| 「語りえぬもの」が書いてあるところ、また見つけちゃったよ〜。 序に書いてあった
【本書は哲学の諸問題を扱っており、そして――わたしの信ずるところでは――それらの問題がわれわれの言語の論理に対する誤解から生じていることを示している。本書が全体としてもつ意義は、おおむね次のようなに要約されよう。およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては、ひとは沈黙せねばならない。】
【4・1212示されうるものは、語られえない。】 これもそうかな? これが 6・522だがもちろん言い表しえぬものは存在する。それは示される。それは神秘である。 につながってくるのかな?
「ナンセンス」が出てくるところ、6・54のほかの書いとく。
序 【かくして、本書は思考に対して限界を引く。いや、むしろ、思考に対してではなく、思考されたことの表現に対してと言うべきであろう。というのも、思考に限界を引くにはわれわれは限界の両面を思考できなければならない(それゆえ思考不可能なことを思考できるのでなければならない)からである。したがって限界は言語においてのみ引かれうる。そして限界の向こう側は、ただナンセンスなのである。】
【4・003哲学的なことがらについて書かれてきた命題や問いのほとんどは、誤っているのではなく、ナンセンスなのである。それゆえ、この種の問いに答えを与えることなどおよそ不可能であり、われわれはただそれがナンセンスであると確かめることしかできない。哲学者たちの発するほとんどの問いと命題は、われわれが自分の言語の理論を理解していないということに基いている。 (それらは、「善と美はおおむね同一であるのか」といった問いと同類である。) そしてもっとも深遠な問題が実はいささかも問題ではなかったということは、驚くべきことではない。】
【4・1274形式的概念の存在を問うことはナンセンスである。いかなる命題もそのような問いには答ええないからである。(それゆえ、たとえば「分析不能な主語−述語命題は存在するか」と問うことはできない。)】
【4・461命題は、それが語っていることを示しているが、トートロジーと矛盾は、それが何も語らないことを示している。トートロジーは無条件に真であり、それゆえ真理条件をもたない。そして、矛盾は真となる条件をまったくもたない。トートロジーと矛盾は無意味である。(54) (それはあたかも、日本の矢が正反対の方向に飛び去ったあとの点のようである。)(たとえば、いま雨が降っているか降っていないかどちらかだということを知っていても、それで私が天気について何ごとかを知っていることにはならない。)】 〔訳注(54)無意味/ナンセンス 「無意味(sinnlos)」と「ナンセンス(unsinnig)」を区別しなければならない。 たとえば「タマは2で割り切れる」や「白さがポチにあくびをした」のような論理形式に違反した記号列はナンセスと言われる。他方、トートロジーも矛盾も論理形式に違反した記号列ではない。とはいえ、トートロジーも矛盾も世界について何ごとかを語るものではない。そこでナンセンスではないが、無意味、と言われるのである。〕
【4・462しかしトートロジーと矛盾はナンセンスではない。両者とも、いわば「0」が算術の記号体系に属しているように、記号体系に属している。】
【5・5303ひとことで言うならば、こうである。二つのものについて、それらが同一であるとかたることはナンセンスであり、一つのものについてそれが自分自身と同一であると語ることは、まったく何ごとも語っていない。】
【5・5571ア・プリオリな仕方で要素命題を挙げることができないのでれば、要素命題を列挙しようとする試みは、最後には〔要素命題の総体という限界に突き当たり〕あからさまなナンセンスに行きつくしかない。】
【6・51問われえないものを疑おうとする以上、懐疑論は論駁不可能なのではなく、あからさまにナンセンスなのである。すなわち、問いが成りたつところでのみ、疑いも成り立ちうるのであり、答えが成り立つところでのみ、問いが成り立つ。そして答えが成り立つのは、ただ、何ごとかが語られうるところでしかない。】
「無意味(sinnlos)」と「ナンセンス(unsinnig)」ってして区別して見る、っていうのはいいかも。
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