| 2021/10/14(Thu) 07:42:40 編集(投稿者)
去年、パニチェさんがよく書かれている〈私〉とは、どういうものを指すのだろうと気になり、勇気を出して質問してみたことがあった。 (まだ、ニークラに来たばかりの頃で、質問するには勇気が要ったのだ。;^_^A)
段階を踏んで説明いただいたのだけれど、ある段階のところで私は軽い衝撃を覚えた。 それについて書いてみます。
私の本名を、 赤井みのり と仮定します。
赤井みのり という名前の私(女性)は、東京都○○区○○8-5-12に住んでいて、生年月日は、昭和○○年、○月○日だとします。 しかし、これらの情報によっては、「赤井みのり」という名前を持つ〈私〉を指すことは不可能なのだということ。
何か事情により、同じ名前、生年月日の女性が同じ住所に共に住む可能性というのは、0ではないからです。 見た目まで瓜二つ、性格もそっくりだったりしたら・・・ホラーですね(笑)
というわけで、ようは、言語表現が可であるもので〈私〉はけして言い表せないのだ、ということなのでした。 〈私〉しか知りえない私秘性というのもあります。(もちろん誰にでも)
数日にわたる長いやりとりをしてくださったパニチェさんには、感謝でいっぱいでした。 でも実は、教えていただいた直後の私の理解度は、70%ぐらいだったのだろうな、と今になっては思うのです。 後の30は、時間をかけて、自分の中でじわじわと実感に向かったように思っています。
「 語りえぬものについては沈黙しなければならない 」 これについて、あくまで私見ですが・・・ 「 言葉で表現することが不可能なものについては、言葉で表現しようと試みてもそれは無理なのだ 」というふうに理解しています。
例えば、「愛」「幸福」。 こうしたものについて言葉で語ろうとしても、各人のイメージするものは微妙に相違しますし、「愛」「幸福」そのものというのが何であるのか、という絶対的なものが人間社会で決定されているのではない以上、これらについて言葉で絶対的と言える表現をすることは不可能なのだ、ということ。
それでも、様々な言葉による表現を人間はしているし、それによって意志の疎通だったり、楽しい(時に楽しくない)会話をして過ごしたりしているのですね。 ニーチェは人間を「測る者」としたそうです。(覚えたものは即使うタイプ (^▽^;) 人間は「語る者」でもあるかもしれないですね。 語らずにはいられない者。
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