| restさんが引用してくださったカントの文章 >「空間はアプリオリな必然的表象であって、この表象は一切の外的直観の根底に存する。―――それだから空間は現象に依存する規定ではなくて、現象そのものを可能ならしめる条件であり、外的現象の根底に存するアプリオリな表象なのである」(『純粋理性批判』BB39-40)<
もし、人間が見ている、ミョウバンの結晶の三角形が、物自体ではなく現象とカントが 捉えるなら、下記の置き換えが可能と思われませんか? おかしいですか?↓
〈空間はアプリオリな必然的な表象であって、この表象は一切の外的直観(例えばミョウバンの結晶の三角形の直観)の根底に存する。〉
〈それだから空間は現象(例えばミョウバンの結晶の三角形)に依存する規定ではなくて、現象(例えばミョウバンの結晶の三角形)そのものを可能ならしめる条件であり、〉
〈外的現象(例えばミョウバンの結晶の三角形)の根底に存するアプリオリな表象なのである。〉
ミョウバンの結晶の三角形の直観の根底にアプリオリな必然的表象がある。 この必然的表象である空間とは、何であるとカントは述べてますか?
↓restさんの意見 >空間は経験を成り立たせる条件であって、経験(ミョウバンの三角形)をつくりだす主体ではないのです。現象を成り立たせる直観形式であって造り出す主体ではないのです。おなじ工場とみるのは観念論であって、ミョウバンの実体が認識不可能とするカントの立場と異なるように思います。<
工場というのは比喩です。 感性の働きで人間に表象という現象が起きるためには 物自体からの働きかけ(触発)が必要とされてると思います。 好き勝手に表象を作ることはできません。 感性は受容的、と、カントの文章にもあると思います。
restさんと今話しているのは、 カントは、 経験を成り立たせる条件であるアプリオリな空間で、 純粋数学の概念も構成されている、と言ってるのか、という事と、 カントの主張に対するrestさんの批判が噛み合ってるものなのか、という議題です。
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