(現在 過去ログ2 を表示中)

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 親記事をトピックトップへ ]

このトピックに書きこむ

レス数の限度を超えたのでレスできません。

(レス数限度:100 現在のレス数:100) → [トピックの新規作成]
■17417 / inTopicNo.25)  Re[60]: 距離のパトス
  
□投稿者/ みのり -(2021/10/10(Sun) 17:24:07)
    2021/10/10(Sun) 17:40:10 編集(投稿者)

    パニチェさん、レスありがとうございます。


    No17410に返信(パニチェさんの記事)
    > レスありがとうございます。
    >
    > ■No17406に返信(みのりさんの記事)
    >
    >>必要悪=善 というのもある、ということ。
    >>私としては、パニチェさんも書かれているように「種族が維持継続繁栄することに有益なものが善」であるとされる中には、綺麗ごと的倫理観からすると悪だと考えられるものも自ずと含まれているように感じていました。
    >>敵を殺して倒さないと自分たちがやられる、というように。
    >>
    >>あとなんだろう、生まれた子どもの選別なども行われていたと思います。
    >>このようなことを、ニーチェが考える 必要悪=善として考えれば妥当でしょうか?
    >>それともぜんぜん違いますか?
    >
    > 少し言葉足らずだったかも知れません、これはニーチェが考えるところの善悪ではなく、ニーチェが分析するところの、これまでのキリスト教道徳も含めた倫理観のことだと思います。
    >
    > 先のアフォリズムの意味は、これまでの善と呼ばれるものは種属を維持する目的に適うもののことであるし、悪と称されるものは種属に有害なもののことであるが、もしそのような基準で善悪を決めるとするなら悪も種族を鍛えるという意味で、悪は必要悪(例えば程度な淘汰圧が進化を促進する)として種族を維持する目的に適う合目的なものでもありえるってことだと思います。

    キリスト教倫理観的な善だけを求めよう(理想だけを求めよう)とする物の観方、考え方は、自分たちを鍛えることがなく弱体化させられる。
    したがって、そうした倫理観による善に従うのではなく、それによって悪とされるようなものを取り入れることによって力を保つことができる。
    このような感じでしょうか。


    > ニーチェが考えるところの善悪とは「距離のパトス」によって決まるようなものとしています。距離のパトスとは。。。。
    >
    > 『距離のパトス:ニーーチェの用語。彼によれば人間類型は,強さと弱さ,偉大と卑小,高貴と低劣などに応じて2分されるが,前者が後者に身を引下げるのではなく,あくまでも後者に距離をおき,わが身を保持しようとするパトスのこと。人類の向上もこれによってのみ期すことができるとされ,したがって同情をきびしく退ける貴族主義的思想が展開されることになる。(コトバンクより)』


    ああ、具体例は出しませんが、わかりました。
    「距離のパトス」ですか。まだ『ツァラトゥストラ』には出てきません。
    他の著作ですか?
引用返信/返信 削除キー/
■17410 / inTopicNo.26)  距離のパトス
□投稿者/ パニチェ -(2021/10/10(Sun) 15:11:16)
    レスありがとうございます。

    No17406に返信(みのりさんの記事)

    > 必要悪=善 というのもある、ということ。
    > 私としては、パニチェさんも書かれているように「種族が維持継続繁栄することに有益なものが善」であるとされる中には、綺麗ごと的倫理観からすると悪だと考えられるものも自ずと含まれているように感じていました。
    > 敵を殺して倒さないと自分たちがやられる、というように。
    >
    > あとなんだろう、生まれた子どもの選別なども行われていたと思います。
    > このようなことを、ニーチェが考える 必要悪=善として考えれば妥当でしょうか?
    > それともぜんぜん違いますか?

    少し言葉足らずだったかも知れません、これはニーチェが考えるところの善悪ではなく、ニーチェが分析するところの、これまでのキリスト教道徳も含めた倫理観のことだと思います。

    先のアフォリズムの意味は、これまでの善と呼ばれるものは種属を維持する目的に適うもののことであるし、悪と称されるものは種属に有害なもののことであるが、もしそのような基準で善悪を決めるとするなら悪も種族を鍛えるという意味で、悪は必要悪(例えば程度な淘汰圧が進化を促進する)として種族を維持する目的に適う合目的なものでもありえるってことだと思います。

    ニーチェが考えるところの善悪とは「距離のパトス」によって決まるようなものとしています。距離のパトスとは。。。。

    『距離のパトス:ニーーチェの用語。彼によれば人間類型は,強さと弱さ,偉大と卑小,高貴と低劣などに応じて2分されるが,前者が後者に身を引下げるのではなく,あくまでも後者に距離をおき,わが身を保持しようとするパトスのこと。人類の向上もこれによってのみ期すことができるとされ,したがって同情をきびしく退ける貴族主義的思想が展開されることになる。(コトバンクより)』


引用返信/返信 削除キー/
■17407 / inTopicNo.27)  日本人
□投稿者/ みのり -(2021/10/10(Sun) 14:11:49)
    2021/10/11(Mon) 07:18:37 編集(投稿者)
    2021/10/10(Sun) 17:28:58 編集(投稿者)

    悪魔ちゃんとキティダニエルさんのやりとりを拝見して感じたこと。


    キティダニエルさんは、一般的な日本人の特徴として海外でもそのような評価を受けていて、一般的な日本人が選挙などの政治的行為の際に取りがちな行動について書いていらっしゃるのに対して、

    悪魔ちゃんは、日本人といっても様々な考え方、物の観方の人がいるし、一般的なものとしてまとめるということへの違和感がある、ということなのだろうと、推測させていただいています。

    何か自分の考えとは違うというのを感じるなら、その感じる部分を指摘した上で、さらに自分はどう思うのかも書くと意義のある対話になるのかもしれないですね。
引用返信/返信 削除キー/
■17406 / inTopicNo.28)  Re[58]: Z 第一部 説話[15]
□投稿者/ みのり -(2021/10/10(Sun) 13:58:50)
    No17399に返信(パニチェさんの記事)
    > 2021/10/10(Sun) 11:01:24 編集(投稿者)
    >
    > おはようございます、みのりさん、悪魔ちゃん。
    > 横レス失礼します。
    >
    > ■No17397に返信(みのりさんの記事)
    >
    > >>もうちょっと。
    > >>>生き残るための人間の都合、意向で、善悪も決められてきた、ってこと<
    > >>を、わたし、<「善・悪」っていうのは人間が生き残るための都合・意向で決められてきた>って見えるんだけど、こういうんでいいかしら?
    >
    >>うん。そういうふうにニーチェは言ってます。
    >
    > 同意です。
    > も少し詳しく言うと人間とか特定民族いう種族が維持継続繁栄することに有益なことを善、その反対を悪としているってことだと思います。
    > 牛や豚や魚を食べるために殺すのは悪みたないことを言う人は少ないですからね。
    >
    > 但し、ニーチェは以下のアフォリズムで上記のように仮定して善悪が生じたとしても、悪は人間という種族の抵抗力やより強い種とするための善(必要悪=善)にもなりえるってことを述べています。
    >
    > 『あらゆる時代の善人とは、古い思想の土を掘り起こし、それで収穫をあげる人間であり、精神の土百姓である。しかしついにはあらゆる土地が利用しつくされる、かくてくりかえし悪の犂頭が到来しなければならなくなる。──こんにちでは、とくにイギリスで名声嘖々たる道徳の根本誤謬があらわれている。それによると「善」と「悪」という判断は「目的に適う」と「目的に適わない」ということについての諸経験の蓄積の結果である。それによれば、善と呼ばれるものは種属を維持するもののことであるし、悪と称されるものは種属に有害なもののことである。だが実際には、悪の諸衝動は善のそれらとそっくり同様に高度に合目的のものであり、種属を維持するもの不可欠のものである、──違うのはそれらの機能の点だけである。(悦ばしき知識 第3番)』

    パニチェさん、こんにちは〜。

    必要悪=善 というのもある、ということ。

    私としては、パニチェさんも書かれているように「種族が維持継続繁栄することに有益なものが善」であるとされる中には、綺麗ごと的倫理観からすると悪だと考えられるものも自ずと含まれているように感じていました。
    敵を殺して倒さないと自分たちがやられる、というように。

    あとなんだろう、生まれた子どもの選別なども行われていたと思います。
    このようなことを、ニーチェが考える 必要悪=善として考えれば妥当でしょうか?
    それともぜんぜん違いますか?
引用返信/返信 削除キー/
■17399 / inTopicNo.29)  Re[57]: Z 第一部 説話[15]
□投稿者/ パニチェ -(2021/10/10(Sun) 10:55:36)
    2021/10/10(Sun) 11:01:24 編集(投稿者)

    おはようございます、みのりさん、悪魔ちゃん。
    横レス失礼します。

    No17397に返信(みのりさんの記事)

    >>もうちょっと。
    >>>生き残るための人間の都合、意向で、善悪も決められてきた、ってこと<
    >>を、わたし、<「善・悪」っていうのは人間が生き残るための都合・意向で決められてきた>って見えるんだけど、こういうんでいいかしら?

    > うん。そういうふうにニーチェは言ってます。

    同意です。
    も少し詳しく言うと人間とか特定民族いう種族が維持継続繁栄することに有益なことを善、その反対を悪としているってことだと思います。
    牛や豚や魚を食べるために殺すのは悪みたないことを言う人は少ないですからね。

    但し、ニーチェは以下のアフォリズムで上記のように仮定して善悪が生じたとしても、悪は人間という種族の抵抗力やより強い種とするための善(必要悪=善)にもなりえるってことを述べています。

    『あらゆる時代の善人とは、古い思想の土を掘り起こし、それで収穫をあげる人間であり、精神の土百姓である。しかしついにはあらゆる土地が利用しつくされる、かくてくりかえし悪の犂頭が到来しなければならなくなる。──こんにちでは、とくにイギリスで名声嘖々たる道徳の根本誤謬があらわれている。それによると「善」と「悪」という判断は「目的に適う」と「目的に適わない」ということについての諸経験の蓄積の結果である。それによれば、善と呼ばれるものは種属を維持するもののことであるし、悪と称されるものは種属に有害なもののことである。だが実際には、悪の諸衝動は善のそれらとそっくり同様に高度に合目的のものであり、種属を維持するもの不可欠のものである、──違うのはそれらの機能の点だけである。(悦ばしき知識 第3番)』
引用返信/返信 削除キー/
■17397 / inTopicNo.30)  Re[56]: Z 第一部 説話[15]
□投稿者/ みのり -(2021/10/10(Sun) 10:46:11)
    No17376に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ■17374、
    > >天からの声<
    > これをみのりさまは「神」っていう語で表言したのね。
    > ってすると、ニーチェの言う「天」=「神」ってしていい?

    この話については、そうだと思いますよ。
    ただ、いつもそうかどうかはわからないです。
    その時の文脈によって、同じ一つの言葉てあっても意味するものが違ったり
    するので。

    > もうちょっと。
    > >生き残るための人間の都合、意向で、善悪も決められてきた、ってこと<
    > を、わたし、<「善・悪」っていうのは人間が生き残るための都合・意向で決められてきた>って見えるんだけど、こういうんでいいかしら?

    うん。そういうふうにニーチェは言ってます。
引用返信/返信 削除キー/
■17376 / inTopicNo.31)  Re[55]: Z 第一部 説話[15]
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/10/09(Sat) 20:38:08)
    ■17374、
    >天からの声<
    これをみのりさまは「神」っていう語で表言したのね。
    ってすると、ニーチェの言う「天」=「神」ってしていい?

    もうちょっと。
    >生き残るための人間の都合、意向で、善悪も決められてきた、ってこと<
    を、わたし、<「善・悪」っていうのは人間が生き残るための都合・意向で決められてきた>って見えるんだけど、こういうんでいいかしら?


引用返信/返信 削除キー/
■17374 / inTopicNo.32)  Re[54]: Z 第一部 説話[15]
□投稿者/ みのり -(2021/10/09(Sat) 20:12:08)
    悪魔ちゃん、こんばんは〜。

    No17369に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > お邪魔しま〜す。
    >
    > 「人間たちこそが、その善と悪とのすべてを、みずからに与えたのだ」
    > んで、ここに、
    > <それらは、神によって決められたものではない>
    > って、みのりさまは「神」を持ちだしてるの?

    ※ ※ ※ ※ ※

    ・・・・・
    13 まことに、人間たちこそが、その善と悪とのすべてを、みずからに与えたのだ。
      まことに、彼らはそれを受け取ったのでも、それを見出したのでもなく、それが
      天からの声として彼らに落ちてきたのでもないのだ。
    ・・・・・『ツァラトゥストラ』上 ちくま学芸文庫 p107より引用

    民族が民族として生き抜くために、自らに必要でありかつ達成が難しく超克しなければ得られないものを「善」としてきたように、人間は、善悪を自分たちで決めて来た。
    それらは、神によって決められたものではない。

    ※ ※ ※ ※ ※



    引用した文中に、 「 天からの声として彼らに落ちてきたのでもないのだ。 」
    というのがありますよね。

    それを、「 それらは、神によって決められたものではない。 」と、読解しました。

    旧約聖書には預言者といわれる人々が何人も出てきて、人々に神からのお告げ
    みたいなものを伝え、人々はその預言者の口から出る言葉に従い、他民族と戦ったりして自分たち民族の領土を獲得していったんです。

    そういうような、神から与えられた言葉みたいなものって古代の話にはたくさんあるようですが、
    ニーチェとしては、それらは結局、人間の都合というか意向ではないか、と言いたかったのだと思いますよ。
    生き残るための人間の都合、意向で、善悪も決められてきた、ってこと。


引用返信/返信 削除キー/
■17369 / inTopicNo.33)  Re[53]: Z 第一部 説話[15]
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/10/09(Sat) 18:32:14)
    お邪魔しま〜す。

    「人間たちこそが、その善と悪とのすべてを、みずからに与えたのだ」
    んで、ここに、
    <それらは、神によって決められたものではない>
    って、みのりさまは「神」を持ちだしてるの?



引用返信/返信 削除キー/
■17331 / inTopicNo.34)  Z 第一部 説話[15]
□投稿者/ みのり -(2021/10/08(Fri) 09:11:03)
    [15] 千一の目標について

    ・・・・・
    13 まことに、人間たちこそが、その善と悪とのすべてを、みずからに与えたのだ。
      まことに、彼らはそれを受け取ったのでも、それを見出したのでもなく、それが
      天からの声として彼らに落ちてきたのでもないのだ。
    ・・・・・『ツァラトゥストラ』上 ちくま学芸文庫 p107より引用

    民族が民族として生き抜くために、自らに必要でありかつ達成が難しく超克しなければ得られないものを「善」としてきたように、人間は、善悪を自分たちで決めて来た。
    それらは、神によって決められたものではない。
引用返信/返信 削除キー/
■17330 / inTopicNo.35)  スクリーン
□投稿者/ みのり -(2021/10/08(Fri) 09:02:50)
    う〜ん・・もしかしたらだけど、「スクリーン化した人が観る世界」?
    そのように思えます。
    様々な雑念に覆われつくされている普通の人間には、観えないもの。
    瞑想中だけだよね、でも。 その体験が普段の生活にも反映されるんだろうけど。

    > 『水も、地も、火も、風も、堅固に存在することのないところ、そこでは、星もまたたくことがなく、太陽も輝かない。
    > そこでは、月も現れることがなく、そこでは、闇も存在しない。
    > バラモンである聖者が、自己の寂黙によって知ったとき、かれは、形あるものからも形のないものからも、苦楽から解脱する。』
引用返信/返信 削除キー/
■17329 / inTopicNo.36)  pipitさんへ
□投稿者/ みのり -(2021/10/08(Fri) 08:52:23)
    No17319に返信(pipitさんの記事)

    > パーリ仏典の
    > 『ウダーナ』1.10(PTS Text,pp.6-9.)
    > 菩提品第一
    > 10 バーヒヤ
    > という章の最後に、涅槃の表現があるんです。
    > 石飛道子先生の訳がネットで見れて、石飛先生の訳の最後部分を引用させていただきます
    > m(_ _)m
    > 『心にしみる原始仏典』
    > manikana.la.coocan.jp/canon/bahiya.html
    >
    >
    > 『水も、地も、火も、風も、堅固に存在することのないところ、そこでは、星もまたたくことがなく、太陽も輝かない。
    > そこでは、月も現れることがなく、そこでは、闇も存在しない。
    > バラモンである聖者が、自己の寂黙によって知ったとき、かれは、形あるものからも形のないものからも、苦楽から解脱する。』

    石飛先生の訳ですか〜。^^

    自己の寂黙によって知った、とありますね。

    去年ニークラで話題にも上がった「自分という意識がまったく消えていても、何かを認識している意識はある」という(少し違うかもしれないです)のを思い出しました。

    上に引用いただいた体験をしたことを記憶しているなら(嘘や創作ではないなら)、そういう「意識」は存在するということなのだと思うんです。

    私が出してきた「一つの意識」「気づき」というのは、探究(知的理解)により解った部分がほとんどです。
    この、私が探究でなんとなく理解したことを、自らの体験にて確信された方々というのがたくさんいるということなのだと思います。(それが経典に反映された)
    圧倒的な体験によって、物の観方などが相当に変化したのでしょうね。

    > 意識にしろ、なんにしろ、自らが知ることが叶ったら嬉しいなと思います。

    そうですね。 私の場合、最初は「苦」を解消したいための模索でしたが、だんだんと好奇心に転じた気がします。
    とはいえ、あちこちに興味がいくし、独学で分かることではないのでこれ以上は知りえないな、と。

    > すごく示唆に富んだコメントをいろいろありがとうございます!

    こちらこそです。 来ていただいてありがとうございました。^^
引用返信/返信 削除キー/

<前の12件 | 次の12件>

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 >>
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -