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■14748 / inTopicNo.37)  Re[43]: Z 第一部 序説  金言集
  
□投稿者/ みのり -(2021/07/07(Wed) 14:06:43)
    No14738に返信(パニチェさんの記事)
    > 2021/07/06(Tue) 21:50:45 編集(投稿者)
    >
    > 以下は序説の金言集(私の好きな言葉)です。
    >
    > 「いったいこんなことがありうるのだろうか!この年老いた聖者は、自分の森のなかにいて、神が死んだことについて、まだ何も聞いていないのだ。(2-21)」
    >
    > 「わたしは君たちに超人を教える。人間は、超克されるところの、なにものかである。(3-2)」
    >
    > 「超人は大地の意味である。きみたちの意志は言うべきだ、超人を大地の意味たらしめよう!と。(3-8)」
    >
    > 「人間は、動物と超人のあいだにかけ渡された一本の綱である、一つの深淵の上にかかる一本の綱である。(4-2)」
    >
    > 「ひとはなお隣人を愛し、隣人にわが身をこすりつける。というのは、暖かさが必要だからである。(5-16)」
    >
    > 「わたしたちは人間たちに彼らの存在の意味を教えたい。すなわち、この意味は大地であり、人間という暗雲からひらめく電光であるのだ。(7-4)」

    どれも響いてくる言葉ではあるのですが、
    「超人は大地の意味である。きみたちの意志は言うべきだ、超人を大地の意味たらしめよう!と。(3-8)」
    この、超人を大地に喩えているのが含蓄があるな、と思い気に入りました。

    > Richard Strauss: Also Sprach Zarathustra - Einleitung - Karajan
    > https://www.youtube.com/watch?v=M-2ed2hY6Ck
    >
    > PS.日本フィルハーモニー交響楽団の「ツァラトゥストラはかく語りき」を探しましたが見つかりませんでした。すんまそん。^^;

    いえいえ。^^  2001年宇宙の旅だ〜、と思ってしまいます。
    荘厳ですね。
引用返信/返信 削除キー/
■14747 / inTopicNo.38)  Z 第一部 序説 5,6  “末人”について
□投稿者/ みのり -(2021/07/07(Wed) 13:54:32)
    No14736に返信(パニチェさんの記事)
    > 2021/07/06(Tue) 21:27:01 編集(投稿者)

    > こんばんは、みのりさん。あの難解なツァラトゥストラを着々と読み進められ読解されていますね。

    パニチェさん、レスありがとうございます。
    パニチェさんが書かれていたように、訳注が充実しているので理解しやすくなっています。
    それに、パニチェさんに解らないところを教えていただいているので、進めています。

    > ■No14715に返信(みのりさんの記事)
    >
    >>「最後の人間」「おしまいの人間」「最低の軽蔑すべき者」は、「末人」という表現もされるようです。(なんとも強烈な言い方だな〜、と少し驚愕です。)
    >>訳者による表現なのか、ニーチェ自身がそう訳される表現をしたのかは今のところ不明です。
    >
    > 「末人」という呼び方は『この人を見よ』にも出てきますのでニーチェの表現だと思います。

    そうなんですね。ありがとうございます。

    > 『幸いなことに世界は、人が好いというほかに取り柄のないような畜群がその中にけちな幸せを見つけ出せるようにと、そんな本能を目標にして構築されてはいないのだ。万人はすべからく「善人」であれ、畜群であれ、碧い眼の人(うぶ、ナイーブ、お人好しを俗にこう言う)であれ、誰にでも好意的であれ、「美しき魂」であれ──さもなくばハーバート・スペンサー氏がお望みのように、万人は愛他的であるべしなどと要求することは、どだい生存からその偉大な性格を奪い取ってしまうことにほかならない。人間を去勢して、憫れむべき志那の宦官の状態に引き下げることにほかならない。──しかもこれこそ今まで試みられて来たことなのである!……これこそ道徳と呼ばれて来たものなのである……ツァラトゥストラが善人たちをあるときは「末人」と呼び、あるときは「終末の始まり」と呼んでいるのは、以上の意味においてである。(「この人を見よ なぜ私は一個も運命であるのか4」より)』


    末人というのは「善人」のことでもあるんですね。
    ニーチェにとって「善人」というのは質(たち)が悪いものだったようで、そのあたりについてもこれから出てくるようなので、その時にまた詳しく見ていこうと思います。

    >>道化師は、「民衆をそそのかすラディカルな扇動者、目標が一挙にして暴力によって達成しうるとまことしやかに民衆に説く、狡猾で良心なきデマゴーグ」の象徴。
    >>綱渡り師がイヌに喩えられるなら、道化師は善にして義なる者たちとしての牧人─民衆支配者となる。
    >>ツァラトゥストラは自らもそういう牧人であってはならないと悟り、民衆に直接に語り掛けることを断念する。
    >>しかし彼は、民衆の真の指導者たること、つまり真の牧人となることを断念したわけではない。
    >>・・
    >>( 『ツァラトゥストラ』上 ちくま学芸文庫 p306 注釈を参考にしました。)
    >
    > ここの訳注は2ページ以上に及びますね。
    > 私は綱渡り師も道化者もツァラトゥストラ、即ちニーチェの分身だという解釈を支持しています。^^
    >
    > 『わたしは自分の目標に向かって進もうと思う。わたしは自分の道を歩み行くのだ。ためらう者たちや緩慢な者たちをわたしは跳び越えるであろう。こうして、わたしの歩みが彼らの没落となるようにしよう!(『ツァラトゥストラ 序説9-18』より)』

    序説6での道化師についての描写は、私にはですがまだニーチェの分身というのが伝わってきていませんでした。
    序説6の読解中に訳注p306に、遺稿の中にニーチェが自身を、「あわれな綱渡り師を跳び越える道化師である。」と喩えているというのを見て、また先日、パニチェさんから「綱渡り師、道化師も同じくニーチェの分身」だとお聞きしていたこともあり、そうではあるのだろうな、とも思ったのはありましたが・・・。

    それで、昨日、序説9 に入り、ちょうど引用していただいている9-18 を読み、そういうことなのだな、と思った次第でした。



引用返信/返信 削除キー/
■14741 / inTopicNo.39)  Re[42]: Z 第一部 序説
□投稿者/ 田秋 -(2021/07/07(Wed) 06:55:47)
    おはようございます、パニチェさん

    日フィル、ツァラトゥストラは色んな指揮者で何度もやってて、録音もしてるんでしょうが、CDとしての商品価値が無かったんでしょうねえ。CDというのは皆さん家で冷静に聴きますからね、特にミストーンがあったりすると他が良くても没になるんだと思います。
    大昔、CD選考委員というのをやり、3〜4種類のコンサートの録音を聴き比べしたことありますが、演奏中は一番面白くなかったけれど一番ミスの少なかった演奏がCDとして一番良いと思ったことあります。

    おはようございます、みのりさん
    精力的にお読みですね。頑張ってついていきます。
引用返信/返信 削除キー/
■14738 / inTopicNo.40)  Z 第一部 序説  金言集
□投稿者/ パニチェ -(2021/07/06(Tue) 21:15:56)
    2021/07/06(Tue) 21:50:45 編集(投稿者)

    以下は序説の金言集(私の好きな言葉)です。

    「いったいこんなことがありうるのだろうか!この年老いた聖者は、自分の森のなかにいて、神が死んだことについて、まだ何も聞いていないのだ。(2-21)」

    「わたしは君たちに超人を教える。人間は、超克されるところの、なにものかである。(3-2)」

    「超人は大地の意味である。きみたちの意志は言うべきだ、超人を大地の意味たらしめよう!と。(3-8)」

    「人間は、動物と超人のあいだにかけ渡された一本の綱である、一つの深淵の上にかかる一本の綱である。(4-2)」

    「ひとはなお隣人を愛し、隣人にわが身をこすりつける。というのは、暖かさが必要だからである。(5-16)」

    「わたしたちは人間たちに彼らの存在の意味を教えたい。すなわち、この意味は大地であり、人間という暗雲からひらめく電光であるのだ。(7-4)」


    Richard Strauss: Also Sprach Zarathustra - Einleitung - Karajan
    https://www.youtube.com/watch?v=M-2ed2hY6Ck

    PS.日本フィルハーモニー交響楽団の「ツァラトゥストラはかく語りき」を探しましたが見つかりませんでした。すんまそん。^^;
引用返信/返信 削除キー/
■14736 / inTopicNo.41)  Z 第一部 序説 5,6  “末人”について
□投稿者/ パニチェ -(2021/07/06(Tue) 20:36:45)
    2021/07/06(Tue) 21:27:01 編集(投稿者)

    こんばんは、みのりさん。あの難解なツァラトゥストラを着々と読み進められ読解されていますね。

    No14715に返信(みのりさんの記事)

    > 「最後の人間」「おしまいの人間」「最低の軽蔑すべき者」は、「末人」という表現もされるようです。(なんとも強烈な言い方だな〜、と少し驚愕です。)
    > 訳者による表現なのか、ニーチェ自身がそう訳される表現をしたのかは今のところ不明です。

    「末人」という呼び方は『この人を見よ』にも出てきますのでニーチェの表現だと思います。

    『幸いなことに世界は、人が好いというほかに取り柄のないような畜群がその中にけちな幸せを見つけ出せるようにと、そんな本能を目標にして構築されてはいないのだ。万人はすべからく「善人」であれ、畜群であれ、碧い眼の人(うぶ、ナイーブ、お人好しを俗にこう言う)であれ、誰にでも好意的であれ、「美しき魂」であれ──さもなくばハーバート・スペンサー氏がお望みのように、万人は愛他的であるべしなどと要求することは、どだい生存からその偉大な性格を奪い取ってしまうことにほかならない。人間を去勢して、憫れむべき志那の宦官の状態に引き下げることにほかならない。──しかもこれこそ今まで試みられて来たことなのである!……これこそ道徳と呼ばれて来たものなのである……ツァラトゥストラが善人たちをあるときは「末人」と呼び、あるときは「終末の始まり」と呼んでいるのは、以上の意味においてである。(「この人を見よ なぜ私は一個も運命であるのか4」より)』

    > 道化師は、「民衆をそそのかすラディカルな扇動者、目標が一挙にして暴力によって達成しうるとまことしやかに民衆に説く、狡猾で良心なきデマゴーグ」の象徴。
    > 綱渡り師がイヌに喩えられるなら、道化師は善にして義なる者たちとしての牧人─民衆支配者となる。
    > ツァラトゥストラは自らもそういう牧人であってはならないと悟り、民衆に直接に語り掛けることを断念する。
    > しかし彼は、民衆の真の指導者たること、つまり真の牧人となることを断念したわけではない。
    > ・・
    > ( 『ツァラトゥストラ』上 ちくま学芸文庫 p306 注釈を参考にしました。)

    ここの訳注は2ページ以上に及びますね。
    私は綱渡り師も道化者もツァラトゥストラ、即ちニーチェの分身だという解釈を支持しています。^^

    『わたしは自分の目標に向かって進もうと思う。わたしは自分の道を歩み行くのだ。ためらう者たちや緩慢な者たちをわたしは跳び越えるであろう。こうして、わたしの歩みが彼らの没落となるようにしよう!(『ツァラトゥストラ 序説9-18』より)』

引用返信/返信 削除キー/
■14730 / inTopicNo.42)  Z 第一部 序説 7〜10
□投稿者/ みのり -(2021/07/06(Tue) 11:15:34)
    §序説7§

    ツァラトゥストラは綱渡り師の遺体の脇で考えます。

    ・・・・・
    5 しかし、私はなお彼らから遠く離れており、わたしの思念が話しかけても彼らの思念には通じない。わたしはなお人間たちにとって一人の阿呆と一個の死体との或る中間である。
    ・・・・・『ツァラトゥストラ』上 ちくま学芸文庫 p36より引用

    ここでの「死体」というのは、ツァラトゥストラの深遠さが人々には不気味で冷たいものと感じられることの譬え。
    (同書 訳注p308 を参考にしました。)


    §序説8§

    綱渡り師の遺体を担いで歩くツァラトゥストラは、町の門のところで墓堀り人たちに出会い、彼らから嘲笑されます。

    ここでの「墓堀り人」というのは、(著名な死者を扱う)歴史家の譬え。
    (同書 訳注 p309 を参考にしました。)

    人里離れた家で老人から食事をもらった後、ツァラトゥストラは森の中で眠りにつきます。
    遺体は、オオカミから守るため木の根元に隠し、自分はコケの上に横たわった、とあります。
    (ここで遺体とは離れるようです。)

    §序説9§

    翌日、目覚めたツァラトゥストラは、心の中で語ります。

    ・・・・・
    4 一つの光がわたしの念頭に浮かんだ。民衆に向かってではなくて、道連れに向かって、ツァラトゥストラは話すべきなのだ!
    ツァラトゥストラは或る畜群の牧人やイヌとなるべきではないのだ!

    6 牧人たちとわたしは言うが、しかし彼らは自分を善にして義なる者たちと呼んでいる。牧人たちとわたしは言う。しかし彼らは自分を正統的な信者たちと呼んでいるのだ。

    9 創造者が求めるのは道連れであって、死体ではなく、また畜群や信者たちでもない。創造者が求めるのは共に創造する者たち、新しい諸価値を新しい諸板の上に書く者たちである。
    ・・・・・同書 p41〜42より引用。

    市場で綱渡りを見ていたような民衆(畜群) を導く牧人になるのではなく、自分で自分なりの価値を創造できる者を仲間、道連れとして求めたい、とツァラトゥストラは考えるようになったのです。

    「諸板」というのは、出エジプト記のモーセの板から借りたのかな、と思い、訳注を見たらやはりそうでした。

    §序説10§

    正午の太陽が真南に来た頃、ワシとその首に巻き付くヘビが山からツァラトゥストラの元に来ます。

    「正午の太陽の真南にある」というのは、生が高揚と深化の極致に達し、まさに世界が完成する時の「大いなる正午」の理念の暗示。
    (同書 訳注p312 を参考にしました。)

