由(〈あの世(界)〉の根因)や、(〈この世(界)〉の)物や人間の存在の理由や意味など、そして、(〈この世(界)〉の)感覚を超絶したもの(〈あの世(界)〉)について考える。

    アリストテレスの「形而上学」では、〈この世(界)〉の根本的な成り立ち・根因を、〈あの世(界)〉によるもの、ってしてるのかも。


引用返信/返信 削除キー/
■19149 / inTopicNo.14)  Re[87]:  「形而上学」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/11/20(Sat) 13:41:17)
    No19069のつづき

    簡単にまとめて、
    「形而上学」とは、
    (1)アリストテレスの「第一哲学」と呼んだ学問。ちなみに、「第二哲学」は自然哲学(今日の自然科学)
    (2)アリストテレスでは、あらゆる存在者を存在者たらしめている根拠を探究する学問。
    (3) meta physika(自然・後)、すなわち、自然の背後や基礎を探るもの。
    (4)形而上学は、哲学の伝統的領域の一つとして位置づけられる研究。
    (5)形而上学では、存在論、神、精神、自由の概念等が伝統的な主題とされている。

    「形而上学」って、アリストテレスの見たいだから、わたしの意味はそれにすることにする。

    でね、わたしの、
    「形而上学」を〈すべての成らしめるものを探究する学問〉っていうことにした。
    ちょっと長いから、〈成らしめるもの〉という意味で「根源」っていう語を使って、
    〈すべての根源を探究する学問〉ってしとく。

    アリストテレスの「形而上学」では、まず〈すべての根源〉というものが存在する、ってしてるんだと思う。そして、それはどのようなものかを探究してる、っていうことなんだと思う。
    もっとも、“そのようなもの”を想定しない場合、それへの探究も発生しないんだろうけどね。

    〈すべての根源〉が存在するってしたとき、そのようなものをどう見るか、によって違ってくるのかもしれない。
    たとえば、万物の創造主がいて、それを「神」という名で呼ぶ人は、「神」を〈すべての根源〉とみなし、「形而上学」を「神学」と呼ぶかもしれない。
    ほかに、〈すべての根源〉を「自然」という名で呼ぶ人もいるかもしれない。でもこのばあいアリストテレスの「形而上学」とは違ってくる。だってmeta physika(自然・後)よね。もっとも「自然」というのをどういう意味としているのかによって違ってくるけど。たとえば、スピノザは「神=自然」としていたように。
    ん〜ん、この「自然」っていうのも問題ね。これもわたしの物語りになるわね。

    いづれにしても〈すべての根源〉を何とするかは人によってそれぞれみたい。




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■19071 / inTopicNo.15)  Re[86]:  「形而上学」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/11/18(Thu) 19:40:14)
    ちょっと思ったんだけど

    「哲学」なんかに関心な〜い、とか、そんなのど〜でもいいよ、っていう人は、
    ニーチェのもどうでもことになるよね。

    わたしニーチェも哲学者って見てるから、ここでのわたしの物語りは哲学的なお喋りに限定してる。あ、もっともわたしのばあい「哲学」じゃなくてフィロソフィアだけどね。
引用返信/返信 削除キー/
■19069 / inTopicNo.16)  Re[85]:  「形而上学」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/11/18(Thu) 18:52:27)
    「形而上学」、わたしの、どう意味にしとっかな〜、って。
    今週の物語りはこれかな?

    実はね、わたしが読んでるメルポンの訳書(『行動の構造』『知覚の現象学』)、には「形而上学」に関する記述がないのね。だから、あまり「形而上学」には興味なかったんだけど、この機会にわたしの意味をどうして置こうか、って。

