(現在 過去ログ2 を表示中)

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

No18494 の記事


■18494 / )  Re[59]: 語りえぬもの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/11/07(Sun) 15:19:48)
    ここでちょっと、『論考』のについてね。

    他のところで、5・631が出てきたので、これについて考えて見たんだけど、まず、この前後を書き写して置きます。

    5・6 私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。

    5・61 論理は世界を満たす。世界の限界は論理の限界でもある。
    それゆえわれわれは、論理の内側にいて、「世界にはこれらは存在するが、あれは存在しない」と語ることはできない。なるほど、一見すると、「あれは存在しない」と言うことでいくつかの可能性が排除されるようにも思われる。しかし、このような可能性の排除は世界の事実ではありえない。もし事実だとすれば、論理は世界の限界を超えていなければならない。そのとき論理は世界の限界を外側からも眺めうることになる。思考しえぬことをわれわれは思考することはできない。それゆえ、思考しえぬことをわれわれは語ることもできない。

    5・62 この見解が、独我論(86)はどの程度正しいのかという問いに答える鍵となる。
    すなわち、独我論の言わんとするところは全く正しい。ただ、それらは語られえず、示されているのである。世界が私の世界であることは、この言語(私が理解する唯一の言語)の限界が私の世界の限界を意味することに示されている。
    訳注(86)
    独我論――なんらかの意味で自分と他者とが対比されて捉えられる場面において、他者の存在を否定し、ただ自分だけが存在すると主張する場合を「独我論」と呼ぶ。どのような自他の対比を拒否しているのかに応じていくつかのヴァリエーションがあることになる。典型的な独我論は、すべてを私の意識への現れとして捉え、他の意識主体たる他者を、私の意識のうちへは現れえないという理由で拒否するものである(現象主義的独我論)。『論理哲学論考』の独我論はこのタイプのものではないように思われる。では、それはどのような独我論であったのか。これは『論理哲学論考』の解釈に関わる問題である。

    5・621 世界と生は一つである。

    5・63 私は私の世界である。(ミクロコスモス)

    5・631 思考し表象する主体は存在しない。
    「私が見出した世界」という本を私が書くとすれば、そこでは私の身体についても報告が為され、また、どの部分が私の意志に従いどの部分が従わないか等が語られねばならないだろう。これはすなわち主体を孤立させる方法、というよりむしろある重要な意味において主体が存在しないことを示す方法である。つまり、この本の中で論じることのできない唯一のもの、それが主体なのである。

    5・632 主体は世界に属さない。それは世界の限界である。

    以上で〜す。

    わたし勝手にメルポン派なんだけど、そこからこれらを見て見たのを次から書いて見るよ。

返信/引用返信 削除キー/


Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -