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■14815 / inTopicNo.61)  Re[23]: 最後の審判
  
□投稿者/ 愛満開 -(2021/07/10(Sat) 13:24:58)
    knowing itselfさんいつもながら素晴らしいレスありがとうございます。

    >>本来、人間は、全員が地獄へ行くべきところを、イエス様を信じた一部の人間だけ救済することで最終的に、神の義と聖とを貫徹するというのが、なにか、その方が、しっくりくるからでした。
    >
    > 木の実を食べたという堕罪によって何が生じたかというと、死が人間の中に入り込んだ、死が人間を支配するようになった。生きることはハッピーだけど、生を終えた後に地獄に行くのが辛い、というのではなく、人生何十年の行程が死に支配されるのが堕罪でしょう。その解決が、キリストの体であるパンを食べること以外にないのだと。アダムの木の実→キリストというパン。キリストというパンを食べることによって、義と聖が貫徹されるのですから、「一部の人間だけ」性をことさらに主張する意味はないと思います。必要以上に選良意識と差別意識を肥大化させるのではないでしょうか。

    「その解決が、キリストの体であるパンを食べること以外にないのだと。アダムの木の実→キリストというパン。」

    激しく同意です。イエス様を内に取り込まない限り解決にはなりませんね。

    > アダムの木の実(原罪)→キリストというパン(永遠のいのち)。これは仏教では、無明→悟り、がそれにあたると思います。無明に支配されることが終わらない輪廻であり、無明だけど人生は楽しい、幸福だという仏教は、残念ながらないです。その無明に支配される生と死に終止符を打って、不生不滅の世界に入ることが悟りでしょう。

    仏教とのリンク大変興味深く感じました。
    今更ながら聖体拝領の恵みに感謝するばかりです。
引用返信/返信 削除キー/
■14814 / inTopicNo.62)  Re[22]: 最後の審判
□投稿者/ knowing itself -(2021/07/10(Sat) 13:02:14)
    愛満開さん レスありがとうございます

    >>聖書的でないプロテスタントは思いつきません。カトリックに対抗して「聖書のみ」を主張するのがプロテスタントであり、数え方によっては五万にも上るプロテスタントの教派があるといいます。ところが、二重予定説をとるのはカルバン派と、あとはどこ?という稀少さですね。まさか、カルバン派だけが正しい聖書解釈だとはいえないと思います。
    >>カルバン派を正しさを根拠づけるのは、結局は、カルバンのテキストになるという批判もありうるでしょう。立派なカルバン教です。
    >
    > 本来、人間は、全員が地獄へ行くべきところを、イエス様を信じた一部の人間だけ救済することで最終的に、神の義と聖とを貫徹するというのが、なにか、その方が、しっくりくるからでした。

    木の実を食べたという堕罪によって何が生じたかというと、死が人間の中に入り込んだ、死が人間を支配するようになった。生きることはハッピーだけど、生を終えた後に地獄に行くのが辛い、というのではなく、人生何十年の行程が死に支配されるのが堕罪でしょう。その解決が、キリストの体であるパンを食べること以外にないのだと。アダムの木の実→キリストというパン。キリストというパンを食べることによって、義と聖が貫徹されるのですから、「一部の人間だけ」性をことさらに主張する意味はないと思います。必要以上に選良意識と差別意識を肥大化させるのではないでしょうか。

    アダムの木の実(原罪)→キリストというパン(永遠のいのち)。これは仏教では、無明→悟り、がそれにあたると思います。無明に支配されることが終わらない輪廻であり、無明だけど人生は楽しい、幸福だという仏教は、残念ながらないです。その無明に支配される生と死に終止符を打って、不生不滅の世界に入ることが悟りでしょう。
引用返信/返信 削除キー/
■14801 / inTopicNo.63)  Re[21]: 最後の審判
□投稿者/ 愛満開 -(2021/07/09(Fri) 19:13:11)
    knowing itselfさんこんばんは。

    > ヨハネ6章のパンは最後の晩餐のパンの先取り。そして最後の晩餐のパンは翌日の十字架上の体の先取りです。パンを食べるとは、イエスの十字架上の体に同化することです。イエスが十字架という究極のむごたらしい身体的な苦しみではなく、もっと幸福な人生であればと願うのことは、ペテロがたしなめられたようにサタンの唆しです。日本語の書物には「幸福論」というタイトルが多いのに比して、欧米には少ないという指摘を聞いたことがありますし、日本人は幸福になりたがる国民だと。確かにいえると思いますが、キリスト教は幸福を求める宗教ではないと断言できますね。ましてや、キリストや神の幸福を願うという発想が、強烈な違和感を覚えます。

