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■14763 / inTopicNo.73)  Re[15]: 最後の審判
  
□投稿者/ knowing itself -(2021/07/07(Wed) 19:27:09)
    No14717に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。(ヨハネ福音書6・54)
    >
    > 肉を食べた者は、「その時点で」永遠の命を得るのです。終わりの日に永遠の命を得るのではない。終わりの日にならなければその点不明というのでもない。生前に肉を食べたものが、生を終えてから初めて永遠の命を得るのでもない。

    パンを食べた瞬間に永遠のいのちを得るという意味でしょう。もちろん信仰は前提です。ただのパンを食べる意識でパンを食べることで永遠のいのちを得ることはない。
引用返信/返信 削除キー/
■14761 / inTopicNo.74)  Re[16]: 最後の審判
□投稿者/ knowing itself -(2021/07/07(Wed) 19:06:25)
    愛満開さん こんばんは

    >>私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。(ヨハネ福音書6・54)
    >
    > 最初の疑問は、「イエスの肉を食べ、イエスの血を飲む」とはどういう意味だろうかということです。

    ヨハネ6章の前半で、イエスは大麦のパン五つを取って、五千人に分け与えていますが、そのパンがイエスの肉にあたりますね。実はこれが最後の晩餐の聖体制定の先取り、予行演習だったということでしょう。イエスの肉がパンのようなものなのではなく、イエスが手にして分け与えたパンが、そのものズバリ、イエスの肉だと。あとは聖変化で説明した通りです。

    > 御自身が十字架上で死ぬことを知っていたイエス様は、裂かれて、分かち合われるパンとご自分を重ね合わせたのだと思います。


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■14737 / inTopicNo.75)  Re[15]: 最後の審判
□投稿者/ 愛満開 -(2021/07/06(Tue) 20:47:08)
    knowing itselfさんこんばんは。

    なかなか聖体については、分からないことばかりですので、これからも
    いろいろ教えてくださいね。

    > 私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。(ヨハネ福音書6・54)

    最初の疑問は、「イエスの肉を食べ、イエスの血を飲む」とはどういう意味だろうかということです。

    御自身が十字架上で死ぬことを知っていたイエス様は、裂かれて、分かち合われるパンとご自分を重ね合わせたのだと思います。

    イエス様にとって、十字架は、自らを待ちうけている、いけにえの「しるし」です。これは、パンとぶどう酒が真にイエスの身体と血となる、最後の晩餐においてピークに達したのだと思います。

    そして、聖体において、ご自分と一つになることを示されました。

    「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」(56節)。

    つまり、私の中にイエス様が内在され交わりによって一つになるのです。

    聖体拝領は、イエス様の死と復活という出来事を実現させるため、パンはわたしたちに与えられた真の身体であり、ぶどう酒は、真にイエス様が流された血なのです。

    > 肉を食べた者は、「その時点で」永遠の命を得るのです。終わりの日に永遠の命を得るのではない。終わりの日にならなければその点不明というのでもない。生前に肉を食べたものが、生を終えてから初めて永遠の命を得るのでもない。

    イエス様は。「このパンを食べる者は永遠に生きる」(ヨハネ6・58)と仰いました。この世で神との真の交わりのうちに生きることにより、わたしたちは死からいのちへと過ぎ越すことができます。

    いのちのパンであるイエス様への信仰とともに成長する恵みを、さらに与えてくださいますように。
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■14722 / inTopicNo.76)  Re[15]: 最後の審判
□投稿者/ 通りすがり -(2021/07/05(Mon) 21:12:42)
    愛満開=勿忘草?
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■14717 / inTopicNo.77)  Re[14]: 最後の審判
□投稿者/ knowing itself -(2021/07/05(Mon) 19:12:44)
    私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。(ヨハネ福音書6・54)

    肉を食べた者は、「その時点で」永遠の命を得るのです。終わりの日に永遠の命を得るのではない。終わりの日にならなければその点不明というのでもない。生前に肉を食べたものが、生を終えてから初めて永遠の命を得るのでもない。
引用返信/返信 削除キー/
■14716 / inTopicNo.78)  最後の審判
□投稿者/ knowing itself -(2021/07/05(Mon) 19:00:11)
    愛満開さん こんばんは

    > ある意味においては、御指摘の通りだと思います。
    >
    > ただ、実際のところは、最後の審判になってみないと分かりませんね。

    分からないとは何が分からないということでしょうか?救われるかどうかが分からないという意味でしたら、違うと思います。最後の審判については、最近(一、ニカ月?)も書き込みを繰り返しましたが、救われとはちょっと違います。最後の審判は、歴史を貫く神の救済ストーリーの客観的な完成ですが、個人個人の救われは最後の審判以前に決まります。

    十二弟子やパウロの救いは最後の審判まで分からない?それはないですね。彼らは生前に救われています。聖母マリアの救いは最後の審判までわからない?キリスト教的にはありえないですね。

    キリスト教は十二弟子やパウロのような信仰をもてば、確実に生前に救われるという主張だと思います。この点は、カトリックとプロテスタントは同じでしょう。そして十二弟子を決して雲の上の特別な存在とみない。それをしたら十二弟子教になる。十二弟子と現代を生きる人間は、キリストの前では同等の存在に過ぎないことを主張するのがキリスト教です。

    > 自分自身の場合、神の一方的な恩寵ということに頼るしかないように思いますし、だからこそ、三位一体の神に、日々感謝して余りある感じがするのです。


引用返信/返信 削除キー/
■14711 / inTopicNo.79)  Re[14]: カルヴィニズムの五箇条
□投稿者/ 愛満開 -(2021/07/04(Sun) 21:10:50)
    マックスヴェーバーによれば、近代資本主義の精神に影響を及ぼしたのは、アメリカドルの最高額紙幣100ドル札にもなっているベンジャミン・フランクリンの「時は金なり」Time is moneyのようなカルヴィニズムの「予定説」です。

    これは、自分が救済されるかどうかは、生まれる前に既に神によって予め決められてしまっているとする教義であり、カルヴァン神学の中心教義であるとされています。

    カルヴィニズムにおいて労働とは神の栄光のためになされねばならない天命であり神の意志を地上で成し遂げる合理的な禁欲、努力の職業労働なのです。

    こうして獲得した財は原則的に投下資本として使用され合理的禁欲の観念は、節制の強制による資本形成をもたらしたのだと。

    カルヴィニズムにおいては、神のために人間があるとされ「神の栄光を増すため」に現世で労働を行う。

    信者は、神が社会的秩序を実益に役立つように創造したので、実益に役立つ労働はまさに神の意にかなうと考えました。

    このような、来世を目指しつつ世俗の内部で行われる生活態度の合理化、これこそが禁欲的プロテスタンティズムの天職観念が作り出したものだったと思われます。

引用返信/返信 削除キー/
■14709 / inTopicNo.80)  カルヴィニズムの五箇条
□投稿者/ 愛満開 -(2021/07/04(Sun) 20:32:15)
    knowing itselfさん何度もすみません。

    キリストの死は救いの可能性ではなく現実性であり、強調されているのは堕落した存在である私が信じたのは、神の決定的な選びがあるからだと思っています。

    改革派教会においては、「ドルト信仰基準」は、制定から400年以上になりますが、その頭文字から「TULIP」と呼ばれ、カルヴィニズムの五箇条として知られています。

    1 全的堕落(Total depravity) - 堕落後の人間はすべて全的に腐敗しており、自らの意志で神に仕えることを選び取れない。

    2 無条件的選び(Unconditional election) - 神は無条件に特定の人間を救いに、特定の人間を破滅に選んでいる(二重予定説)。

    3 制限的・限定的贖罪(Limited atonement) - キリストの贖いは、救いに選ばれた者だけのためにある。

    4 不可抵抗的恩恵(Irresistible grace) - 予定された人間は、神の恵みを拒否することができない。

    5 聖徒の堅忍(Perseverance of the saints) - いったん予定された人間は、最後まで堅く立って耐え忍び、必ず救われる。
    (ウキペディアより)

    > 神の全知を説明する喩えとして、フットボールの試合があげられる。
    > リアルタイムでフットボールを観戦するのと、結果が決定してから録画で同じ試合を観戦するのと。
    > フットボールのプレイヤー全員には自由意志によって動き、ゲームの流れに影響力因果性を与える能力も与えられている。決して神の操り人形やロボットのように、ゲーム前からすべてプログラムされているわけではない。
    >
    > しかし、神は時間を超越した存在なので、神にとっては、何も行われていない試合前、リアはタイムの試合中、試合後の録画鑑賞、違いは一冊ない。すべてを均等に等距離に見渡せている。これが神の全知だと。
    >
    > もしカルバン派の人が、フットボールのプレイヤーを操り人形とみなすなら、キリスト教の世界観から完全にズレていると思う。

    予定説が含まれているため、一般的には冷酷な教えとして理解されやすいのですが、もともと敬虔な魂の慰めのための根源的な慰めを与えることが信条の根幹にあるものです。ただ、滅びの道を曖昧にしないところが、他と違うところでしょうか。
引用返信/返信 削除キー/
■14708 / inTopicNo.81)  フットボールの試合と録画
□投稿者/ knowing itself -(2021/07/04(Sun) 20:02:02)
    神の全知を説明する喩えとして、フットボールの試合があげられる。
    リアルタイムでフットボールを観戦するのと、結果が決定してから録画で同じ試合を観戦するのと。
    フットボールのプレイヤー全員には自由意志によって動き、ゲームの流れに影響力因果性を与える能力も与えられている。決して神の操り人形やロボットのように、ゲーム前からすべてプログラムされているわけではない。

    しかし、神は時間を超越した存在なので、神にとっては、何も行われていない試合前、リアはタイムの試合中、試合後の録画鑑賞、違いは一冊ない。すべてを均等に等距離に見渡せている。これが神の全知だと。

    もしカルバン派の人が、フットボールのプレイヤーを操り人形とみなすなら、キリスト教の世界観から完全にズレていると思う。
引用返信/返信 削除キー/
■14706 / inTopicNo.82)  Re[12]: マルクス
□投稿者/ 愛満開 -(2021/07/04(Sun) 19:56:03)
    knowing itselfさんなかなかキリスト教は、難しいですね。

    > カルバン的な二重予定説の問題点は、キリストは予め選ばれた少数の人間のために十字架にかけられたのであり、予め呪われた人間はもともとガン無視となる。けっして、すべての人間を罪から贖うための十字架ではなくなる。
    >
    > この点、マルクスの方が全人類の救済に向けたメッセージをもつという皮肉。

    ある意味においては、御指摘の通りだと思います。

    ただ、実際のところは、最後の審判になってみないと分かりませんね。

    自分自身の場合、神の一方的な恩寵ということに頼るしかないように思いますし、だからこそ、三位一体の神に、日々感謝して余りある感じがするのです。
引用返信/返信 削除キー/
■14705 / inTopicNo.83)  Re[11]: マルクス
□投稿者/ knowing itself -(2021/07/04(Sun) 19:34:44)
    カルバン的な二重予定説の問題点は、キリストは予め選ばれた少数の人間のために十字架にかけられたのであり、予め呪われた人間はもともとガン無視となる。けっして、すべての人間を罪から贖うための十字架ではなくなる。

    この点、マルクスの方が全人類の救済に向けたメッセージをもつという皮肉。

引用返信/返信 削除キー/
■14704 / inTopicNo.84)  Re[13]: 国家と資本主義
□投稿者/ knowing itself -(2021/07/04(Sun) 19:26:32)
    愛満開さん こんばんは


    > そして、神のその決定は、人間には不可知であり、「判決」がくだされるそのときまではわからない。
    >
    > ということは、自分が救済される側に予定されているのか、呪われた側に予定されているのかは、最後の審判のときまでわからない、ということになる訳です。

    それはにわかには信じ難いです。カルバンといえどもプロテスタントであり、プロテスタントは生前の救いの確信を第一義にするものだと理解しています。「一度救われたものはその救いから漏れることはない」がプロテスタントが絶対譲らない立場ではないですか。

    死後までわからない、しかもいつ来るかわからぬ最後の審判までペンディングですか?プロテスタントとしてはあまり聞いたことがありません。

    > 人は一般に、救いを求めて宗教を信仰するものですね。

    プロテスタントもそうではないですか。

    > ふつうは、善因善果、行為と救済とを結びつけるのが、一般の宗教です。

    これはカルバン派に限らず、キリスト教は結びつけません。

    > ところが予定説は違って、善い行為が救済の確率を上げる効果はないと説きます。

    これも予定説だけがそうだということではありません。

    > これは、神の絶対性と全能性を示し、その一方的な恩寵を述べているのだと思います。

    これもすべてのキリスト教にあてはまります。絶対性と全能性を示さないキリスト教はないでしょう。

    結論として、カルバン派だけが上記の特徴をもつという主張は正しいとはいいかねると思います。


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