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■15082 / inTopicNo.13)  Re[42]: カルバンと浄土真宗のちがい
  
□投稿者/ knowing itself -(2021/07/20(Tue) 19:00:07)
    愛満開さん レスありがとうございます

    >限られた救済の指定席を得ること

    こういうことを主張するプロテスタントの牧師さんや聖書学者、神学者がいるとは、ちょっと信じられません。カルバンでも果たしそういっているのだろうかという疑問が湧きます。
    愛満開さんは、カルバンの原テキストを参照しているのですか。それとも誰か牧師さんの影響ですか。

    カトリックにはありえませんね。世界人口78億人、全員に洗礼を授けて、聖体拝領にも与らせることは、あってもいい話。そのうち誰が救われるか、誰にもわかりません、指定席は元々ごくわずかだから人間にはどうしようもありません。最後の審判までペンディングですよ。そんなことを考えるようでは、そもそも教会の存在自体がまったくの無意味です。カトリック教会の即時解散でしょう。
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■15076 / inTopicNo.14)  Re[41]: カルバンと浄土真宗のちがい
□投稿者/ 愛満開 -(2021/07/20(Tue) 07:58:19)
    knowing itselfさんおはようございます。

    いつも信仰の糧になるお話ありがとうございます。

    > 今日は時間がないのでやめますが、ロムの方はお分かりだと思いますが、私は愛満開さんのカルバン的な考え方に同意するものではありません。

    お互いに意見を出し合ってより信仰が深められたらと思っています。
    今後も、よろしくお願いいたします。
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■15073 / inTopicNo.15)  愛満開さんへ
□投稿者/ みのり -(2021/07/19(Mon) 21:23:27)
    No14816に返信(愛満開さんの記事)
    > 間もなく東京オリンピックが開幕されます。
    >
    > 個人的に本当は、靖国神社に参拝したいのですが、昨今の世界的な趨勢から非難されるばかりで我が国を必死に防衛しようとした英霊の御霊が本当に気の毒です。
    > さらに、我が国のために戦地に散って逝かれた御霊に敬意を表すとともに、このような現代の平和で豊かな日本になったことを、身体を張って守ろうとした英霊に感謝するばかりです。
    >
    > https://www.youtube.com/watch?v=cM8SLX6fa40


    愛満開さん、レス失礼します。
    愛満開さんはたしか、プロテスタントのクリスチャンだと書かれていましたよね。
    洗礼を受けられているということでいいですか?
    クリスチャンの方が神社に参拝したいと考えられる、というのがとても珍しいというか・・・、それは禁止されていることではないのですか?

    それと。愛満開さんの所属されているプロテスタントは、予定説を取っている会派なのでしょうか?
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■15072 / inTopicNo.16)  Re[40]: カルバンと浄土真宗のちがい
□投稿者/ knowing itself -(2021/07/19(Mon) 21:10:01)
    今日は時間がないのでやめますが、ロムの方はお分かりだと思いますが、私は愛満開さんのカルバン的な考え方に同意するものではありません。
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■15071 / inTopicNo.17)  Re[40]: ヤコブとエサウ
□投稿者/ 愛満開 -(2021/07/19(Mon) 21:01:25)
    限られた救済の指定席を得ること、予め決められた人が救われるのは律法の命じるわざを行うことによってではなく「キリストを信じる信仰」による「信仰義認」がその中心なのだと思います。

    義認とは、本来はそうでなくとも義人として扱われるという意味です。

    クリスチャンにとって、義認は神が信者の罪を赦されるだけでなく、キリストの義を信者に着せて下さるのです。

    聖書は様々な箇所で、義認は信仰によってのみ与えられると教えています。(ローマ5:1;ガラテヤ3:24)

    義認は私たちの行いを通して得られるのではなく、どちらかというと、私たちはイエス.キリストの義に覆われているということなのです。(エペソ2:8;テトス3:5)

    クリスチャンは、義と宣言されて、罪から解放されたということだと思います。

    罪からの解放、つまり解脱ですね。
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■15070 / inTopicNo.18)  Re[39]: ヤコブとエサウ
□投稿者/ 愛満開 -(2021/07/19(Mon) 20:49:01)
    knowing itselfさんいつも信仰の導きとなる書き込みありがとうございます。