    ・・・・・
    5 動物たちのなかにいるより人間たちのなかにいるほうが、いっそう危険であることをわたしは悟った。ツァラトゥストラは危険な道を歩み行くのだ。どうかわたしの動物たちがわたしを導いてくれるように!
    ・・・・・同書 p44より引用

    ワシは誇り、ヘビは賢さの象徴であり、それを持ち人間の世界を進み行く決意をツァラトゥストラはします。


     以上で序説は終了。
    序説だけでも中身は濃いし、おもしろいです。
    哲学書としてのみならず、文学作品としても魅力あるものだと思います。
    ニーチェの才能は素晴らしい。
    ツァラトゥストラがもし映画になったら、と想像すると楽しいです。

    次回から「ツァラトゥストラの説話」に入ります。







引用返信/返信 削除キー/
■14715 / inTopicNo.43)  Z 第一部 序説 5,6
□投稿者/ みのり -(2021/07/05(Mon) 11:07:35)
    2021/07/05(Mon) 15:18:30 編集(投稿者)
    2021/07/05(Mon) 11:21:17 編集(投稿者)
    2021/07/05(Mon) 11:12:25 編集(投稿者)

    §序説5§

    民衆になかなか真剣に話を聞いてもらえないツァラトゥストラ。
    教養ある人間としての誇りを傷つけられるように感じる「没落」「自己軽蔑」という言い方のために受け入れられないのだ、と考えた彼は、逆に「没落」「自己軽蔑」などを欲することこそが教養などよりも根源的な誇りであることを民衆に説きます。

    ( 『ツァラトゥストラ』上 ちくま学芸文庫 p303 注釈を参考にしました。)

    最も軽蔑すべき者、「最後の人間」。
    あなたたちはそうであってはならない、ということをツァラトゥストラは民衆に語り掛けます。

    ・・・・・
    > 「『ツァラトゥストラ』序説には、ツァラトゥストラが民衆にむかって「超人を教えよう」と呼びかける場面が出てくる。これに続く箇所で、ニーチェは「生命の軽蔑者」「最低の軽蔑すべき者」そして「大いなる軽蔑者」という表現をそこに配している。三者の布置関係は、神の死・おしまいの人間・超人という三者の関係を反映したもので、「大いなる軽蔑」は人間の意義を悟り、超人に身を捧げる時に訪れる。超人を語る者にとっては、もはや神の名のもとに「地上を超えた希望」を説くことはできない。かような希望を抱くのは、霊魂による肉体の軽蔑を最高の思想と説く「生命の軽蔑者」である。神の死とともにこのような「死にぞこない」の去る時がきた。超人は大地を超えたものであるどころか「大地の意義」そのものであり、「大海」である。人間が大地にこの身を捧げ、大海に没するとき「大いなる軽蔑」の時が訪れる。「大いなる軽蔑」とは、人間が小さな幸福・徳・理性・正義・同情に満足して生きる自己の姿そのものを軽蔑し、嫌悪する徹底した自己否定の偉大さを形容したもの。小市民的な日常の幸福に憧れて、もはや自分自身を軽蔑することすらできない「おしまいの人間」がツァラトゥストラにとって「最も軽蔑すべき者」であり、この「大いなる軽蔑をなす者」こそ彼の愛すべき「大いなる尊敬者」である。やせ細った醜い霊魂が肉体を軽蔑する時が去ったのち、「もはや自分自身を軽蔑することができない最も軽蔑すべき人間の時」に溺れるか、「大いなる軽蔑」の時に出会うか──人間はどちらの可能性にも開かれている。(『ニーチェ事典 大いなる軽蔑』よりの引用)」
    ・・・・・
    先日、パニチェさんが引用してくださった文中に、既に「おしまいの人間」「最低の軽蔑すべき者」として書かれています。

    12〜25までは、「最後の人間」についてツァラトゥストラが語ります。
    隣人愛に暖かさを求める、病気になることを過剰に怖れる、などの特徴を持つとして。

    「最後の人間」「おしまいの人間」「最低の軽蔑すべき者」は、「末人」という表現もされるようです。(なんとも強烈な言い方だな〜、と少し驚愕です。)
    訳者による表現なのか、ニーチェ自身がそう訳される表現をしたのかは今のところ不明です。

    ・・・・・
    19 ひとはなお労働する。というのは、労働は一個の娯楽であるから。しかし、この娯楽で疲れたりしないように、心を配る。
    ・・・・・
    同書p31より引用

    私(みのり)の想像なのですが・・・、ニーチェはもしや「最後の人間」と言いながらも彼らにルサンチマンを感じる部分もあったのかもしれない、と。
    生きることに不器用で普通になれない自分に対する引け目のような何か。
    ここはあくまで個人的な感想です。

