| パニチェさん レスありがとうございます
> 通常意識を上記の三部類としてまとめた意図というか理由があれば教えてもらえれば有難いです。
これはですね、愛満開さんと一緒に見たバイブルプロジェクトの日本語版で、アダムが木の実を食べたという原罪がもつ基本構造が上記の@ABの三分類で説明されていたので、それを借用しました。聖書で繰り返される複雑な行動パターンがこの構造を踏襲していると理解できます。非常に説得力があり、個人的には仏教の煩悩や無明と完全にパラレルに思えます。
>>それに対して、@見るA愛するB与える。ここでの@見るが神にあたると考えます。人間は神を対象として認識できないので、人間からすると、@見られるA愛される、というべきですが。 > > 「それに対して」の「それ」とは、人間の通常意識に関する三分類を指すのだと思うのですが、「それ」に対比させた「@見るA愛するB与える」というのは何を、あるいは何の二分類を示されているのでしょうか。
通常意識とはキリスト教的には原罪意識のことです。そして原罪からの解放を示すための 行動パターンとして@見るA愛するB与える、を提示しました。見ること、愛すること、与えること、それだけがすべてで、@ABが同一であるパターンです。
>>前段の通常意識における@見るが「私」にあたり、後段の@見られるが〈私〉にあたると考えます。「私」と〈私〉は同一のコインです。が、リアルさを保証するのは〈私〉。 > > ここ少し分かりません。補足いただければあ有難いです。
すでに神から見られ愛されている私と、そのことを知らずに通常意識の中でもがきながら行動している私は、実は寸分も違わず同じ私だという意味です。
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