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■15048 / inTopicNo.25)  Re[37]: 書物
  
□投稿者/ 愛満開 -(2021/07/18(Sun) 20:16:30)
    No15045に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > キリストさんて書物を残してないってどこかで聞いたんだけど、
    > これって本当なの?

    本当ですが、世界四大聖人といわれるイエス様、お釈迦様、孔子にソクラテスの人類の教師群は、何れも自分では、書き物をせずに弟子たちが、その言動をまとめることで、今日に伝わることとなりました。


引用返信/返信 削除キー/
■15045 / inTopicNo.26)  Re[36]: 書物
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/07/18(Sun) 19:44:32)
    キリストさんて書物を残してないってどこかで聞いたんだけど、
    これって本当なの?



引用返信/返信 削除キー/
■15043 / inTopicNo.27)  Re[35]: ヤコブとエサウ
□投稿者/ 愛満開 -(2021/07/18(Sun) 19:28:07)
    knowing itselfさんこんばんは。
    今日は、大変暑い1日でしたが、如何お過ごしだったでしょうか。

    > ヤコブがエサウの長子権を盗み取った行為。みごとなまでに、@見たA欲望したB取ったに該当するでしょう?ヤコブを選び、エサウを選ばなかったのは、決して神の憐みや恵みの理不尽さをあらわすのではなく、典型的な罪人である人間の後裔者を、神の無条件で分け隔てのない愛を伝える媒体として選んだからという解釈。
    >
    > ヤコブは悔い改め、エサウはヤコブを赦し、二人は抱擁しています。

    そうですね。創世記33章4節にあるとおりです。
    エサウと会う前に、ヤコブの名前は神によって「イスラエル」と変えられました。
    「イスラエル」とは「神の支配」「神がともに戦われる」という意味です。

    そして、ヤコブとは、「かかとをつかむ」の意であるとあります。生まれる時から、兄のかかとをつかんで引きずり降ろそう、自分が上に立ちたい、という思いがあったとも考えられるほどです。

    でも、兄エサウに会うことは、かなりドキドキだったのではないでしょうか。
    わざわざ宿営を二つに分けて一方が打たれても一方が助かるようにしていたからです。そんな孤独なときに神(ひょっとしたらイエス様)と格闘してももの関節が外れてしまったみたいです。

    神は人を救ったり救わなかったりします。

    しかし、それは善行を積むとか、信仰生活を敬虔に送るとか、悔い改めるとかということとは、関係がないことなのです。

    だから、親鸞の悪人正機説の考えに親しい人ならほぼ誰もが、ここに、親鸞の絶対他力の考え方と似た思考、信仰観の現れているのを、見るに違いないのです。


引用返信/返信 削除キー/
■15040 / inTopicNo.28)  聖体の秘蹟
□投稿者/ knowing itself -(2021/07/18(Sun) 16:53:11)
    聖体というパンの味にこだわるなら、何にもわかっていない。
    キリストの体が、それを分かち合う人間たちのこのリアルな体を通して、人間たちのこのリアルな体と完全に一体となって、父なる神に捧げられる。これが要するに、新たな過越、新たな出エジプト、最後の審判の先取り。パンの外観、つまり感覚的素材は平々凡々たるまま。パンの味覚、触覚へのインパクトはどうでもいい。
引用返信/返信 削除キー/
■15039 / inTopicNo.29)  ヤコブとエサウ
□投稿者/ knowing itself -(2021/07/18(Sun) 16:28:28)
    ヤコブがエサウの長子権を盗み取った行為。みごとなまでに、@見たA欲望したB取ったに該当するでしょう?ヤコブを選び、エサウを選ばなかったのは、決して神の憐みや恵みの理不尽さをあらわすのではなく、典型的な罪人である人間の後裔者を、神の無条件で分け隔てのない愛を伝える媒体として選んだからという解釈。