    26で民衆は、「自分たちは、その最後の人間で構わない、そうしてくれ、それならおまえは超人だな。」と叫びます。
    それを聞いたツァラトゥストラは落胆します。


    ツァラトゥストラの超人に対する情熱と、人々に伝わらず空回りしてしまう状況が、ニーチェの私生活とも重なるように思えてなんだか切なくなってしまいます。。。


    §序説6§

    そんな時、綱渡り師は芸当を始めるのですが、その後ろから道化師が現われ、綱渡り師を罵倒しながら追い越し、それに驚いた綱渡り師は墜落してしまいます。

    命を落としかけている綱渡り師にツァラトゥストラは近づくと、悪魔や地獄を恐れる彼に、

    ・・・・・
    3 「わたしの名誉にかけて言うが友よ、」とツァラトゥストラは答えた、「きみの語っているようなものは、すべて存在しない。悪魔も地獄も存在しないのだ。きみの霊魂はきみの身体よりもいっそう速やかに死ぬであろう。
    さぁ、もはや何も恐れるな!」
    ・・・・・同書p35より引用

    自分を「鞭打ちと餌で踊らされる動物と変わらない」と言う綱渡り師に対して、
    ツァラトゥストラは、天職のために破滅するきみに報いるため、きみをわたしの手で埋葬する、と伝えます。
    それに対して彼は謝意を伝えようとして、ツァラトゥストラの手を探り求めます。

    ツァラトゥストラは、綱渡り師を「大いなる軽蔑をなす者」であり「大いなる尊敬者」であると感じたのかもしれません。(想像です。)

    ・・
    道化師は、「民衆をそそのかすラディカルな扇動者、目標が一挙にして暴力によって達成しうるとまことしやかに民衆に説く、狡猾で良心なきデマゴーグ」の象徴。
    綱渡り師がイヌに喩えられるなら、道化師は善にして義なる者たちとしての牧人─民衆支配者となる。
    ツァラトゥストラは自らもそういう牧人であってはならないと悟り、民衆に直接に語り掛けることを断念する。
    しかし彼は、民衆の真の指導者たること、つまり真の牧人となることを断念したわけではない。
    ・・
    ( 『ツァラトゥストラ』上 ちくま学芸文庫 p306 注釈を参考にしました。)



引用返信/返信 削除キー/
■14713 / inTopicNo.44)  Re[39]: Re Z 第一部 序説 4  “別の岸”
□投稿者/ みのり -(2021/07/05(Mon) 07:49:03)
    No14698に返信(パニチェさんの記事)

    パニチェさん、レスありがとうございます。

    > ■No14688に返信(みのりさんの記事)
    >>必ずしも超人になれなくても、それを目指して生きていくことに価値がある、ということなのでしょうね。
    >>ここについては同意です。
    >
    > ツァラトゥストラもニーチェも超人ではなく、超人の告知者ですからね。^^

    はい。

    >>ちょっと話は変わりますが。
    >>ニーチェは、苦悩や苦しみは避けるものではなくそうしたものと共存しながらも人生を楽しめ、と言っている(永劫回帰の考えだとそうなるかな、と考えます。)ように私は感じます。

    > 「楽しめ」というか苦も含めて「よし!(然り!)」と受けとめ、これを「自己超克の糧とせよ(重力の精:ツァラトゥストラで後に出てきます)」ってことだと思います。

    あ、そうです、「然り!」ですね。
    これから出てくるとのことで楽しみです。

    > ツァラトゥストラも「生は耐えがたい重荷である(『ツァラトゥストラ 7.読むことと書くことについて16』より)」と述べていますしね。。。。^^

    ツァラトゥストラ(=ニーチェ)もそのように感じていた、というのは心強い感じがします。

    >>この考え方は、仏教の一部にある(と思われる)、現世で徳を積んで来世は良く生まれようであるとか(東南アジアの仏教は現在もそのようです)、倫理的に生きることが第一目的であるかのようなこと(輪廻しなくてもよくなるために)とはまったく性質が違うと感じています。
    >
    > その通りです。

