□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/11/13(Sat) 18:40:50)
| メルポンの『知覚の現象学』の目次は、 序文 緒論 古典的偏見と現象への復帰 第一部 身体 第二部 知覚された世界 第三部 対自存在と世界における(への)存在 ね。 たぶん、わたしが最初思ったのは、“へ〜、哲学者って身体についても考えてるんだ〜、哲学者って身体についてどんな見方してるんかな〜”、っていうのだったと思う。
『知覚の現象学』と『行動の構造』のなかかから、 メルポンの、「私」、「私と身体との関係性」、「私と世界との関係性」についての見方、ちょっと書き出して見る。
【私は絶対的な根源である。私の実存は、私の経歴、私の自然的・社会的環境から由来するのではない。私の実存はこれらに向かってゆき、これらを支える。】
【私は私の身体の前にいるのではない。私は私の身体のなかにいる。いやむしろ私は私の身体である。】
【身体とは、われわれが一つの世界をもつ一般的な手段である。】
【身体は「世界における(への)存在」の媒体である。身体をもつということは、生きるものにとって、一定の環境にくわわり、若干の企投と一体となり、たえずこれに自己を拘束するということである。】
【〈身体の媒介〉というものは、たいていのばあい、私によって見逃されているものである。】
【身体の理論はすでに知覚の理論である】
やっぱ、私、世界、そして私と世界と関係性について見てゆこうとするとき、身体ははずせないと思う。 だから、わたし、私のうちに身体を入れてる。これを〈身体のある私〉って呼ぶことにする。こう言い方をするのは、わたし私には身体と精神があるってしてるけど、身体を忘れないようにね。 あ、これって当たり前でしょ? なのよね〜。
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