    ちなみに、アリストテレスの『形而上学』でわたし関心あったところは、
    No11101に書いといた。

    ということで、ネットからちょっと調べて見た。
    どうやら「形而上学」というの、アリストテレスのみたいだから、そこのと思われるところを抜粋して見ます。

    (1)Goo辞書から、
    《metaphysics自然学のあとの((ギリシャ)ta meta ta physika)書の意。後世、ロードスのアンドロニコスがアリストテレスの著作編集に際して採った配列に由来》
    1 アリストテレスでは、あらゆる存在者を存在者たらしめている根拠を探究する学問。すなわち第一哲学または神学。
    2 現象的世界を超越した本体的なものや絶対的な存在者を、思弁的思惟や知的直観によって考究しようとする学問。主要な対象は魂・世界・神など。

    (2)ウィキから、
    〔形而上学(けいじじょうがく、英: Metaphysics)は、感覚ないし経験を超え出でた世界を真実在とし、その世界の普遍的な原理について理性(延いてはロゴス)的な思惟によって認識しようとする学問ないし哲学の一分野である。世界の根本的な成り立ちの理由(世界の根因)や、物や人間の存在の理由や意味など、感覚を超絶したものについて考える。対立する用語は唯物論である。他に、実証主義や不可知論の立場から見て、客観的実在やその認識可能性を認める立場や、ヘーゲル・マルクス主義の立場から見て弁証法を用いない形式的な思考方法のこと。〕(a)
    〔形而上学は、哲学の伝統的領域の一つとして位置づけられる研究で、歴史的にはアリストテレスが「第一哲学」(希: ἡ πρώτη Φιλοσοφία)と呼んだ学問(そして、それに関する著作がまとめられた『形而上学』という書物)に起源を有し、「第二哲学」は自然哲学、今日でいうところの自然科学を指していた。形而上学における主題の中でも最も中心的な主題に存在 (existence)の概念があるが、これは、アリストテレスが、第二哲学である自然哲学を個々の具体的な存在者についての原因を解明するものであるのに対し、第一哲学を存在全般の究極的な原因である普遍的な原理を解明するものであるとしたことに由来する。そして存在をめぐる四つの意味を検討してから存在の研究は実体(substance)の研究であると見なして考察した。〕(b)
    〔形而上学では、存在論の他に、神、精神、自由の概念等が伝統的な主題とされ、精神や物質もしくは数や神のような抽象的な事柄が存在するか、また人間という存在は複雑に組み立てられた物質的な体系として定義できるかどうか、などが問われてきた。形而上学の研究には心理学的、宇宙論的、存在論的、神学的な関心に基づいた研究もあるにもかかわらず、形而上学は哲学的方法に基づいた研究であり、物理学や心理学や生物学といった科学的方法に基づいた自然諸科学や、特定の聖典や教義に基づいた神学と区別される。〕(c)
    〔形而上学の学問的な伝統は、直接的には、それらを引き継いだ古代ギリシアの哲学者アリストテレスの『形而上学』に始まる。彼の著作は西暦30年頃アンドロニコスにより整理されたが、その際、『タ・ピュシカ』(希: τὰ φυσικά, ta physika、自然(についての書))に分類される自然学的書作群の後に、その探求の基礎・根本に関わる著作群が置かれた。その著作群は明確な名を持たなかったので、初期アリストテレス学派は、この著作群を、『タ・メタ・タ・ピュシカ』(τὰ μετὰ τὰ φυσικά、自然(についての書)の後(の書))と呼んだ。これが短縮され、『メタピュシカ』(希: μεταφυσικά、羅: metaphysica)として定着、後の時代の各印欧語の語源となり、例えば英語では「メタフィジックス」(metaphysics)という語となった。上記のごとく、書物の配置に着目した仮の名称「meta physika(自然・後)」が語源なのだが、偶然にも、その書物のテーマは"自然の後ろ"の探求、すなわち自然の背後や基礎を探るものであり、仮の名前が意味的にもぴったりであったため、その名のまま変更されずに定着した。アリストテレスの著作物の『形而上学』では存在論、神学、普遍学と呼ばれ西洋形而上学の伝統的部門と現在みなされている三つの部分に分けられた。また、いくつかのより小さな部分、おそらくは伝統的な問題、すなわち哲学的語彙集、哲学一般を定義する試みがあり、そして『自然学』からのいくつかの抜粋がそのまま繰り返されている。〕(d)

