| 愛満開さん こんばんは
> マルクスは、25歳の時の論文「ヘーゲル法哲学批判・序説」のなかで、宗教には人間に即効性のある幻想的な解答を与える危険性があると考えていたようです。 > > 〈宗教上の不幸は、一つには実際の不幸のあらわれであり、一つには実際の不幸にたいする抗議である。宗教は、なやんでいる者のため息であり、また心のない世界の心情であるとともに精神のない状態の精神である。それは、民衆のアヘンである〉 > > そして、マルクスは、 > > 〈幻想のなかで民衆の幸福をあたえる宗教を廃棄することは、現実のうちに民衆の幸福を要求することである。自分の状態についての幻想をすてろと要求することは、幻想を必要とするような状態をすてろと要求することである。だから宗教の批判は、いずれは、宗教を後光にいただく苦しいこの世の批判にならずにはいられないものである〉
よく言われることですが、マルクス思想はユダヤキリスト教文明以外からは生まれようがなかった、マルクス思想自体がキリスト教の変種だという批判。ある程度は正鵠を射ていると思います。聖書的世界観は、幻想を追求するものではなく、この世的な次元でも解放を追求するものだというのが、現代では通説ですね。聖書の神は生きて働く神である。社会的現実を覆い隠す幻想やイデオロギーとしての宗教という考え方は、ユダヤ教やキリスト教には当てはまらないと思います。
もちろん、中国の共産主義は私にとって理解不能ですが。
> こうした共産主義国の人々にも三位一体の恩寵は与えられるのでしょうか。 > そもそも、信仰が国によって出来なくさせられているのに、かなり難しいように思います。
天の三位一体が地にも反映されるなら、それは人間の間で不当な差別や権力的支配のない社会が実現するはずです。ユートピア的な平等と友愛の実現を目指すことそのものは、三位一体と親和性があると思います。
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