■14715 / inTopicNo.43) |
Z 第一部 序説 5,6
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□投稿者/ みのり -(2021/07/05(Mon) 11:07:35)
| 2021/07/05(Mon) 15:18:30 編集(投稿者) 2021/07/05(Mon) 11:21:17 編集(投稿者) 2021/07/05(Mon) 11:12:25 編集(投稿者)
§序説5§
民衆になかなか真剣に話を聞いてもらえないツァラトゥストラ。 教養ある人間としての誇りを傷つけられるように感じる「没落」「自己軽蔑」という言い方のために受け入れられないのだ、と考えた彼は、逆に「没落」「自己軽蔑」などを欲することこそが教養などよりも根源的な誇りであることを民衆に説きます。
( 『ツァラトゥストラ』上 ちくま学芸文庫 p303 注釈を参考にしました。)
最も軽蔑すべき者、「最後の人間」。 あなたたちはそうであってはならない、ということをツァラトゥストラは民衆に語り掛けます。
・・・・・ > 「『ツァラトゥストラ』序説には、ツァラトゥストラが民衆にむかって「超人を教えよう」と呼びかける場面が出てくる。これに続く箇所で、ニーチェは「生命の軽蔑者」「最低の軽蔑すべき者」そして「大いなる軽蔑者」という表現をそこに配している。三者の布置関係は、神の死・おしまいの人間・超人という三者の関係を反映したもので、「大いなる軽蔑」は人間の意義を悟り、超人に身を捧げる時に訪れる。超人を語る者にとっては、もはや神の名のもとに「地上を超えた希望」を説くことはできない。かような希望を抱くのは、霊魂による肉体の軽蔑を最高の思想と説く「生命の軽蔑者」である。神の死とともにこのような「死にぞこない」の去る時がきた。超人は大地を超えたものであるどころか「大地の意義」そのものであり、「大海」である。人間が大地にこの身を捧げ、大海に没するとき「大いなる軽蔑」の時が訪れる。「大いなる軽蔑」とは、人間が小さな幸福・徳・理性・正義・同情に満足して生きる自己の姿そのものを軽蔑し、嫌悪する徹底した自己否定の偉大さを形容したもの。小市民的な日常の幸福に憧れて、もはや自分自身を軽蔑することすらできない「おしまいの人間」がツァラトゥストラにとって「最も軽蔑すべき者」であり、この「大いなる軽蔑をなす者」こそ彼の愛すべき「大いなる尊敬者」である。やせ細った醜い霊魂が肉体を軽蔑する時が去ったのち、「もはや自分自身を軽蔑することができない最も軽蔑すべき人間の時」に溺れるか、「大いなる軽蔑」の時に出会うか──人間はどちらの可能性にも開かれている。(『ニーチェ事典 大いなる軽蔑』よりの引用)」 ・・・・・ 先日、パニチェさんが引用してくださった文中に、既に「おしまいの人間」「最低の軽蔑すべき者」として書かれています。
12〜25までは、「最後の人間」についてツァラトゥストラが語ります。 隣人愛に暖かさを求める、病気になることを過剰に怖れる、などの特徴を持つとして。
「最後の人間」「おしまいの人間」「最低の軽蔑すべき者」は、「末人」という表現もされるようです。(なんとも強烈な言い方だな〜、と少し驚愕です。) 訳者による表現なのか、ニーチェ自身がそう訳される表現をしたのかは今のところ不明です。
・・・・・ 19 ひとはなお労働する。というのは、労働は一個の娯楽であるから。しかし、この娯楽で疲れたりしないように、心を配る。 ・・・・・ 同書p31より引用
私(みのり)の想像なのですが・・・、ニーチェはもしや「最後の人間」と言いながらも彼らにルサンチマンを感じる部分もあったのかもしれない、と。 生きることに不器用で普通になれない自分に対する引け目のような何か。 ここはあくまで個人的な感想です。
26で民衆は、「自分たちは、その最後の人間で構わない、そうしてくれ、それならおまえは超人だな。」と叫びます。 それを聞いたツァラトゥストラは落胆します。
ツァラトゥストラの超人に対する情熱と、人々に伝わらず空回りしてしまう状況が、ニーチェの私生活とも重なるように思えてなんだか切なくなってしまいます。。。
§序説6§
そんな時、綱渡り師は芸当を始めるのですが、その後ろから道化師が現われ、綱渡り師を罵倒しながら追い越し、それに驚いた綱渡り師は墜落してしまいます。
命を落としかけている綱渡り師にツァラトゥストラは近づくと、悪魔や地獄を恐れる彼に、
・・・・・ 3 「わたしの名誉にかけて言うが友よ、」とツァラトゥストラは答えた、「きみの語っているようなものは、すべて存在しない。悪魔も地獄も存在しないのだ。きみの霊魂はきみの身体よりもいっそう速やかに死ぬであろう。 さぁ、もはや何も恐れるな!」 ・・・・・同書p35より引用
自分を「鞭打ちと餌で踊らされる動物と変わらない」と言う綱渡り師に対して、 ツァラトゥストラは、天職のために破滅するきみに報いるため、きみをわたしの手で埋葬する、と伝えます。 それに対して彼は謝意を伝えようとして、ツァラトゥストラの手を探り求めます。
ツァラトゥストラは、綱渡り師を「大いなる軽蔑をなす者」であり「大いなる尊敬者」であると感じたのかもしれません。(想像です。)
・・ 道化師は、「民衆をそそのかすラディカルな扇動者、目標が一挙にして暴力によって達成しうるとまことしやかに民衆に説く、狡猾で良心なきデマゴーグ」の象徴。 綱渡り師がイヌに喩えられるなら、道化師は善にして義なる者たちとしての牧人─民衆支配者となる。 ツァラトゥストラは自らもそういう牧人であってはならないと悟り、民衆に直接に語り掛けることを断念する。 しかし彼は、民衆の真の指導者たること、つまり真の牧人となることを断念したわけではない。 ・・ ( 『ツァラトゥストラ』上 ちくま学芸文庫 p306 注釈を参考にしました。)
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