    なんかごちゃごちゃしててわたしにはなんか難そうだけど、
    ひとまずアリストテレスの「形而上学」を、このようなものとして、見ていくことにする。

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■18993 / inTopicNo.17)  Re[84]: 『論考』の
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/11/17(Wed) 18:14:57)
    なんかまだ『論考』の。またふと浮かんできちゃったから。

    5・631 思考し表象する主体は存在しない。
    「私が見出した世界」という本を私が書くとすれば、そこでは私の身体についても報告が為され、また、どの部分が私の意志に従いどの部分が従わないか等が語られねばならないだろう。これはすなわち主体を孤立させる方法、というよりむしろある重要な意味において主体が存在しないことを示す方法である。つまり、この本の中で論じることのできない唯一のもの、それが主体なのである。

    5・632 主体は世界に属さない。それは世界の限界である。

    の次に来るのが、

    5・633世界の中のどこに形而上学的な主体が認められうるのか。
    君は、これは眼と視野の関係と同じ事情だと言う。だが、君は現実に眼を見ることはない。そして、視野におけるいかなるものからも、それが眼によって見られていることは推論されえない。

    ね。

    No18506で、
    わたし「主体」を〈私の身体〉ってして見たんだけど、
    5・633を見て、
    わたしにちらっとよぎった〈神〉がまた浮かんできた。
    「主体」を〈神〉ってして見たらどうなるのかしら、って。
    これでちょっと見ていって見ることにする。

    その前に〜、「形而上学」って言うの、わたし〈アリストテレスのメタフィジカ(自然科学の後のくるもの)〉、〈神〉?みたなぐらいしか見てなかったんで、「形而上学」ね。

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■18849 / inTopicNo.18)  Re[83]: 『論考』の
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/11/14(Sun) 19:03:29)
    なんか、いいこと思いついちゃった〜、かな?

    pipitさまのところで、たしか、うましかんだったと思うんだけど、紹介してくれた、圓谷裕二さんの「カントの超越論的哲学とメルロ=ポンティの現象学の比較研究」(a)
    のなかで、
    「身体なしに思惟する自己意識」っていうのがあって、なんかおもしろい表言だな〜、って。
    このとき、「自己意識」ってなあに?って思ったんだけど、〈自己の意識〉、意識のうちには〈自己〉っていう場がある、ってして見て、わたしのいい方では「自己意識」じゃなっくて〈我意識〉ってなるんだけど、ま、これはいいわ。

    でね、ちょっと思ったんね。
    No18782でわたし〈身体のある私〉(私のうちに身体を含めるっていうこと)ってして見たんだけど、これに対して、『論考』のウィトちゃんの「私」っていうの、〈身体のない私〉なんじゃないかって。

    こう思いついたわたしがね、
    No18506(2-p82)の5・631で、わたしが勝手に見た、【これはすなわち主体を孤立させる方法、というよりむしろある重要な意味において主体が存在しないことを示す方法である】は、〔これはすなわち〈私の身体〉を孤立させる方法、というよりむしろある重要な意味において〈私の身体〉が存在しないことを示す方法である〕ってなったところを見て見ると、よくわかんなかったんだけど、
    ウィトちゃんの言う「私」っていうのを〈身体のない私〉ってして見たら、なんかそうなのかもね。

    私について見ようとするとき、私を〈身体のある私〉としているのか、〈身体のない私〉としているのか、で見るの、いいかも。

    圓谷さんによれば、カントの、「身体なしに思惟する自己意識」ってして見てるようだし、ってすると、わたしの見方で、カントの『純粋理性批判』は〈身体のない私〉って見られるのね。カントの「純粋な」よね?身体が入り込む余地なし、っていう感じなんじゃないかって?
    あと他にデカルトの「我考える」も〈身体のない私〉かな。
    いま見たように、ウィトっちゃんの『論考』のなかに出てくる私も〈身体のない私〉って見ることで、わたしとしては了解しちゃったよ。

