| ■No17319に返信(pipitさんの記事)
> パーリ仏典の > 『ウダーナ』1.10(PTS Text,pp.6-9.) > 菩提品第一 > 10 バーヒヤ > という章の最後に、涅槃の表現があるんです。 > 石飛道子先生の訳がネットで見れて、石飛先生の訳の最後部分を引用させていただきます > m(_ _)m > 『心にしみる原始仏典』 > manikana.la.coocan.jp/canon/bahiya.html > > > 『水も、地も、火も、風も、堅固に存在することのないところ、そこでは、星もまたたくことがなく、太陽も輝かない。 > そこでは、月も現れることがなく、そこでは、闇も存在しない。 > バラモンである聖者が、自己の寂黙によって知ったとき、かれは、形あるものからも形のないものからも、苦楽から解脱する。』
石飛先生の訳ですか〜。^^
自己の寂黙によって知った、とありますね。
去年ニークラで話題にも上がった「自分という意識がまったく消えていても、何かを認識している意識はある」という(少し違うかもしれないです)のを思い出しました。
上に引用いただいた体験をしたことを記憶しているなら(嘘や創作ではないなら)、そういう「意識」は存在するということなのだと思うんです。
私が出してきた「一つの意識」「気づき」というのは、探究(知的理解)により解った部分がほとんどです。 この、私が探究でなんとなく理解したことを、自らの体験にて確信された方々というのがたくさんいるということなのだと思います。(それが経典に反映された) 圧倒的な体験によって、物の観方などが相当に変化したのでしょうね。
> 意識にしろ、なんにしろ、自らが知ることが叶ったら嬉しいなと思います。
そうですね。 私の場合、最初は「苦」を解消したいための模索でしたが、だんだんと好奇心に転じた気がします。 とはいえ、あちこちに興味がいくし、独学で分かることではないのでこれ以上は知りえないな、と。
> すごく示唆に富んだコメントをいろいろありがとうございます!
こちらこそです。 来ていただいてありがとうございました。^^
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