| knowing itselfさんこんばんは。
それにしても、カルバン的な予定説は、どうして、こんなに嫌われるのでしょう。
まあ、予定説は正教会には全く受け入れられていないし、カトリック教会では予定説は、トリエント公会議で異端として排斥されたので仕方ないのですけども。
> 経済社会で成功か不成功かと、神の恵みを受ける、救われることは、全く関係がないというのがキリスト教でしょう。
カルヴァンは、そもそも資本主義的な営利行動を促進しようと思って、予定説を導入した訳ではなく、カルヴァンが生きていたら、結果に驚愕し、むしろ嘆いたと思われます。
> 神の前ではすべての人間が平等。その人間が人間共同体の政治経済で自らを統治するために、民主政治を担う主体になって国家活動に参加する。国家がどれだけ政策調整しても、経済社会には勝者と敗者、成功と失敗に分かれます。勝者は神に愛され、敗者はそうではないということは、二重予定説的なものを受け入れない限り、ないと思う。この意味でも、カルバン的な二重予定説は受け入れ難いです。
人類のうち誰が救済され、誰が呪われるかは、神によってあらかじめ予定(決定)されており、それは、人間の行為によって変えることはできないと言う説です。
そして、神のその決定は、人間には不可知であり、「判決」がくだされるそのときまではわからない。
ということは、自分が救済される側に予定されているのか、呪われた側に予定されているのかは、最後の審判のときまでわからない、ということになる訳です。
人は一般に、救いを求めて宗教を信仰するものですね。
ふつうは、善因善果、行為と救済とを結びつけるのが、一般の宗教です。
ところが予定説は違って、善い行為が救済の確率を上げる効果はないと説きます。 これは、神の絶対性と全能性を示し、その一方的な恩寵を述べているのだと思います。
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