    ああ、そういう事なのですね。
    認識不足でした。ただ、神様には幸福になってというのではなく、ただ喜んでいただければと思っているんです。
    あれだけ、十字架での苦痛を受けられたのですから、そう思ってしまうんです。

    >>しかしながら、予定説は聖書的な教理です。
    >>
    >>要するに、ある人たちが救われるように と前もって決めておられたということなのです。多くの聖句は、キリストを信じる者を選ばれた者と呼んでいます。
    >>
    >>(マタイ24章22節;マルコ13章20、27節; ローマ8章33節;9章11節11章5−7、28節;エペソ1章11節;コロサイ3章12節;第1テサロニケ1章4節;第1テもて章21節;第2テモテ2章10節;テトス1章1節;第1ペテロ1章1−2節;2章9節;第2ペテロ1章10節)
    >>
    >>神は救われる人をあらかじめ決めておられ、救われるためには、私たちはキリストを選ばなければならないのです。
    >
    >>神の予定説というのは、神が主権を持って、ある人たちを救われるように選ばれるという聖書的な教理なのです。
    >
    > 聖書的でないプロテスタントは思いつきません。カトリックに対抗して「聖書のみ」を主張するのがプロテスタントであり、数え方によっては五万にも上るプロテスタントの教派があるといいます。ところが、二重予定説をとるのはカルバン派と、あとはどこ?という稀少さですね。まさか、カルバン派だけが正しい聖書解釈だとはいえないと思います。
    > カルバン派を正しさを根拠づけるのは、結局は、カルバンのテキストになるという批判もありうるでしょう。立派なカルバン教です。

    本来、人間は、全員が地獄へ行くべきところを、イエス様を信じた一部の人間だけ救済することで最終的に、神の義と聖とを貫徹するというのが、なにか、その方が、しっくりくるからでした。

    https://www.youtube.com/watch?v=bAnHJ0YFs50&t=1380s
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■14800 / inTopicNo.64)  聖体=新しい過越
□投稿者/ knowing itself -(2021/07/09(Fri) 19:07:47)
    > 最後の晩餐のパンは翌日の十字架上の体の先取りです。

    一日前に新契約は完全に成立しているということです。この新契約=新約は、モーセの出エジプトと過越に対して、新しい出エジプトと新しい過越と呼ばれます。前者よりはるかに根本的で強力な、決定版としての出エジプト。

    新約聖書という書物を内面で信仰することによって救われというより、パンを食べることいこ新しい過越によって、天の解放に向かって出エジプトした。未来形じゃなく、完了形で、新「出エジプト」した。
引用返信/返信 削除キー/
■14799 / inTopicNo.65)  Re[20]: 最後の審判
□投稿者/ knowing itself -(2021/07/09(Fri) 17:18:44)
    愛満開さんへ

    >>イエスや神の幸福を願うという意味がもう一つ理解できません。神は全能でパーフェクトな存在なのに、どうして幸福になる必要があるのでしょうか。人間の祈りごときで神が幸福になったりするのでしょうか。
    >
    > いいえ、確かに、その通りでしょうが、神様を思いやる、つまり、神を愛することには、問題ないと思うのですが・・・。

    ヨハネ6章のパンは最後の晩餐のパンの先取り。そして最後の晩餐のパンは翌日の十字架上の体の先取りです。パンを食べるとは、イエスの十字架上の体に同化することです。イエスが十字架という究極のむごたらしい身体的な苦しみではなく、もっと幸福な人生であればと願うのことは、ペテロがたしなめられたようにサタンの唆しです。日本語の書物には「幸福論」というタイトルが多いのに比して、欧米には少ないという指摘を聞いたことがありますし、日本人は幸福になりたがる国民だと。確かにいえると思いますが、キリスト教は幸福を求める宗教ではないと断言できますね。ましてや、キリストや神の幸福を願うという発想が、強烈な違和感を覚えます。


    > しかしながら、予定説は聖書的な教理です。
    >
    > 要するに、ある人たちが救われるように と前もって決めておられたということなのです。多くの聖句は、キリストを信じる者を選ばれた者と呼んでいます。
    >
    > (マタイ24章22節;マルコ13章20、27節; ローマ8章33節;9章11節11章5−7、28節;エペソ1章11節;コロサイ3章12節;第1テサロニケ1章4節;第1テもて章21節;第2テモテ2章10節;テトス1章1節;第1ペテロ1章1−2節;2章9節;第2ペテロ1章10節)
    >
    > 神は救われる人をあらかじめ決めておられ、救われるためには、私たちはキリストを選ばなければならないのです。

