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■1871 / inTopicNo.1)  感想2
  
□投稿者/ pipit -(2019/09/22(Sun) 08:39:32)
    三角形の経験の条件としてのアプリオリな空間で、数学における三角形の概念を描き出す。
    経験を否定してるんじゃないんです。
    経験にインスパイアされて概念を作るにしても、それを学として耐えられる概念とするとき、その概念を描き出す場所が、アプリオリな空間、と言っていると思うんです。

引用返信/返信 削除キー/
■1870 / inTopicNo.2)  感想
□投稿者/ pipit -(2019/09/22(Sun) 08:15:22)
    restさんの批判が、もし、

    経験の条件となる、必然的な表象としての空間で、
    数学の概念も構成されている、という証拠はあるのか?

    という批判なら、

    pipitも、「そうですね、カントの独善的な断定にも思えますね、
    そこらへんをきちんと説明してるのか注意しながら読み進めます」
    と言えるのですが、

    経験に三角形があるから、
    経験を成り立たせる条件である空間で純粋数学の概念も作られてる、
    というカントは間違えてる

    という批判に対しては、
    すっきり、そうですね、って言えません。( ; ; )
引用返信/返信 削除キー/
■1868 / inTopicNo.3)  restさんへ
□投稿者/ pipit -(2019/09/22(Sun) 07:57:51)
    restさんが引用してくださったカントの文章
    >「空間はアプリオリな必然的表象であって、この表象は一切の外的直観の根底に存する。―――それだから空間は現象に依存する規定ではなくて、現象そのものを可能ならしめる条件であり、外的現象の根底に存するアプリオリな表象なのである」(『純粋理性批判』BB39-40)<


    もし、人間が見ている、ミョウバンの結晶の三角形が、物自体ではなく現象とカントが
    捉えるなら、下記の置き換えが可能と思われませんか?
    おかしいですか?↓


    〈空間はアプリオリな必然的な表象であって、この表象は一切の外的直観(例えばミョウバンの結晶の三角形の直観)の根底に存する。〉

    〈それだから空間は現象(例えばミョウバンの結晶の三角形)に依存する規定ではなくて、現象(例えばミョウバンの結晶の三角形)そのものを可能ならしめる条件であり、〉

    〈外的現象(例えばミョウバンの結晶の三角形)の根底に存するアプリオリな表象なのである。〉

    ミョウバンの結晶の三角形の直観の根底にアプリオリな必然的表象がある。
    この必然的表象である空間とは、何であるとカントは述べてますか?



    ↓restさんの意見
    >空間は経験を成り立たせる条件であって、経験(ミョウバンの三角形)をつくりだす主体ではないのです。現象を成り立たせる直観形式であって造り出す主体ではないのです。おなじ工場とみるのは観念論であって、ミョウバンの実体が認識不可能とするカントの立場と異なるように思います。<

    工場というのは比喩です。
    感性の働きで人間に表象という現象が起きるためには
    物自体からの働きかけ(触発)が必要とされてると思います。
    好き勝手に表象を作ることはできません。
    感性は受容的、と、カントの文章にもあると思います。

    restさんと今話しているのは、
    カントは、
    経験を成り立たせる条件であるアプリオリな空間で、
    純粋数学の概念も構成されている、と言ってるのか、という事と、
    カントの主張に対するrestさんの批判が噛み合ってるものなのか、という議題です。




引用返信/返信 削除キー/
■1867 / inTopicNo.4)  restさん
□投稿者/ pipit -(2019/09/22(Sun) 07:26:55)
    人間が見る、ミョウバンの結晶の三角形という知覚体験は、
    物自体ですか?
    現象ですか?
引用返信/返信 削除キー/
■1866 / inTopicNo.5)  Re[45]: 同じ工場か疑問
□投稿者/ rest -(2019/09/21(Sat) 23:10:46)
    2019/09/21(Sat) 23:22:08 編集(投稿者)



    結論からいいますと、経験は主観的表象として現れてきますので、あらゆる経験は主観的に構成されたものです。経験を構成する主観性を超越論的主観性とよんでいるようですが、ミョウバンという経験も主観的に構成されたものです。つまり三角形は私たちの主観で造り出したものであると同時にミョウバンの三角形も主観が造り出したものですね。根は同じです。しかしそれは観念論的立場ですね。カントはミョウバンという物自体は認識不可能とみているはずです。ミョウバンの実体はわからないのにミョウバンをつくったのはアプリオリな主観だというのはつまり同じ工場だいうのは無理がありますね。たしかにアプリオリな直観というのは経験に基づかない概念を造り出したりします。発明とかもね。しかしミョウバンの三角形もそのようなアプリオリな主観性で造り出したものでしょうか。主観とは無関係に自然発生的に生まれたものだとすれば、同じ工場とはいえないと思いますよ。
    「空間はアプリオリな必然的表象であって、この表象は一切の外的直観の根底に存する。―――それだから空間は現象に依存する規定ではなくて、現象そのものを可能ならしめる条件であり、外的現象の根底に存するアプリオリな表象なのである」(『純粋理性批判』BB39-40)
    空間は経験を成り立たせる条件であって、経験(ミョウバンの三角形)をつくりだす主体ではないのです。現象を成り立たせる直観形式であって造り出す主体ではないのです。おなじ工場とみるのは観念論であって、ミョウバンの実体が認識不可能とするカントの立場と異なるように思います。
引用返信/返信 削除キー/
■1864 / inTopicNo.6)  三角形
□投稿者/ pipit -(2019/09/21(Sat) 19:28:33)
    あ、ここに反応されたのかな?