    ヤコブは悔い改め、エサウはヤコブを赦し、二人は抱擁しています。
引用返信/返信 削除キー/
■15038 / inTopicNo.30)  Re[33]: 聖体の意味も下記と同じです
□投稿者/ knowing itself -(2021/07/18(Sun) 16:20:25)
    愛満開さん 横レス失礼します。

    > 誰を選ぶかは神の専権事項であり、人間の関与するべきことではない。
    > その結果、選ばれて恵みに与る者だけが救われるという結論になります。
    >
    > 「『わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ』と書いてあるとおりである。ではわたしは何と言おうか。神の側に不正があるのか。断じてそうではない。神はモーセに言われた、『わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ』」(ローマ9:13-15)

    ヤコブとエサウに関するこの箇所は、もちろん解釈がわかれますね。愛満開さんのような解釈はやはりカルバン派特有のものだと思います。カトリックや反カルバンのプロテスタントは、ヤコブを救いに二重予定説的に選び、エサウを滅びに二重予定説的に選んだとは解釈しないのではないでしょうか。エサウではなくヤコブを愛したとは、ヤコブに続くイスラエルを愛し選んだという意味に取ります。そして、ヤコブ、イスラエルを選んだとは、イスラエルだけを救いに選んだということではなく、福音を世界に広げる導管、媒体としてイスラエルを選んだ。一人の例外もなくキリストの救いに与らせる、その活動の導管としてイスラエルを選んだ。イスラエル以外の人間が救われるのはキリスト教の原理からいってあまりにも当然というか。エサウも地獄行きでは無いでしょう。

    > それでは、だれが救われ、だれが滅びるのか。
    >
    > それは誰にも分かりません。

    プロテスタントは信仰の内面的な確信によって救いの確実性を主張する立場だと思いますよ。カトリックでは、死の際の聖体拝領は救いの保証です。


引用返信/返信 削除キー/
■15034 / inTopicNo.31)  Re[33]: 聖体の意味も下記と同じです
□投稿者/ toll -(2021/07/18(Sun) 11:49:39)

    こんにちわ

    暑いですね。



    それぞれの教派にはそれぞれの 教義があり成り立っているのでしょうね。
    所詮 、人間が作ったものなのだから
    それに意味を見たり、 あれこれ 理解しようと
    つついてみても 仕方のないことかなとも感じます。
    そういうものは信じられる人が信じていればいい事で
    他者が 色々言うことではないですね。
    藍満開さんなりの持論(思想?)が完成したという事に留めたいなと思います。
    私なら、そういう伝道のお話は心に響かないかな。
    そういうお話で神様と 繋がっていけるかと言う事が気にかかりますけど。

    そんな事より
    こんな下世話な事の方が気になる^^
    藍満開さんがお口にされたパンは どんな味でしたか?
    何処で作った物ですか?
    ワインは 本物ですか?
    取り寄せるところは決まっているのですか?

