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■13673 / inTopicNo.97)  私審判と公審判(最後の審判)
  
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/06(Sun) 17:18:56)
    もう一度まとめます。

    私審判とは、ジグゾーパズルの一つのピースの背後にある魂が救われるかというプライベートな局面。
    公審判=最後の審判とは、ものすごく膨大な数になるピースが全体の絵(歴史を貫く神の救済ストーリー)の中で果たす意味が客観的に明らかになるという局面。

    最後の審判で初めてすべてが白黒二元に決定されるかのように、ひたすら恐怖か執着の対象にするのは誤りです。

    神の前にすべてが明るみに出されるという意味では、日々のキリストのリアルプレゼンスに対面するときに既に明るみに出されています。

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■13672 / inTopicNo.98)  審判とは一方的かつ無条件の神の赦し
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/06(Sun) 17:01:21)
    「審判」や「裁き」という漢字の日本語に引きずられるとよくないですね。
    キリスト教では、神の赦しをいいます。一方的で無条件の赦しを自由意思で拒否することで、一見審判を受けるような形になるけれど。

    私審判にしても公審判にしても、真義は、神の前にすべて明るみに出されるということです。何が明るみに?なんの根拠もなく押しつけた抽象的な戒律や規範を遵守できないとか、宗教のドグマを理解できないとか、聖書という書物を信奉したとか、そういうことではない。

    明るみに出されるのは、神への愛と隣人愛に対する真摯さ。思いと言葉と行いにおいてどれだけ真剣だったか。神からみて合格はありえない。当然です、キリストが基準だから。キリストようには愛せない。よって、激しく悔い改めざるをえない。自分に合格は無理だと。それ以上のことは要求されません。神は赦す神です。




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■13663 / inTopicNo.99)  愛満開さんへ
□投稿者/ パニチェ -(2021/06/06(Sun) 13:27:32)
    2021/06/06(Sun) 16:12:05 編集(投稿者)

    No13662に返信(愛満開さんの記事)

    > >愛満開さんは以前にtollさんから勿忘草さんが主張していた二重予定について問われ、以下で「納得できない点があります」と述べています。
    > > 今回、 No13637 では勿忘草さんと全く同じように同じ動画を紹介し、ウィトゲンシュタインに影響され二重予定説ではないが、と断りながら同じ論旨を繰り返しています。
    > > これはどういうことでしょうか?

    > 私は、勿忘草さんのような二重予定説には疑問を持っています。ただ、勿忘草さんが紹介していた例の動画を念のために見たところ意外とその内容が、とても説得力があって、気に入ったので今回、上げさせて貰いました。


    分かりましたとはとても言えませんが。。。
    まぁそういうことにしておきましょう。

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■13662 / inTopicNo.100)  Re[1]: 哲学の雑談 13
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/06(Sun) 13:23:35)
    パニチェさん、こんにちは。
    ご質問についてお答えしたいと思います。

    >愛満開さんは以前にtollさんから勿忘草さんが主張していた二重予定について問われ、以下で「納得できない点があります」と述べています。
    今回、 No13637 では勿忘草さんと全く同じように同じ動画を紹介し、ウィトゲンシュタインに影響され二重予定説ではないが、と断りながら同じ論旨を繰り返しています。
    これはどういうことでしょうか?

    私は、勿忘草さんのような二重予定説には疑問を持っています。ただ、勿忘草さんが紹介していた例の動画を念のために見たところ意外とその内容が、とても説得力があって、気に入ったので今回、上げさせて貰いました。

    死は必ず生きている途中にやって来ます。
    永遠に存在するのは、神だけであり、神以外のものは、すべて被造物で、永遠ではない無常なものです。

    私は、救済とは、人の自由意思と神の予定とのミックスなのであり、どちらかに偏るとは思っていません。

    しかも、イエス様の十字架による肉と血の贖罪によって三位一体の神との相互愛が現世でも亡くなってからの私審判、公審判の「最後の審判」でも続いて行くことからが大切だと思っているところです。
    そして、「最後の審判」は、避けることは、決して出来ないということです。

    この審判での人間の罪状は、神に背いた罪です。

    それを赦すかどうかは、神が裁量で決めるものであり、有罪なら、永遠の炎で焼かれ、罪を赦され無罪放免になれば、神と共に永遠に生きるのです。

    なので、私たちは、この現世にいる生きているうちに、キリストの犠牲を受け入れるか、あるいは、拒むか選択しなければなりません。
    この地上での命が終わる前にそれを選ばなければならないのです。

    死んでしまったら、もう何の選択の余地もありません。
    あとは、ただ、神の御前に立つだけです。
引用返信/返信 削除キー/
■13634 / inTopicNo.101)  哲学の雑談 13
□投稿者/ パニチェ -(2021/06/06(Sun) 07:45:19)
    トピ主:knowing itselfさん

    よろしくお願いします。
引用返信/返信 削除キー/

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