    メルポンのは当然〈身体のある私〉のほうね。

    ひと段落、っていうことで、今日のわたしの物語りは、
    おしまい、おそまい〜、ってね。

引用返信/返信 削除キー/
■18835 / inTopicNo.19)  Re[82]: 『論考』の
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/11/14(Sun) 17:36:03)
    独我論の次に来るのが、【5・621 世界と生は一つである。】
    で、その次が【5・63 私は私の世界である。(ミクロコスモス)】よね。この中にどうして5・621が出てきてるのかわかんない。

    5・621の「世界」っていうの、〈事実の総体〉の方で見て見ると、
    「〈事実の総体〉と生は一つである」ってなって、
    〈考える(言語の)領分(世界)〉で見て見ると、
    「〈考える(言語の)領分(世界)〉と生は一つである」ってなる。
    どちらで見ても、べつにおかしくなさそう。
    ウィトちゃんは、言語の世界は生である、的なことを言おうとしてるのかな?

    メルポンの現象学は、「事実性」から出発する、とか「生の意識」を、だったりしているけど、ま、これとは関係ないか。

    ウィトちゃんの、ノエシスの記述っていうフィロソフィアにとって欠かせないところが抜けてるから、これに関してはもういいかな。

引用返信/返信 削除キー/
■18833 / inTopicNo.20)  Re[81]: 『論考』の
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/11/14(Sun) 16:59:37)
    5・62なんだけど、

    ウィトちゃんは、「独我論の言わんとするところは全く正しい」っていうことから、独我主義、って見るよ。

    訳注によると、「独我論」っていうの、
    〔なんらかの意味で自分と他者とが対比されて捉えられる場面において、他者の存在を否定し、ただ自分だけが存在すると主張する場合を「独我論」と呼ぶ。どのような自他の対比を拒否しているのかに応じていくつかのヴァリエーションがあることになる。典型的な独我論は、すべてを私の意識への現れとして捉え、他の意識主体たる他者を、私の意識のうちへは現れえないという理由で拒否するものである(現象主義的独我論)。『論理哲学論考』の独我論はこのタイプのものではないように思われる。では、それはどのような独我論であったのか。これは『論理哲学論考』の解釈に関わる問題である。〕
    のうよう。
    でね、訳者の言う、
    〔すべてを私の意識への現れとして捉え、他の意識主体たる他者を、私の意識のうちへは現れえないという理由で拒否するものである(現象主義的独我論)〕
    っていうところがちょっと引っかかるのね。これって現象学のことを言ってるのかしら?

    現象学のは、「私の外にあるものものは、私の意識のうちで構成されたもの」って見てるんだとわたし思ってるけど(カントのもそういうんだとわたし見てる)、でも、独我主義じゃないと思う。
    あ、これが言いたかったのね。

    他者経験の問題については、
    No15221に少し書き写して置いた。

    いづれにしても、ウィットちゃんは独我主義で、現象学のはそうじゃない、っていう違いがわかったよ。

    あ、勘違いしないでほしいんだけど、わたし独我論が正しいとか正しくないとかそんなこと言ってるんじゃないからね。ほかの哲学者のと比較して、見方・考え方の違いを見ようとすることで、現象学のがより見えるようになるんじゃないかっていう気がしてるからね。
    もっともわたし現象学派だから、我独りしか存在しない、っていう見方は受け入れないけどね。

引用返信/返信 削除キー/
■18827 / inTopicNo.21)  Re[80]: 『論考』の
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/11/14(Sun) 12:42:58)
    再びね

    No18494の5・6〜5・632についてなんだけど、
    5・6,5・61,5・631,5・632についてはわたしの勝手なのを書いて見たけど、

    No18782書いてて、ちょっと思っちゃたんで、
    5・63 私は私の世界である。(ミクロコスモス)の、
    「私は私の世界である」っていうところ、
    メルポンの、
    「私は私の身体の前にいるのではない。私は私の身体のなかにいる。いやむしろ私は私の身体である。」
    の「私は私の身体である」って、な〜んか似てない?
    メルポンのは、このフレーズで、「私は私の身体である」の意味わかるけど。

