| knowing itselfさんいつもながら素晴らしいレスありがとうございます。
>>本来、人間は、全員が地獄へ行くべきところを、イエス様を信じた一部の人間だけ救済することで最終的に、神の義と聖とを貫徹するというのが、なにか、その方が、しっくりくるからでした。 > > 木の実を食べたという堕罪によって何が生じたかというと、死が人間の中に入り込んだ、死が人間を支配するようになった。生きることはハッピーだけど、生を終えた後に地獄に行くのが辛い、というのではなく、人生何十年の行程が死に支配されるのが堕罪でしょう。その解決が、キリストの体であるパンを食べること以外にないのだと。アダムの木の実→キリストというパン。キリストというパンを食べることによって、義と聖が貫徹されるのですから、「一部の人間だけ」性をことさらに主張する意味はないと思います。必要以上に選良意識と差別意識を肥大化させるのではないでしょうか。
「その解決が、キリストの体であるパンを食べること以外にないのだと。アダムの木の実→キリストというパン。」
激しく同意です。イエス様を内に取り込まない限り解決にはなりませんね。 > アダムの木の実(原罪)→キリストというパン(永遠のいのち)。これは仏教では、無明→悟り、がそれにあたると思います。無明に支配されることが終わらない輪廻であり、無明だけど人生は楽しい、幸福だという仏教は、残念ながらないです。その無明に支配される生と死に終止符を打って、不生不滅の世界に入ることが悟りでしょう。
仏教とのリンク大変興味深く感じました。 今更ながら聖体拝領の恵みに感謝するばかりです。
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