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Re[32]: 聖体の意味も下記と同じです
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□投稿者/ 愛満開 -(2021/07/18(Sun) 09:52:21)
| tollさんおはようございます。
> こんばんわ > 横 失礼します〜 > > 伝導 ? > > 伝道 とは違うんですか?
すみません。単純に変換ミスでした。
> カルヴァンの教えが好きなんですね。 > 人それぞれなのでいいと思います。
いいえ、特に好きというのではなく、神はすべての人の救いを望んでいるものの、聖書の中には、宇宙の初めから救われる人を予め予定していたことが書かれているからです。
人間は誰しも生来罪深い。 人が救われるのはただ神のあわれみの恩恵による。 人には神から恩恵の賜物を受ける資格は何も持っていない。
神はただ憐れみによって人間を救う。
神が誰に恵みを与えるのかということは全く神の自由に帰する。神は自由に、人を選んで、憐れむべきものだけを憐れむ。
誰を選ぶかは神の専権事項であり、人間の関与するべきことではない。 その結果、選ばれて恵みに与る者だけが救われるという結論になります。
「『わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ』と書いてあるとおりである。ではわたしは何と言おうか。神の側に不正があるのか。断じてそうではない。神はモーセに言われた、『わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ』」(ローマ9:13-15)
救われる人の数は、天地創造以来決まっていて変更することはできない。
そして、神は救いに定められていない人の心を頑なにするように事を運ばれるという。ちょうどエジプトの王パロの心を神が頑なにされたように。
しかし、だれも滅びないと考えるのなら、宣教の必要性もなくなってしまうかもしれないし、それならイエス様は、なぜ、伝道の命令を出されたのでしょうか。
聖書が福音を宣べ伝えよと言っている限り、滅びる人がいるということもまた真理なのだと思います。 それでは、だれが救われ、だれが滅びるのか。
それは誰にも分かりません。 だからこそ、私たちは、一生懸命に福音を宣べ伝える必要があるのだと思います。
それが、神への従順であり、私たちの伝道の結果、一人の人が救われたなら、その人は、神が救いに定められていた人なのであり、それはまた、私たちが伝道した結果なのだと言えます。
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