    合ってたようでよかったです。

    >>ニーチェは仏教から影響を受けたと言われますが(本などにもそう書かれている)、このような部分については否定的だったのかそれとも知らなかったのか、というようなことをふと思いました。
    >
    > 輪廻転生は知っていたと思いますが、否定的というか批判的なアフォリズムが残っています。
    > 輪廻転生よりも、解脱つまり梵我一如の方をより根本的な教義だと解釈していたようですね。
    >
    > 『「現世」にたいする憎悪、情念にたいする呪詛、美と官能とからの逃避、此岸をば一層よく誹謗せんがために案出された彼岸、窮極のところ、無へ、終末へ、寂滅へ、「安息日のなかの安息日」へいたらんとする欲求──これらすべては、単に道徳的な価値のみを認めんとするキリスト教の絶対的な意志と同様、常に、「没落への意志」のあらゆる可能な形式のなかでもっとも危険でもっとも不気味な形式のように思われた。少なくとも、もっとも深い病患、疲労、不満、消耗、生の貧困化、の徴候のように思われた(『悲劇の誕生 或る自己批判の試み5』より)』
    >
    > 『神との神秘的合一を願うのは、仏教とが無へ、涅槃へ行きつこうとする願いと同じものなのだ。(道徳の系譜 第一論文 第6番)』

    現世を虚しいものだとすることを病患だとして批判していますね。

    ニーチェの考えが解りやすい文章だと思います。
    引用していただいてありがとうございます。

    > ニーチェにとっての解脱とは人間からの解脱であり、まさしく新たな神(世界)との合一(無垢なる戯れ)による超人のことでしょうし、彼岸は此岸(現世)に対するものではなく、動物(畜群)的な側面を有する人間を超えた岸ってことだと思います。

    あくまで生きている間に超人を目指そう、ということですね。
引用返信/返信 削除キー/
■14698 / inTopicNo.45)  Re[38]: Re Z 第一部 序説 4  “別の岸”
□投稿者/ パニチェ -(2021/07/04(Sun) 17:10:02)
    こんにちは、みのりさん。レスありがとうございます。

    No14688に返信(みのりさんの記事)
    > 必ずしも超人になれなくても、それを目指して生きていくことに価値がある、ということなのでしょうね。
    > ここについては同意です。

    ツァラトゥストラもニーチェも超人ではなく、超人の告知者ですからね。^^

    > ちょっと話は変わりますが。
    > ニーチェは、苦悩や苦しみは避けるものではなくそうしたものと共存しながらも人生を楽しめ、と言っている(永劫回帰の考えだとそうなるかな、と考えます。)ように私は感じます。

    「楽しめ」というか苦も含めて「よし!(然り!)」と受けとめ、これを「自己超克の糧とせよ(重力の精:ツァラトゥストラで後に出てきます)」ってことだと思います。
    ツァラトゥストラも「生は耐えがたい重荷である(『ツァラトゥストラ 7.読むことと書くことについて16』より)」と述べていますしね。。。。^^

    > この考え方は、仏教の一部にある(と思われる)、現世で徳を積んで来世は良く生まれようであるとか(東南アジアの仏教は現在もそのようです)、倫理的に生きることが第一目的であるかのようなこと(輪廻しなくてもよくなるために)とはまったく性質が違うと感じています。

    その通りです。

    > ニーチェは仏教から影響を受けたと言われますが(本などにもそう書かれている)、このような部分については否定的だったのかそれとも知らなかったのか、というようなことをふと思いました。

    輪廻転生は知っていたと思いますが、否定的というか批判的なアフォリズムが残っています。
    輪廻転生よりも、解脱つまり梵我一如の方をより根本的な教義だと解釈していたようですね。

    『「現世」にたいする憎悪、情念にたいする呪詛、美と官能とからの逃避、此岸をば一層よく誹謗せんがために案出された彼岸、窮極のところ、無へ、終末へ、寂滅へ、「安息日のなかの安息日」へいたらんとする欲求──これらすべては、単に道徳的な価値のみを認めんとするキリスト教の絶対的な意志と同様、常に、「没落への意志」のあらゆる可能な形式のなかでもっとも危険でもっとも不気味な形式のように思われた。少なくとも、もっとも深い病患、疲労、不満、消耗、生の貧困化、の徴候のように思われた(『悲劇の誕生 或る自己批判の試み5』より)』

    『神との神秘的合一を願うのは、仏教とが無へ、涅槃へ行きつこうとする願いと同じものなのだ。(道徳の系譜 第一論文 第6番)』

    ニーチェにとっての解脱とは人間からの解脱であり、まさしく新たな神(世界)との合一(無垢なる戯れ)による超人のことでしょうし、彼岸は此岸(現世)に対するものではなく、動物(畜群)的な側面を有する人間を超えた岸ってことだと思います。

引用返信/返信 削除キー/
■14688 / inTopicNo.46)  Re[37]: Re Z 第一部 序説 4  “別の岸”
□投稿者/ みのり -(2021/07/04(Sun) 08:46:44)
    No14687に返信(パニチェさんの記事)
    > 2021/07/04(Sun) 08:17:03 編集(投稿者)

