| 「審判」や「裁き」という漢字の日本語に引きずられるとよくないですね。 キリスト教では、神の赦しをいいます。一方的で無条件の赦しを自由意思で拒否することで、一見審判を受けるような形になるけれど。
私審判にしても公審判にしても、真義は、神の前にすべて明るみに出されるということです。何が明るみに?なんの根拠もなく押しつけた抽象的な戒律や規範を遵守できないとか、宗教のドグマを理解できないとか、聖書という書物を信奉したとか、そういうことではない。 明るみに出されるのは、神への愛と隣人愛に対する真摯さ。思いと言葉と行いにおいてどれだけ真剣だったか。神からみて合格はありえない。当然です、キリストが基準だから。キリストようには愛せない。よって、激しく悔い改めざるをえない。自分に合格は無理だと。それ以上のことは要求されません。神は赦す神です。
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