    > 親鸞は善人か悪人かという区別とはまったく関係なしに、神の一方的な意思で救いたい人間を選び、同時に救われれない人間も選ぶとはいっていないのではないでしょうか。善人は救う、ましてや悪人なら、なおさら救うという論理ではないですか。

    実は、この点が、神様と仏様の違いなのだと思います。
    神は、宇宙創造の前から救済する人間を予め決めておられたのですから数に限りがある訳です。

    対する阿弥陀仏様は、菩薩の修行において全ての人を救おうと志を立て請願したのですから、スタートが違うのだと思います。

    神は、限定的な救済を執り行うことによって、ダメな人間の罪、悪を完全に滅ぼして、それでも、恩寵で一部のダメな人間を救済することで、神の愛、徳の深さを示し表そうとなさっているのだと思います。

    つまり、救済の視点が、神の側にあるのか、人間の側にあるのかの違いなのかなと思います。

    > ここも、善行がなくても救われるので善行をやめるという考えの危うさを指摘しているのであって、善行をしても救われないという考えではないと思います。カルバン的な予定説の場合は、救われない人間は天地創造以前から決定しているので、善行をいくら積んでも救われるやうに変えることは不可能となるのでは?

    おっしゃる通りだと思います。
    善行をいくら積んでも、神の絶対的な善と比較したら救われません。
    つまり、本来は、誰一人として救われないのです。

    でも、神の恩寵により一部の人間を救済することで人間の相対的な善と比較して
    神の絶対的な善を表すのだと思います。
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■15069 / inTopicNo.19)  カルバンと浄土真宗のちがい
□投稿者/ knowing itself -(2021/07/19(Mon) 20:37:58)
    親鸞の場合、悪人ほど救う、悪人なら救う、悪人でも救うという論理があるように思いますが、カルバン的(二重予定説原理主義)なプロテスタントの神は、一神教だけあって、救うも救わないも、愛するも憎むも、全能の神の一存となるのでは?悪人だろうがそのまま滅んでお終いもありでしょう。逆に造悪自慢はカルバン派にはない。
引用返信/返信 削除キー/
■15067 / inTopicNo.20)  Re[38]: ヤコブとエサウ
□投稿者/ knowing itself -(2021/07/19(Mon) 20:21:31)
    愛満開さん レスありがとうございます。

    >>率直な意見を言わせていただきますが、まったく同意できません。ちょっと強引すぎる論法だと思います。カルバン的な予定説と浄土真宗は、私の中では結びつきません。
    >
    > 予定説では、すべて神の自由な恩恵と愛による(他力)のものであって、決して信仰あるいは善き行為(自力)というのは、関係がありません。


    > それは善行を積むとか、信仰生活を敬虔に送るとか、悔い改めるとかという人間の側の問題(自力)ではないというところが、修行による自力では難しいとした親鸞の悪人正機説の絶対(他力)の考え方と、とてもよく似た思考だと思うんです。
    >
    > 親鸞は、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と述べていますが、その意味は、善行を積み、修行し、自力で浄土に赴こう、赴けるとする人ですら、阿弥陀仏は、救って下さり、往生を遂げさせて下さる、いわんや自力で何事かをなし遂げようといった気持をかけらも、もたない――絶対他力の境地に近い――悪人が、往生を遂げることができないはずがあろうか、そんなことはない、というものです。


    親鸞は善人か悪人かという区別とはまったく関係なしに、神の一方的な意思で救いたい人間を選び、同時に救われれない人間も選ぶとはいっていないのではないでしょうか。善人は救う、ましてや悪人なら、なおさら救うという論理ではないですか。

    > 親鸞も、この考え方が、一方で、どんなに善行を積んでもそれと救済=往生と無関係なのなら、なぜ善行を続けなければならないのか、やめてしまおう、とか、あるいは、悪人たることが往生の近道なら逆に悪行をなそう、といった短慮(たんりょ)を生むことを懸念して、この考えをそのまま公けにすることを禁じていました。

    ここも、善行がなくても救われるので善行をやめるという考えの危うさを指摘しているのであって、善行をしても救われないという考えではないと思います。カルバン的な予定説の場合は、救われない人間は天地創造以前から決定しているので、善行をいくら積んでも救われるやうに変えることは不可能となるのでは?