    ちょっとこのように「私は私の世界である」を書いて見ると、
    「私は私の世界の前にいるのではない。私は私の世界のなかにいる。いやむしろ私は私の世界である。」(a)
    こうして見ると、何か分かる感じなんだけど、でもこれだと私は世界内存在になっちゃう。
    でも、これ、違う!だって「世界」の意味がメルポンとウィトちゃんのとは違う見たいだから。
    ウィトちゃんの「世界」っていうの、〈考える(言語の)領分(世界)〉ってわたし見ちゃったから、
    で、(a)の「世界」を〈これ〉に置き換えて見ると、
    「私は私の〈考える(言語の)領分(世界)〉の前にいるのではない。私は私の〈考える(言語の)領分(世界)〉のなかにいる。いやむしろ私は私の〈考える(言語の)領分(世界)〉である。」(a)’
    ん〜ん、こっちの方があってるかな?
    たしか、5・61で、
    【それゆえわれわれは、論理の内側にいて、‥‥もし事実だとすれば、論理は世界の限界を超えていなければならない。そのとき論理は世界の限界を外側からも眺めうることになる。‥‥。】
    って言ってたと思う。
    これから、(a)’を、
    「私は私の〈考える(言語の)領分(世界)〉の“外”にいるのではない。私は私の〈考える(言語の)領分(世界)〉のなかにいる。いやむしろ私は私の〈考える(言語の)領分(世界)〉である。」
    ってした見たけど、こっちのほうがより近くなったかな?

    ついでにもうちょっと、「ミクロコスモス」で見て見ると、
    〈小さい宇宙〉って言うことになるのかな。宇宙は世界ともいう見たいだから、
    5・63はけっきょく〈私は小さな宇宙である〉とか〈私が世界〉って言ってるのかな?
    こういうのが、「独我論」に結びついてくのかな。

    で、5・62になるんだけど、このつづきはまた後で。

引用返信/返信 削除キー/
■18818 / inTopicNo.22)  Re[79]: メルポンの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/11/14(Sun) 10:29:52)
    メルポンの、わたしがおもしろいな〜って思ったところ(前にもどこかで書いたと思うけど)、

    『見えるものと見えないもの』に、
    反省と問いかけ[ 知覚的信念とそのあいまいさ ]ってあって、
    【われわれは物それ自体を見ており、世界はわれわれの見ている当のものである、――こういうたぐいのきまり文句は、自然的人間と哲学者に共通の信念を表しており(哲学者といえども、眼を開くやなやそう考えざるをえまい)、われわれをわれわれの生活に含まれている声なき「臆見」の深い地層に送り返すのである。だが、この信念には奇妙なところがあって、もしそれを命題や言表に明確に表現しようとすれば、つまりわれわれとは何であり、見るとは何であり、物とか世界とは何であるのかを自問してみるならば、われわれはさまざまの難問や矛盾の迷宮に入り込むことになるのだ。
    [この章の表題の向かい側に、著者の注]――信念という概念を明確化すべし。これは決断的な意味における信念ではなく、一切の定位以前にあるものという意味での信念であり、動物的および[?的]信念である。】

    の、(哲学者といえども、眼を開くやなやそう考えざるをえまい)っていうところ。
    メルポンだって哲学者くせに、って。でもこういうところわたしの好み。

    『知覚の現象学』の、
    【コギトとは、三世紀以前にデカルトの精神のなかで形成されたあの思想であるか、それとも彼がわれわれに残したさまざまなテキストの意味であるか、あるいはまた、それらを貫いて現れる永遠の真理であるか、いずれにせよ、私の思惟が捉えようとするとうよりも、むしろ、なじみ深い環境において私の身体がもろもろの事物のさなかにあって、これらの事物をはっきりと表象するまでもなく、おのずと方向をとって進んでゆくのと同じように、私の思惟が向かってゆくところの、一個の文化的存在なのである。】
    っていうところ。
    〈コギト(私は考える)も一個の文化的存在〉って見ているところね。
    これからわたし「世界」を〈文化的存在〉と〈自然的存在」に分節すことを思いついたのね。

