| 読書籠り部屋B p259〜
物自体(対象自体)から私たちの感覚能力が刺激を受けることで、見えたり聞こえたり、という状態(現象としての対象)が生じる。
【(人間にとっては)感性だけが直観を与えてくれる。】
【この直観】を、カントは2つに切り分ける。 「素材」&「形式」、の2つに区別する。
「素材」とは、さまざまなその時々の感覚。色を感じたり音を感じたり。 これを、「経験的直観」と言う。
「形式」とは、アプリオリに感性に組み込まれていて、仮に感覚が与えられることがなくてもあるもの。 物自体からの刺激がなくても、感性に表現形式として先に組み込まれているもの。 感覚とは関わりなく存在する直観ということで、「純粋直観」と言う。
ただし、この純粋直観は、純粋直観単独で認識できるものではなく、私たちは「経験的直観」の現れ方として、「経験的直観」と共にしか直観できない、と、カントは言ってるかも?と思いました。 カントは純粋理性批判の序論冒頭で、
『わたしたちのすべての認識は経験とともに始まる。これは疑問の余地のないところだ。(略)。だからわたしたちのうちの認識において、時間的にみて、経験に先立つものは何もない。すべてが経験とともに始まるのである。
このようにわたしたちのすべての認識が経験とともに始まるとしても、すべての認識が経験から生まれるわけではない。 というのも経験によって生まれた認識というものですら、一つの合成物であると考えられるからである。(略)。
ここで問いたいのは、経験から独立した認識というものが、すなわち何よりも感覚のすべての印象から独立した認識というものが、存在するかどうかということである。』 (『純粋理性批判1』中山元訳、p15〜17)
と述べています。
つまり、純粋直観は、 「諸対象がどのように私たちに認識されるか」としてしか認識されない、かな? ※※※※※※※※
今、思いついたんだけど、 お絵かきソフトがJPEG形式のファイルしか読み込んでくれない時、 お絵かきソフトで開けたなら、そのファイルはJPEG形式で書き込まれてるってことでしょう? どの画像開いて内容は違えども、形式はJPEG方式。 そういう感じで、私たちが、外的に、何を感じても(どんな経験的直観でも)、 その現れ方は、空間上・時間上に現れる、というのが、感性の形式は空間と時間ということかな、と、思いました。
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それで、三角形を、 『ひたすら想像によって純粋直観において描き出す』場合、のことからだけど、、、
疲れたな〜
ここで一旦切ります。次は、p260から!
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ここでちょっと休憩。
カントの『認識』わかりにくいんですよね。
普通、夢でも、認識って言えると思うけど、
カント、多分、めっちゃ意味を狭くとってるかんじです。
人間にとって共通し得る知識を認識って言ってる感じ。 だから、どこかで、感情は認識じゃない、みたいなカントの文も読んだ気が(うろ覚えやけど、無責任やけど、引きこもり部屋気分やから、、、ええのん?)
はじめ、英訳で、認識がknowledgってなってて、違和感あったけど、 今は理解できる気がするなー
ちなみに、上記で引用したカント文の 『わたしたちのすべての【認識】は経験とともに始まる。これは疑問の余地のないところだ。』は、 英訳では、 『That all our 【knowledge】 begins with experience there can be no doubt.』 です。
疲れたー
とりあえず一旦終わろう (ノ_<)
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