    >この三角形の手本をどんな経験からも借りてきたものではない」(カント著<

    これね、
    restさん、実験してみて!

    心の中で、3つの直線で閉じた形作ってみてください

    三角形できました?

    これ、restさんが三角形見たことなかったとしても、3つの直線で閉じた形、作図すると、三角形になるでしょ?!

    4つの直線で閉じた形作ると、四角形見たことなくても、
    心の中で四角形できるでしょ?!

    すごい!って、私は思うんだけどなー


    そうなることが、空間の特性で、
    この空間が、物自体なのか、現象なのか、
    そこまではまだ私にはわからないけど、

    この特性が、、、、restさん、一緒かな?

    もし一緒だったら、なんかすごい、って思います(o^^o)

    restさんは思わないですか?


引用返信/返信 削除キー/
■1863 / inTopicNo.7)  restさんへ
□投稿者/ pipit -(2019/09/21(Sat) 18:36:02)
    restさんこんばんは(^O^)/

    カントが間違えてる、って言うのはいいですよ。

    でも、restさんの批判では、カントの言いたい事への批判となってないのではないか、
    と、私は思っています。

    restさんは、ミョウバンの結晶の側面が三角形だから、
    カントが純粋数学における三角形はアプリオリな概念だ、としたのは間違いだ、
    と言いたいのでしょう?

    でもカントは、ミョウバンの結晶の側面の三角形も、あるシステムにより作られたものだ、
    と言っているのですよね?
    そしてそのシステムで純粋数学の概念も作ってる、と言っているのですよね?

    ミョウバンの結晶の三角形を作ったシステムと、
    純粋数学の概念としての三角形を作ったシステムが、同じシステムだと言ってるんですよね?
    同じシステムから、ミョウバンの結晶の三角形も、数学の三角形も出てきている。

    そう主張してる人に、《ミョウバンの結晶が三角形だから》は、その主張を崩す理由にならないでしょう?

    同じシステムの出自を持つ、という主張を批判する理由として、
    アウトプットされた規格が同一のため、というのが理由になりますか?

    似ている商品AとB

    カント「AとBは同じ機械を通してできた製品だよ!」

    restさん「Aという製品が昔から存在するから、Bという製品はAを参考にして作られた製品だよ、
    君の言うこと(AとBは同じ機械からできている)は間違いだよ。」


    同じ機械から生まれた、という主張を、製品Aの存在を理由に批判する。



    理屈通ってない気がするのです。


引用返信/返信 削除キー/
■1862 / inTopicNo.8)  Mobiusさんへ
□投稿者/ pipit -(2019/09/21(Sat) 17:38:36)
    Mobiusさん、書き込みありがとうございます!

    そうですね、アプリオリな総合判断というものが存在して欲しかったカントの努力、と見た方が気が楽かもしれませんね。

    メビウスリング掲示板では、Mobiusさんは独我論の議題などで盛り上がってそうですね。
    他人と議論するというのは、とても大変だけど、すごく貴重な体験になることが多いですね。

    実り多き秋になりますように
    おつかれさまです (^ ^)
引用返信/返信 削除キー/
■1861 / inTopicNo.9)  Re[43]: カントの精神
□投稿者/ rest -(2019/09/21(Sat) 11:33:25)
    たぶんカントはカント主義者ではありません。カントの精神は批判的精神にあります。むろんそれは自己批判も含めての批判精神です。まちがっていたらなおす、これが外部批判であり、自分がまちがっていたら反省する、これが内部批判ですね。カントを無謬のものとしてカントを扱うカント主義者にならないようにするのがカントの精神ではないでしょうか。
    物自体の認識不可能性を説きながら、プロレゴーメナでは物自体から触発されることによって生じる現象を通じて物自体の実在性を承認する、という矛盾はそのような自己批判となりうるようなテーマですね。
    ちなみに数学についてですが
    「哲学的認識は概念による理性認識であり、数学的認識は概念の構成による理性認識である。ところで概念を構成するとは、概念の対応する直観をアプリオリに提示することである。―――例えば三角形を構成するとしよう。この場合に私は三角形の概念に対応する対象を、単に想像だけによって純粋直観として提示するか、それとも純粋直観に従って紙上に経験的直観として提示するか、この二通りの仕方しかない。しかしいずれの場合にもまったくアプリオリに提示したのであって、この三角形の手本をどんな経験からも借りてきたものではない」(カント著『純粋理性批判』BB741-742)
    三角形は古代から使われてきた天然ミョウバンの結晶の側面だとすれば、あながち経験を無視できないのではないでしょうか。
引用返信/返信 削除キー/
■1860 / inTopicNo.10)  近況報告
□投稿者/ Mobius -(2019/09/21(Sat) 08:12:43)
    pipitさん、お久しぶりです。メビウスリングの方が下火なので、こちらに書かせて戴きます。
    今、pipitさんに紹介して戴いた「中山先生の解説部分」を読み進めています。
    p.290「どの実例をとってみても、カントのアプリオリの概念にはまだ大きな難問がつきまとっている。カント以降の哲学は、この難問を解くために、苦闘するのである。」

