| knowing itselfさんこんばんは。 今日は、大変暑い1日でしたが、如何お過ごしだったでしょうか。
> ヤコブがエサウの長子権を盗み取った行為。みごとなまでに、@見たA欲望したB取ったに該当するでしょう?ヤコブを選び、エサウを選ばなかったのは、決して神の憐みや恵みの理不尽さをあらわすのではなく、典型的な罪人である人間の後裔者を、神の無条件で分け隔てのない愛を伝える媒体として選んだからという解釈。 > > ヤコブは悔い改め、エサウはヤコブを赦し、二人は抱擁しています。
そうですね。創世記33章4節にあるとおりです。 エサウと会う前に、ヤコブの名前は神によって「イスラエル」と変えられました。 「イスラエル」とは「神の支配」「神がともに戦われる」という意味です。
そして、ヤコブとは、「かかとをつかむ」の意であるとあります。生まれる時から、兄のかかとをつかんで引きずり降ろそう、自分が上に立ちたい、という思いがあったとも考えられるほどです。
でも、兄エサウに会うことは、かなりドキドキだったのではないでしょうか。 わざわざ宿営を二つに分けて一方が打たれても一方が助かるようにしていたからです。そんな孤独なときに神(ひょっとしたらイエス様)と格闘してももの関節が外れてしまったみたいです。
神は人を救ったり救わなかったりします。
しかし、それは善行を積むとか、信仰生活を敬虔に送るとか、悔い改めるとかということとは、関係がないことなのです。
だから、親鸞の悪人正機説の考えに親しい人ならほぼ誰もが、ここに、親鸞の絶対他力の考え方と似た思考、信仰観の現れているのを、見るに違いないのです。
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