    > 神の予定説というのは、神が主権を持って、ある人たちを救われるように選ばれるという聖書的な教理なのです。

    聖書的でないプロテスタントは思いつきません。カトリックに対抗して「聖書のみ」を主張するのがプロテスタントであり、数え方によっては五万にも上るプロテスタントの教派があるといいます。ところが、二重予定説をとるのはカルバン派と、あとはどこ?という稀少さですね。まさか、カルバン派だけが正しい聖書解釈だとはいえないと思います。
    カルバン派を正しさを根拠づけるのは、結局は、カルバンのテキストになるという批判もありうるでしょう。立派なカルバン教です。
引用返信/返信 削除キー/
■14783 / inTopicNo.66)  Re[19]: 人間界
□投稿者/ 愛満開 -(2021/07/08(Thu) 20:36:20)
    悪魔ちゃんコロナは、難物です。

    > >安易にイエス様に頼っても基本コロナは防げません<
    >
    > 〈安易に〉っていうの引っかかるのの。
    > 安易じゃなけれは〈イエス様に頼ればコロナが防げる〉っていうことなのかしら?
    >
    > イエスさんが主張する「神」っていうの、〈世界の創造主〉ってわたし見てるんだけど、違う?

    教会に行って礼拝すれば、コロナにかからないと言う事ではありません。
    きちんと、マスク、消毒をしてソーシャルディスタンスをとり大声を出したり歌ったりしない等の予防を徹底して初めてコロナは防げるのだと思います。

    『聖書』の中にはイエス様が行った「奇跡」が記されています。

    具体的には、「病のいやし」「水面上を歩く」「死んだ人を生き返らせる」「水をぶどう酒に変える」「悪霊を祓う」というような事が記されています。

    けれどもこれは「イエスが神の子」であることの証拠であり、また旧約聖書におけるメシアについての証拠として、旧約聖書に記された預言がイエスにおいて成就したという意味でもあります。

    祈りに対して、どのような結果になったとしても、その結果に対してそこに「神の意志」を認め、病気がいやされるように祈ったけれども、いやされなかったと落胆することなく、神の意志を理解してその後の人生を歩むのです。

    その意味で「祈り」は、現世利益を求める加持祈祷ではなく、むしろ「神さまとの対話」と言った方が正しいと思います。


引用返信/返信 削除キー/
■14780 / inTopicNo.67)  Re[18]: 人間界
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/07/08(Thu) 19:35:04)
    ■14767、愛満開さん、

    >安易にイエス様に頼っても基本コロナは防げません<

    〈安易に〉っていうの引っかかるのの。
    安易じゃなけれは〈イエス様に頼ればコロナが防げる〉っていうことなのかしら?

    イエスさんが主張する「神」っていうの、〈世界の創造主〉ってわたし見てるんだけど、違う?
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■14779 / inTopicNo.68)  Re[19]: 最後の審判
□投稿者/ 愛満開 -(2021/07/08(Thu) 19:33:55)
    knowing itselfさんこんばんは

    > イエスや神の幸福を願うという意味がもう一つ理解できません。神は全能でパーフェクトな存在なのに、どうして幸福になる必要があるのでしょうか。人間の祈りごときで神が幸福になったりするのでしょうか。

    いいえ、確かに、その通りでしょうが、神様を思いやる、つまり、神を愛することには、問題ないと思うのですが・・・。

    > 誰に与え、誰に与えないかを前もって「二重予定」しているとカルバン派のようには決して考えない。

    ローマ書8章29−30節には、
    「なぜなら、神はあらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」と言っています。

    多くの人たちは、予定説に対して強い反感を持っています。

    しかしながら、予定説は聖書的な教理です。

    要するに、ある人たちが救われるように と前もって決めておられたということなのです。多くの聖句は、キリストを信じる者を選ばれた者と呼んでいます。

    (マタイ24章22節;マルコ13章20、27節; ローマ8章33節;9章11節11章5−7、28節;エペソ1章11節;コロサイ3章12節;第1テサロニケ1章4節;第1テもて章21節;第2テモテ2章10節;テトス1章1節;第1ペテロ1章1−2節;2章9節;第2ペテロ1章10節)

    神は救われる人をあらかじめ決めておられ、救われるためには、私たちはキリストを選ばなければならないのです。

    この二つの事実は、同じ真理です。

    ローマ11章33節は、「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、そのみちは、何と測り知りがたいことでしょう。」と宣言しています。

    人は、誰一人として救いを受けるに価しないということです。

    私たち、みんなが罪を犯しました。(ローマ3章23節)

    それで、誰もが永遠の罰を受けて当たり前なのです。(ローマ6章23節)