    パニチェさん、おはようございます。
    投稿ありがとうございます。

    > ■No14652に返信(みのりさんの記事)
    >
    >>まず、該当の文章を引用してみます。
    >>・・・・・
    >>6 わたしは愛する、大いなる軽蔑者たちを。なぜなら、彼らは大いなる尊敬者であり、別の岸に向かう憧憬の矢であるから。
    >>・・・・・『ツァラトゥストラ』上 ちくま学芸文庫 p27より引用
    >
    > 以下はみのりさんは理解されていると思うので、みのりさんへの返信というか、ロムしているかもしれない人への念のための追記です(ロムしている人なんていないかもしれないが。。。笑)。
    >
    > 上記の「別の岸」とはツァラトゥストラに続いて出版されたツァラトゥストラの解説や補足も含め書かれた書籍のタイトルにもある「善悪の彼岸」のことですね。
    >
    > もう少し詳しく表現すれば「ユダヤ・イスラム・キリスト教的善悪二元論道徳を超克した別の岸」ってことになりますし、超人が立脚する大地です。
    > 時間で言えば影(プラトンの比喩である洞窟の影)が最も短くなる「おおいなる正午」、超人が誕生する時ってことになります。

    「別の岸」については、およそのところで理解はしていました。
    彼岸、岸といった言葉もニーチェがよく使う言葉なのですね。

    > 人間は別の岸に渡された一本の不安定な綱の上をいく過渡期の存在、または一本の綱そのものってことになります。

    はい。

    > そこから転落する綱渡り師も、軽やかな前進を躊躇した綱渡り師を飛び越えた道化師も「別の岸」を目指して進むツァラトゥストラの分身であるとともに、超人を目指して没落する尊敬されるべき同類(大いなる尊敬者)です。

    道化師はこれから出てくるんですね。

    > 「別の岸」は仏教の彼岸(涅槃)に対置させた場所でしょうし、そこを目指すこと自体が尊く、道元禅師によれば涅槃と同義(修証一等:修行と悟りは一如)ってことになるんでしょうね。

    必ずしも超人になれなくても、それを目指して生きていくことに価値がある、ということなのでしょうね。
    ここについては同意です。

    ちょっと話は変わりますが。
    ニーチェは、苦悩や苦しみは避けるものではなくそうしたものと共存しながらも人生を楽しめ、と言っている(永劫回帰の考えだとそうなるかな、と考えます。)ように私は感じます。
    この考え方は、仏教の一部にある(と思われる)、現世で徳を積んで来世は良く生まれようであるとか(東南アジアの仏教は現在もそのようです)、倫理的に生きることが第一目的であるかのようなこと(輪廻しなくてもよくなるために)とはまったく性質が違うと感じています。
    ニーチェは仏教から影響を受けたと言われますが(本などにもそう書かれている)、このような部分については否定的だったのかそれとも知らなかったのか、というようなことをふと思いました。

    > 「人間は動物と超人とのあいだにかけ渡された一本の綱である。(ツァラトゥストラ)」

    言葉としてもかっこいいですね。
引用返信/返信 削除キー/
■14687 / inTopicNo.47)  Re[36]: Re Z 第一部 序説 4  “別の岸”
□投稿者/ パニチェ -(2021/07/04(Sun) 08:06:44)
    2021/07/04(Sun) 08:26:00 編集(投稿者)

    おはようございます、みのりさん。

    No14652に返信(みのりさんの記事)

    > まず、該当の文章を引用してみます。
    > ・・・・・
    > 6 わたしは愛する、大いなる軽蔑者たちを。なぜなら、彼らは大いなる尊敬者であり、別の岸に向かう憧憬の矢であるから。
    > ・・・・・『ツァラトゥストラ』上 ちくま学芸文庫 p27より引用

    以下はみのりさんは理解されていると思うので、みのりさんへの返信というか、ロムしているかもしれない人への念のための追記です(ロムしている人なんていないかもしれないが。。。笑)。

    上記の「別の岸」とはツァラトゥストラに続いて出版されたツァラトゥストラの解説や補足も含め書かれた書籍のタイトルにもある「善悪の彼岸」のことですね。

    もう少し詳しく表現すれば「ユダヤ・イスラム・キリスト教的善悪二元論道徳を超克した別の岸」ってことになりますし、超人が立脚する大地です。
    時間で言えば影(プラトンの比喩である洞窟の影)が最も短くなる「おおいなる正午」、超人が誕生する時ってことになります。

    ニーチェによれば、人間は別の岸に渡された一本の不安定な綱の上をいく過渡期の存在、または一本の綱そのものです。

    そこから転落する綱渡り師も、軽やかな前進を躊躇した綱渡り師を飛び越えた道化師も「別の岸」を目指して進むツァラトゥストラの分身であるとともに、超人を目指して没落する尊敬されるべき同類(大いなる尊敬者)です。