    他にもあるけど、今想いついたところを書いといたよ。

引用返信/返信 削除キー/
■18782 / inTopicNo.23)  Re[78]: メルポンの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/11/13(Sat) 18:40:50)
    メルポンの『知覚の現象学』の目次は、
    序文
    緒論 古典的偏見と現象への復帰
    第一部 身体
    第二部 知覚された世界
    第三部 対自存在と世界における(への)存在
    ね。
    たぶん、わたしが最初思ったのは、“へ〜、哲学者って身体についても考えてるんだ〜、哲学者って身体についてどんな見方してるんかな〜”、っていうのだったと思う。

    『知覚の現象学』と『行動の構造』のなかかから、
    メルポンの、「私」、「私と身体との関係性」、「私と世界との関係性」についての見方、ちょっと書き出して見る。

    【私は絶対的な根源である。私の実存は、私の経歴、私の自然的・社会的環境から由来するのではない。私の実存はこれらに向かってゆき、これらを支える。】

    【私は私の身体の前にいるのではない。私は私の身体のなかにいる。いやむしろ私は私の身体である。】

    【身体とは、われわれが一つの世界をもつ一般的な手段である。】

    【身体は「世界における(への)存在」の媒体である。身体をもつということは、生きるものにとって、一定の環境にくわわり、若干の企投と一体となり、たえずこれに自己を拘束するということである。】

    【〈身体の媒介〉というものは、たいていのばあい、私によって見逃されているものである。】

    【身体の理論はすでに知覚の理論である】

    やっぱ、私、世界、そして私と世界と関係性について見てゆこうとするとき、身体ははずせないと思う。
    だから、わたし、私のうちに身体を入れてる。これを〈身体のある私〉って呼ぶことにする。こう言い方をするのは、わたし私には身体と精神があるってしてるけど、身体を忘れないようにね。
    あ、これって当たり前でしょ? なのよね〜。

引用返信/返信 削除キー/
■18774 / inTopicNo.24)  Re[77]: 現象学の
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/11/13(Sat) 15:28:57)
    現象学で使われてる主要な用語、だいたい書き写せたかも。
    現象学の、ここでわたしなりにちょっと整理して見る。

    フッサールの現象学の志向は、
    No11345
    に書き写したところでだいたいOKかな?

    メルポンの志向は、
    (a)人間考察。人間と世界とを理解すること。
    (b)生(なま)の意識を見ようとすること。
    メルポンの現象学は、
    (1)「すでにそこにある」ことを認め、「事実性」から出発しようとする。
    (2)その方法として、言葉のざわめきの下に遡って、その原初的世界を描き出すこと。
    (3)世界との素朴な触れあいを再発見すること。そしてそれに哲学的資格を与えること。

    すっごく簡単に見ちゃって、だいたいこんな感じだとわたし思う。

    〈人(私)、世界、そして人(実存私)と世界との原初的な関係性〉を見ようとすること、そして、哲学者じゃないわたしのような、素朴的人間、素朴的経験、素朴的意識、ん〜ん、生活世界の非反省的な生?を端緒とするようなフィロソフィア。こんなところにわたし興味があるのかもしれない。

    で、そのための手法として、
    メルポンはこんなことを言っている。
    【なぜ、現象学がながい間、初歩的な状態にとどまり、問題性と願望の域をでなかったかが、理解されるであろう。】(『知覚の現象学』)って。
    現象学的態度は、「初歩的な状態にとどまり続ける」「永遠初心者」「いつも最初からやり直す」ということみたい。
    また、メルポンは【地の上に図を描いたら、それを再び地に戻してみる】とも言ってる。

    現象学はこのような態度(手法)をとることによって、原初的世界へ近づこうとしているような感じ。

    これが、ここでのWhat do you want to do? に対するわたしのひとつの欲望かな?

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