    その結果、私達をすべて永遠の地獄に送っても、神は完全に正しいのです。

    しかしながら、神は私たちの中の何人かを救うことにされました。

    このように、本来、人間は、全員が地獄へ行くべきところを、イエス様を信じた一部の人間だけ救済することで最終的に、神の義と聖とを貫徹するためと思われます。

    神の予定説というのは、神が主権を持って、ある人たちを救われるように選ばれるという聖書的な教理なのです。
引用返信/返信 削除キー/
■14778 / inTopicNo.69)  Re[18]: 最後の審判
□投稿者/ knowing itself -(2021/07/08(Thu) 18:55:15)
    愛満開さん こんばんは

    >>>>私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。(ヨハネ福音書6・54)
    > >>
    > >>最初の疑問は、「イエスの肉を食べ、イエスの血を飲む」とはどういう意味だろうかということです。
    >>
    >>ヨハネ6章の前半で、イエスは大麦のパン五つを取って、五千人に分け与えていますが、そのパンがイエスの肉にあたりますね。実はこれが最後の晩餐の聖体制定の先取り、予行演習だったということでしょう。イエスの肉がパンのようなものなのではなく、イエスが手にして分け与えたパンが、そのものズバリ、イエスの肉だと。あとは聖変化で説明した通りです。
    >
    > なるほど、予行演習とは思いもよりませんでした。
    > ただ、そう考えると、その後の展開の意味が、確かに、分かるような気がします。
    > きっと、パンとワインを飲食した人は、それまで、自分の御利益の事ばかり考えていた人も、イエス様、神御自身の幸福を願うようになるのではないでしょうか。

    イエスや神の幸福を願うという意味がもう一つ理解できません。神は全能でパーフェクトな存在なのに、どうして幸福になる必要があるのでしょうか。人間の祈りごときで神が幸福になったりするのでしょうか。

    ヨハネ6章のパンが聖体の先取りだとして、五千の聖体があるのではなく、一つの聖体を五千で分かち合うというべきです。五千は五億でも、現在の世界人口の七十八億でもまったく同じです。一つのキリストの体=聖体を七十八億人で分かち合う。もちろん七十八億人が聖体を食べることはまずないと思いますが、神の御心としては七十八億人に与えてもいい、後は人間の自由意志に委ねるというのがカトリックです。誰に与え、誰に与えないかを前もって「二重予定」しているとカルバン派のようには決して考えない。
引用返信/返信 削除キー/
■14767 / inTopicNo.70)  Re[17]: 人間界
□投稿者/ 愛満開 -(2021/07/07(Wed) 20:31:42)
    No14765に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > 悪魔ちゃんするね。
    >
    > 人間界ではコロナウィルスの話題でもちきりみたいだけど、
    > でね、キリストさんだったら、これをどう見るのかしら?

    日本のキリスト教会でもクラスターが発生しています。
    しばらくの間は、讃美歌や説教は、すべてリモートのオンラインでしないと危険ですね。別にイエス様に祈ったからと言ってコロナに感染しない訳ではありません。

    発生した教会では、マスクやソーシャルディスタンスなど感染防止対策をとっていたとのことですが、全く効果が無かったようです。

    安易にイエス様に頼っても基本コロナは防げません。


引用返信/返信 削除キー/
■14765 / inTopicNo.71)  Re[16]: 人間界
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/07/07(Wed) 19:51:50)
    悪魔ちゃんするね。

    人間界ではコロナウィルスの話題でもちきりみたいだけど、
    でね、キリストさんだったら、これをどう見るのかしら?
引用返信/返信 削除キー/
■14764 / inTopicNo.72)  Re[17]: 最後の審判
□投稿者/ 愛満開 -(2021/07/07(Wed) 19:35:00)
    knowing itselfさんこんばんは

    > >>私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。(ヨハネ福音書6・54)
    >>
    >>最初の疑問は、「イエスの肉を食べ、イエスの血を飲む」とはどういう意味だろうかということです。
    >
    > ヨハネ6章の前半で、イエスは大麦のパン五つを取って、五千人に分け与えていますが、そのパンがイエスの肉にあたりますね。実はこれが最後の晩餐の聖体制定の先取り、予行演習だったということでしょう。イエスの肉がパンのようなものなのではなく、イエスが手にして分け与えたパンが、そのものズバリ、イエスの肉だと。あとは聖変化で説明した通りです。

    なるほど、予行演習とは思いもよりませんでした。
    ただ、そう考えると、その後の展開の意味が、確かに、分かるような気がします。
    きっと、パンとワインを飲食した人は、それまで、自分の御利益の事ばかり考えていた人も、イエス様、神御自身の幸福を願うようになるのではないでしょうか。

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