    うふふ^^
    スルーで結構です。
    失礼しました。








    No15033に返信(愛満開さんの記事)
    > tollさんおはようございます。
    >
    >>こんばんわ
    >>横 失礼します〜
    >>
    >>伝導 ?
    >>
    >>伝道 とは違うんですか?
    >
    > すみません。単純に変換ミスでした。
    >
    >>カルヴァンの教えが好きなんですね。
    >>人それぞれなのでいいと思います。
    >
    > いいえ、特に好きというのではなく、神はすべての人の救いを望んでいるものの、聖書の中には、宇宙の初めから救われる人を予め予定していたことが書かれているからです。
    >
    > 人間は誰しも生来罪深い。
    > 人が救われるのはただ神のあわれみの恩恵による。
    > 人には神から恩恵の賜物を受ける資格は何も持っていない。
    >
    > 神はただ憐れみによって人間を救う。
    >
    > 神が誰に恵みを与えるのかということは全く神の自由に帰する。神は自由に、人を選んで、憐れむべきものだけを憐れむ。
    >
    > 誰を選ぶかは神の専権事項であり、人間の関与するべきことではない。
    > その結果、選ばれて恵みに与る者だけが救われるという結論になります。
    >
    > 「『わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ』と書いてあるとおりである。ではわたしは何と言おうか。神の側に不正があるのか。断じてそうではない。神はモーセに言われた、『わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ』」(ローマ9:13-15)
    >
    > 救われる人の数は、天地創造以来決まっていて変更することはできない。
    >
    > そして、神は救いに定められていない人の心を頑なにするように事を運ばれるという。ちょうどエジプトの王パロの心を神が頑なにされたように。
    >
    > しかし、だれも滅びないと考えるのなら、宣教の必要性もなくなってしまうかもしれないし、それならイエス様は、なぜ、伝道の命令を出されたのでしょうか。
    >
    > 聖書が福音を宣べ伝えよと言っている限り、滅びる人がいるということもまた真理なのだと思います。
    >
    > それでは、だれが救われ、だれが滅びるのか。
    >
    > それは誰にも分かりません。
    > だからこそ、私たちは、一生懸命に福音を宣べ伝える必要があるのだと思います。
    >
    > それが、神への従順であり、私たちの伝道の結果、一人の人が救われたなら、その人は、神が救いに定められていた人なのであり、それはまた、私たちが伝道した結果なのだと言えます。
    >
引用返信/返信 削除キー/
■15033 / inTopicNo.32)  Re[32]: 聖体の意味も下記と同じです
□投稿者/ 愛満開 -(2021/07/18(Sun) 09:52:21)
    tollさんおはようございます。

    > こんばんわ
    > 横 失礼します〜
    >
    > 伝導 ?
    >
    > 伝道 とは違うんですか?

    すみません。単純に変換ミスでした。

    > カルヴァンの教えが好きなんですね。
    > 人それぞれなのでいいと思います。

    いいえ、特に好きというのではなく、神はすべての人の救いを望んでいるものの、聖書の中には、宇宙の初めから救われる人を予め予定していたことが書かれているからです。

    人間は誰しも生来罪深い。
    人が救われるのはただ神のあわれみの恩恵による。
    人には神から恩恵の賜物を受ける資格は何も持っていない。

    神はただ憐れみによって人間を救う。

    神が誰に恵みを与えるのかということは全く神の自由に帰する。神は自由に、人を選んで、憐れむべきものだけを憐れむ。

    誰を選ぶかは神の専権事項であり、人間の関与するべきことではない。
    その結果、選ばれて恵みに与る者だけが救われるという結論になります。

    「『わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ』と書いてあるとおりである。ではわたしは何と言おうか。神の側に不正があるのか。断じてそうではない。神はモーセに言われた、『わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ』」(ローマ9:13-15)

    救われる人の数は、天地創造以来決まっていて変更することはできない。

    そして、神は救いに定められていない人の心を頑なにするように事を運ばれるという。ちょうどエジプトの王パロの心を神が頑なにされたように。

    しかし、だれも滅びないと考えるのなら、宣教の必要性もなくなってしまうかもしれないし、それならイエス様は、なぜ、伝道の命令を出されたのでしょうか。

    聖書が福音を宣べ伝えよと言っている限り、滅びる人がいるということもまた真理なのだと思います。

    それでは、だれが救われ、だれが滅びるのか。

    それは誰にも分かりません。
    だからこそ、私たちは、一生懸命に福音を宣べ伝える必要があるのだと思います。

    それが、神への従順であり、私たちの伝道の結果、一人の人が救われたなら、その人は、神が救いに定められていた人なのであり、それはまた、私たちが伝道した結果なのだと言えます。

引用返信/返信 削除キー/
■15026 / inTopicNo.33)  Re[31]: 聖体の意味も下記と同じです
□投稿者/ toll -(2021/07/17(Sat) 22:44:43)

    こんばんわ
    横 失礼します〜

    伝導 ?

    伝道 とは違うんですか?



    No15019に返信(愛満開さんの記事)
    > knowing itselfさんこんばんは。
    >
    >>唯一無二の〈あなた〉にあること。ここを間違って強調するとカルバン的な選びの特権意識・排他意識になりかねないが、この〈あなた〉における救いをすべての人間に予定していたとするのが、カトリックその他。
    >
    > そうですね。カルバン的な選びというのは、確かに選民思想の特権意識が高いように思えます。
    >
    > でも、松本牧師も動画で語っていたように、そんな特権意識なんか出たら、高慢なとんでもない危険思想だと述べています。
    >
    > そして、伝導する意味もなくなってしまうのだと。
    >
    > だから、イエス様に選ばれたからと高慢になるのではなく神の目的のために、救われる予定の人たちが沢山いるのだから、その人達のためにも伝導を続けていく必要性があることを述べていました。
    >
    > なので、この板の皆さんの中にも多くの救済に予定された人たちがいると見た方がいいのではないかと思いますし、伝導の必要性があるのだと思います。



    カルヴァンの教えが好きなんですね。
    人それぞれなのでいいと思います。


    トピ主様は こういう事を言ってきたのではないかと思うんですが
    私はこっちの方が好きですね。



    《 神から選ばれる-予定説の教義 》
    ttp://www.thebible.jp/神から選ばれる-予定説の教義への考察.htm

    【選ばれた民という御言葉はなにを意味するのでしょうか?】

    選ばれるとは、誰かがあなたを選んだ、つまりあなたがその人の的という意味になります。これまで見てきたように、
    全人類が救われることが神が宣言された御心であり、そのために神は御子の命をもって必要な支払いをなさいました。
    今、神は全人類が救われることをお望みです。
    つまり、神の選択は全人類が救われることなのです。
    逆に、もしこれが神のご選択ならば、神の全人類に対する御心とは、また救いにおいて、すべての人々はどのような立場に置かれているのでしょうか?

    選ばれたものとなっているのです。
    言葉を変えますと、
    御言葉がわたしたちを選択し、選ぶと言うとき、それは選ばれなかった人との関係性をもって選ばれたという意味ではありません。
    すべての人々が救われることを選ばれました。
    これが主の選択であり、全人類に対する神の御心です(全員が神の申し出を受けるわけではないことは、明白ではありますが)。

    御言葉がわたしたちを選ばれた、というとき、それは救いの対象として選ばれたということになります。
    救いは神の選択、全人類にたいする神の御心です。

    全人類が救いの対象に選ばれているのです。

    しかしながら、その全員がこの申し出を受け入れるわけではなく、その結果として神の救いから外れる人も出て来ます。
    その人が救いから外れたのは、神がそのようにお選びにならなかったからではありません。
    神の選択を拒絶した人々が、自分でそうなることを選択したのです。

    神が救われない人々を選択して、わたしたちを救うとされたのではありません。

    わたしたちが救われたのは、神がすべての人々へ与えた選択を、わたしたちが受け入れたからなのです。

    このように、救いとは信仰の問題なのです。
    これは人々の神への選択であり、神が人々を選ぶというものではありません。
    神の御心には、どのような疑問もありません。
    神は全人類を救うことをお選びになり、達成されるために御子をお与えになりました。

    ヨハネによる福音書第3章16節から18節
    「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。(以下は略)」





引用返信/返信 削除キー/
■15025 / inTopicNo.34)  Re[32]: 神、〈私〉、無我あるいは非我
□投稿者/ パニチェ -(2021/07/17(Sat) 22:35:52)
    knowing itselfさん、レスありがとうございます。

    No15008に返信(knowing itselfさんの記事)

    > これはですね、愛満開さんと一緒に見たバイブルプロジェクトの日本語版で、アダムが木の実を食べたという原罪がもつ基本構造が上記の@ABの三分類で説明されていたので、それを借用しました。

    なるほど。動画を見ていなかったので分かりませんでした。

    > 通常意識とはキリスト教的には原罪意識のことです。そして原罪からの解放を示すための
    > 行動パターンとして@見るA愛するB与える、を提示しました。見ること、愛すること、与えること、それだけがすべてで、@ABが同一であるパターンです。

    通常意識がキリスト教的には原罪意識ということは知りませんでした。

    > >>前段の通常意識における@見るが「私」にあたり、後段の@見られるが〈私〉にあたると考えます。「私」と〈私〉は同一のコインです。が、リアルさを保証するのは〈私〉。

    >>ここ少し分かりません。補足いただければあ有難いです。

    > すでに神から見られ愛されている私と、そのことを知らずに通常意識の中でもがきながら行動している私は、実は寸分も違わず同じ私だという意味です。

    なるほど、理屈的には理解できました。
    丁寧な返信をありがとうございました。
引用返信/返信 削除キー/
■15024 / inTopicNo.35)  Re[31]: 聖体の意味も下記と同じです
□投稿者/ 愛満開 -(2021/07/17(Sat) 22:20:18)
    春に行われるユダヤの「過越祭」の始まりは、旧約聖書の「出エジプト記」にあり、神がモーセを通じて、エジプトの王にイスラエルの民を解放するように命じてもなかなか応じないので、神はエジプトの町に災いをもたらしました。
    しかし、神の命令に従って、羊の血を戸口に塗ったイスラエルの民の家を災いが通り過ぎる(過ぎ越す)という奇蹟が起こりました。

    これを記念したのが過越祭(災いがPass over通り過ぎた)です。

    「最後の晩餐」は過越の祭りの1日目でイエスが弟子たちと共にした「最後の過越の食事」なのです。そして、その日のうちにゲッセマネの祈り、逮捕へと続きます。

    イエス様が十字架につけられたのが、ちょうど過越祭のときでした。
    裁判、十字架、埋葬へと一日の短時間のうちに話は、展開していきます。
    実はこの過越祭はイエス様の十字架の預言でした。

    羊の血を塗った家を災いが過ぎ越したように、イエス様が十字架で流された血は
    私のため、と受け入れた人は、神の罪のさばきが過ぎ越すことになるです。

    これが、イエス様の肉を食べ血を飲む聖体拝領ですね。

    なので、預言者ヨハネは、イエス様を「神の小羊」と紹介したのです。

    出エジプトの際、子羊の血を家の門に塗った人々は、災いである死から免れ約束の地へと旅立つことができました。

    イエス様の十字架上で流された血も、門に塗られた子羊の血と同じように、罪の報酬である死から自分を救う「あがないの血」だと信じ、イエス様が死より復活したメシアだと信じる者は、イエス様のように死から蘇り、最後の審判で救済されるのです。
引用返信/返信 削除キー/
■15019 / inTopicNo.36)  Re[30]: 聖体の意味も下記と同じです
□投稿者/ 愛満開 -(2021/07/17(Sat) 20:38:00)
    knowing itselfさんこんばんは。

    > 唯一無二の〈あなた〉にあること。ここを間違って強調するとカルバン的な選びの特権意識・排他意識になりかねないが、この〈あなた〉における救いをすべての人間に予定していたとするのが、カトリックその他。

    そうですね。カルバン的な選びというのは、確かに選民思想の特権意識が高いように思えます。

    でも、松本牧師も動画で語っていたように、そんな特権意識なんか出たら、高慢なとんでもない危険思想だと述べています。

    そして、伝導する意味もなくなってしまうのだと。

    だから、イエス様に選ばれたからと高慢になるのではなく神の目的のために、救われる予定の人たちが沢山いるのだから、その人達のためにも伝導を続けていく必要性があることを述べていました。

    なので、この板の皆さんの中にも多くの救済に予定された人たちがいると見た方がいいのではないかと思いますし、伝導の必要性があるのだと思います。




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