    「別の岸」は仏教の彼岸(涅槃)に対置させた場所でしょうし、そこを目指すこと自体が尊く、道元禅師(分別を超克した無分別智、即ち仏智を体得した覚者)によれば涅槃と同義(修証一等:修行と悟りは一如)ってことになるんでしょうね。

    「人間は動物と超人とのあいだにかけ渡された一本の綱である。(ツァラトゥストラ)」

引用返信/返信 削除キー/
■14652 / inTopicNo.48)  Re Z 第一部 序説 4  “大いなる軽蔑”
□投稿者/ みのり -(2021/07/03(Sat) 09:15:21)
    No14642に返信(パニチェさんの記事)
    > 2021/07/02(Fri) 21:01:31 編集(投稿者)
    >
    > こんばんは、みのりさん。
    > 私も一緒に楽しくツァラトゥストラを読み直しています。

    パニチェさん、おはようございます。
    私がもし一人で読み進めたとしたら、解らないところはうやむやなまま進むしかなかったと思います。
    教えていただけてとてもありがたいです。

    > ■No14625に返信(みのりさんの記事)
    >>※ 6の「大いなる軽蔑者たち」というのの意味が解りません。
    >>注釈にも出ていないので、これについてパニチェさん、教えていただけると嬉しいです。

    まず、該当の文章を引用してみます。
    ・・・・・
    6 わたしは愛する、大いなる軽蔑者たちを。なぜなら、彼らは大いなる尊敬者であり、別の岸に向かう憧憬の矢であるから。
    ・・・・・『ツァラトゥストラ』上 ちくま学芸文庫 p27より引用

    > ここは私の下手な説明よりも『ニーチェ事典』を引用しておきますね。
    >
    > 「『ツァラトゥストラ』序説には、ツァラトゥストラが民衆にむかって「超人を教えよう」と呼びかける場面が出てくる。これに続く箇所で、ニーチェは「生命の軽蔑者」「最低の軽蔑すべき者」そして「大いなる軽蔑者」という表現をそこに配している。三者の布置関係は、神の死・おしまいの人間・超人という三者の関係を反映したもので、「大いなる軽蔑」は人間の意義を悟り、超人に身を捧げる時に訪れる。超人を語る者にとっては、もはや神の名のもとに「地上を超えた希望」を説くことはできない。かような希望を抱くのは、霊魂による肉体の軽蔑を最高の思想と説く「生命の軽蔑者」である。神の死とともにこのような「死にぞこない」の去る時がきた。超人は大地を超えたものであるどころか「大地の意義」そのものであり、「大海」である。人間が大地にこの身を捧げ、大海に没するとき「大いなる軽蔑」の時が訪れる。「大いなる軽蔑」とは、人間が小さな幸福・徳・理性・正義・同情に満足して生きる自己の姿そのものを軽蔑し、嫌悪する徹底した自己否定の偉大さを形容したもの。小市民的な日常の幸福に憧れて、もはや自分自身を軽蔑することすらできない「おしまいの人間」がツァラトゥストラにとって「最も軽蔑すべき者」であり、この「大いなる軽蔑をなす者」こそ彼の愛すべき「大いなる尊敬者」である。やせ細った醜い霊魂が肉体を軽蔑する時が去ったのち、「もはや自分自身を軽蔑することができない最も軽蔑すべき人間の時」に溺れるか、「大いなる軽蔑」の時に出会うか──人間はどちらの可能性にも開かれている。(『ニーチェ事典 大いなる軽蔑』よりの引用)」

    引用ありがとうございます。
    とてもわかりやすかったです。

    ・・・・・
    「大いなる軽蔑」とは、人間が小さな幸福・徳・理性・正義・同情に満足して生きる自己の姿そのものを軽蔑し、嫌悪する徹底した自己否定の偉大さを形容したもの。小市民的な日常の幸福に憧れて、もはや自分自身を軽蔑することすらできない「おしまいの人間」がツァラトゥストラにとって「最も軽蔑すべき者」であり、この「大いなる軽蔑をなす者」こそ彼の愛すべき「大いなる尊敬者」である。やせ細った醜い霊魂が肉体を軽蔑する時が去ったのち、「もはや自分自身を軽蔑することができない最も軽蔑すべき人間の時」に溺れるか、「大いなる軽蔑」の時に出会うか──人間はどちらの可能性にも開かれている。
    ・・・・・
    自分に対して「大いなる軽蔑」をなす者こそ、「大いなる尊敬者」である。

    やはり、訳文を読むだけでは理解するのが難しいですね。


    > ニーチェ事典でひとつのニーチェ用語として取り上げられている重要なタームに疑問を抱いたみのりさんの着眼点は素晴らしいと思います。

    ありがとうございます。 「生命を軽蔑」とかであればすぐにわかるのですが、「大いなる軽蔑」ってなんじゃ?と単純に疑問だったのです。
引用返信/返信 削除キー/

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