    これを読んで、「アプリオリの概念」とは、「ストンと腹落ちするような概念ではない」のだな ということがわかりました。だから、「もやもやした理解」のまま読み進めるしかないのかな と思いました。

    しばらくは、解説の方を読み進めようと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■1859 / inTopicNo.11)  restさんへ
□投稿者/ pipit -(2019/09/20(Fri) 17:49:23)
    こんばんは。
    カントの考え方と私が思うものを述べます。

    三角形が【経験として実在する】ものとrestさんは思うのでしょう?
    それを、なぜ、カントは『数学においてアプリオリな認識』とするのか、restさんは
    理解されますか?

    pipitの私見述べますね。

    カントは、物自体に触発されて人間に現象が生じる、としましたね。
    この現象【化】の過程で、形式としての空間が現れますよね。
    この形式としての空間は、物自体に属するものではなく、【人間の現象化の仕組み】に属するものですよね。

    そしてカントは、純粋数学という学問は、この人間の感性の形式としての空間(人間の現象化の仕組み)を使って、(純粋数学の)概念の構成をしている、と考えたのだと思いました。
    経験を形作る〈形式としての空間〉に作図した結果を、元の概念にフィードバックし、概念の総合的拡張を果たすイメージです。

    これがどのようなことを指し示すのかというと、
    私たちの経験、と、数学の概念、は、同じ場を経由して生まれている、ということだと思います。

    だから、カント的に言えば、数学の概念を、経験にぴったりフィットさせることができるということかと思っています。
    規格が同じですので。
    例えば、規格が同じだから、地球で計算した結果を、宇宙でも現象として実現させることができるのだということかと。

    restさんは自然の中に三角形を見ます。
    その体験を成り立たせる、《感性の形式》がある、とするのがカントの考え方ですよね。

    そして、純粋数学は、その《感性の形式》において、概念の構成をしているので、
    各自が同じ意味的概念を持てるし、各自の経験にも応用できる、と、カントは考えたのではないかと。

    伝わるでしょうか?

    ちなみに、足し算は、(ひとかたまり)と(ひとかたまり)を足していく。
    この(単・ひとかたまり)も、純粋悟性概念を利用してるのではないかと私は思っています。

    ある感じたものを、ひとまとめに考える概念が、アプリオリに人間には備わっている(悟性の形式)
    その規格が一緒だから、
    1+2=3ではない、と何かを見ていう人に、
    それ、考え方がおかしいよ、って言える。

    >1グラムの紙と2メートルの棒をたしても3にはなりませんね。<
    に対しては、
    強いて言うなら、紙がひとかたまり(単)、棒がひとかたまり(単)で、それは1+2という計算式ではなく、1+1という計算式でならまだ現実にフィットするよ、って言える。

    詭弁を詭弁と判断できる。

    >経験をベースにそれを抽象化つまり普遍化していったのが数学だと思います。<
    これが、restさんの意見でしょう?
    了解しました。
    多分カントとは考え方は異なりますよね。

    現実ではカントよりrestさんの方が正しいのかもしれませんが、
    私は、カントの考え方を勉強しているところなので、
    カントの考え方を正しいとしてrestさんと議論する気もありません。

    カントが正しいか正しくないかの前段階で、
    カントは何を言いたかったのか、を、調べようとしています。

    でも、結果的にすごくためになります。
    restさんと対話できて嬉しいです、ありがとうございます(o^^o)


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■1856 / inTopicNo.12)  Re[40]: 1+2=3ではない。
□投稿者/ rest -(2019/09/20(Fri) 02:06:04)
    1+2=3は正解ではありません。1グラムの紙と2メートルの棒をたしても3にはなりませんね。単位がちがえば四則演算は不可能です。表面的に数字だけの計算がなりたつのは、単位が共通だからです。単位は具体的事物で表象され、ほとんど経験的なものです。経験をベースにそれを抽象化つまり普遍化していったのが数学だと思います。いきなりアプリオリな直観、純粋直観ではなくその前段階に経験的直観を経るということじゃないでしょうか。普遍的な三角形一般という認識は具体的三角形、様々な三角形を類型化、あるいは抽象化していった結果ではないでしょうか。その意味では哲学も数学も同じように思えるのですが。普遍性を求めるという意味では。
    ただ虚数などように具体的事物のない数学は完全にアプリオリな純粋直観だと思われます。数学は経験かアプリオリか統一的に理解するというのは不可能だと思います。蛇足ですが、ミョウバンの結晶は側面が三角形で構成されています。三角形はもともと自然界にあったもののようですね。つまりもともとは経験が出発点でないかということです。虚数は別ですが。
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