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■15064 / inTopicNo.21)  Re[39]: 書物
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/07/19(Mon) 19:50:59)
    ■15048、満開さん、ありがと。

    了解で〜す。
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■15063 / inTopicNo.22)  Re[38]: 予定説と親鸞
□投稿者/ 愛満開 -(2021/07/19(Mon) 19:47:57)
    > 親鸞も、この考え方が、一方で、どんなに善行を積んでもそれと救済=往生と無関係なのなら、なぜ善行を続けなければならないのか、やめてしまおう、とか、あるいは、悪人たることが往生の近道なら逆に悪行をなそう、といった短慮(たんりょ)を生むことを懸念して、この考えをそのまま公けにすることを禁じていました。
    >
    > つまり、それが信仰のつまずきとなりかねない危険な考えでもあることを知っていたのだと思います。

    なぜなら、仏教においては、「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の『三法印』の教えであり、それは、縁起による人の心や、この世のすべてのものごとは、いつも変化していて、相互に複雑に関係しあっているものですから、悪いことをすれば、それが、回り回ってブーメランのように自分に帰ってくるからです。

    人を呪わば穴二つともいいますね。

    ものごとは、次々に変化していますが、変化自体に善い、悪いはありません。

    変化しないことが良くて、変化するのが悪いという、固定的な見方をしているうちは、思い込みが激しく、得たものを失うことが怖くなってしまいます。

    つまり、どんなことも、私に必要があって変化しているんだと、現実をありのままに受け止めることができれば、悟りは近いのだと思います。

    自分の見方、考え方次第で状況が変化するとなると「自分から、この状況をより良い方向へ変えていってみよう」と、方向転換してくれるのが「諸行無常」の教えなのではないかと思います。
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■15062 / inTopicNo.23)  Re[37]: ヤコブとエサウ
□投稿者/ 愛満開 -(2021/07/19(Mon) 19:33:05)
    knowing itselfさんこんばんは。

    >>だから、親鸞の悪人正機説の考えに親しい人ならほぼ誰もが、ここに、親鸞の絶対他力の考え方と似た思考、信仰観の現れているのを、見るに違いないのです。
    >
    > 率直な意見を言わせていただきますが、まったく同意できません。ちょっと強引すぎる論法だと思います。カルバン的な予定説と浄土真宗は、私の中では結びつきません。

    予定説では、すべて神の自由な恩恵と愛による(他力)のものであって、決して信仰あるいは善き行為(自力)というのは、関係がありません。

    それは善行を積むとか、信仰生活を敬虔に送るとか、悔い改めるとかという人間の側の問題(自力)ではないというところが、修行による自力では難しいとした親鸞の悪人正機説の絶対(他力)の考え方と、とてもよく似た思考だと思うんです。

    親鸞は、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と述べていますが、その意味は、善行を積み、修行し、自力で浄土に赴こう、赴けるとする人ですら、阿弥陀仏は、救って下さり、往生を遂げさせて下さる、いわんや自力で何事かをなし遂げようといった気持をかけらも、もたない――絶対他力の境地に近い――悪人が、往生を遂げることができないはずがあろうか、そんなことはない、というものです。

    親鸞も、この考え方が、一方で、どんなに善行を積んでもそれと救済=往生と無関係なのなら、なぜ善行を続けなければならないのか、やめてしまおう、とか、あるいは、悪人たることが往生の近道なら逆に悪行をなそう、といった短慮(たんりょ)を生むことを懸念して、この考えをそのまま公けにすることを禁じていました。

    つまり、それが信仰のつまずきとなりかねない危険な考えでもあることを知っていたのだと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■15050 / inTopicNo.24)  Re[36]: ヤコブとエサウ
□投稿者/ knowing itself -(2021/07/18(Sun) 20:39:56)
    > だから、親鸞の悪人正機説の考えに親しい人ならほぼ誰もが、ここに、親鸞の絶対他力の考え方と似た思考、信仰観の現れているのを、見るに違いないのです。

    率直な意見を言わせていただきますが、まったく同意できません。ちょっと強引すぎる論法だと思います。カルバン的な予定説と浄土真宗は、私の中では結びつきません。
引用返信/返信 削除キー/

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