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■14572 / inTopicNo.1)  アリストテレス
  
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/30(Wed) 18:52:57)
    アリストテレスというと時代錯誤、古色蒼然という印象をもつ人も多いかと思う。確かに各種個別科学の領域では、とっくの昔に乗り越えられているでしょう。しかしこの人の本質洞察力はハンパじゃない。分子生物学や進化論も、見方によってはアリストテレスの洞察の内部にある感じだ。

    哲学者も晩年になるとアリストテレス回帰をするという説もある。カント、西田幾多郎、ウィトゲンシュタイン。


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■14571 / inTopicNo.2)  Re[58]: 聖体=キリストの復活した体
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/30(Wed) 18:43:30)
    愛満開さん こんばんは

    > そういうことですね。自分の場合、燭台の上にイエス様の姿をしたライトが明るく輝き光っているイメージを持っていました。
    > そして、その明かりを見て自分自身、心から明るくなる。
    > というような感じでしょうか。


    燭台も光も、自分の身体の内側にあるというのが、パンを食べることの含意だと思います。食べることで内側に入る。

    この身体をもっている自分や隣人の身体の内側でこそキリストという光は輝く。外側に光を仰ぎ見るしかないのなら、自分の肉を食べろということもなかったと思います。


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■14555 / inTopicNo.3)  Re[51]: 聖変化
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/29(Tue) 21:03:06)
    11:33 だれもあかりをともして、それを穴倉の中や枡の下に置くことはしない。むしろはいって来る人たちに、そのあかりが見えるように、燭台の上におく。

    この「あかり」は、イエス様御自身ですが、燭台の上に置かれている、とはどういうことでしょうか。

    「あかり」を灯すなら、入って来る人たちに、そのあかりが見えるように、燭台の上におくとある様に、イエス・キリストは、誰でも見ようとしさえすれば、イエスが神の御子、救い主だと判る様に、神は、していると言うことだと思います。

    現に聖書は、世界一のベストセラーと言われるほど多くの人々が知っていて、特に現代では、紙の本は勿論のこと、ネットでの電子書籍やYouTube等の動画で誰でも聖書を読み福音を聞こうとすれば出来る状況にあります。

    ところが現実には、イエスを自分の救い主として信じる人は、それほど多くはありません。なぜなのでしょうか。

    その原因は、聖書や福音つまり“神の側”にあるのではなく、人の側の目の悪さにあると聖書は言います。

    11:34 あなたの目は、からだのあかりである。あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいが、目がわるければ、からだも暗い。

    「あかり」が燭台の上に置かれる如く、イエス・キリストの御業が公然と行われ福音が様々な手段で世界中に伝えられていても、イエスが誰かを見抜いて信じるには“澄んだ目”、すなわち聖霊による霊的な視力が必要なのだと思います。


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■14552 / inTopicNo.4)  Re[50]: 聖変化
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/29(Tue) 20:31:01)
    続きになります。

    >>>真の神であると同時に真の人間である全キリストの実体に変わった。パンとワインの実体は跡形もなく、ひたすらキリストの実体(感覚的には不可知)だけがそこに現存する。
    >>
    >>人間からみると「聖体を食べる」ことは、神からみると「真の神であると同時に真の人間である全キリストの実体を与え尽くす」こと。これが新しい契約、新約になると思います。いや、これ以外に新約はない。けっして新約聖書という書物が新約ではないですね。
    >
    > キリストの実体がリアルに自分の中に現存するということは、父なる神から子なるキリストに注がれたのとまったく同じ、寸分も変わらず同じ愛が、自分の心と体にも注がれていることを含意します。これ以上のゴールはありません。

    そうですね。
    三位一体の神の愛の光が、イエス様から自分に放たれていることを、聖霊によって自分自身の目で見る。そして、自分の身体全体が明るくなる。
    これこそ、奇蹟、御利益であり、ゴールと言っていいのかなと思います。
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■14551 / inTopicNo.5)  Re[57]: 聖体=キリストの復活した体
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/29(Tue) 20:20:08)
    knowing itselfさんこんばんは

    いつも信仰が深くなる御説明を戴き感謝しております。

    > 聖書の解釈は、キリストの神性(聖書が定義する意味での)と人性を否定するのでない限り、基本的に自由だと思います。自分にいま必要な解釈がどういうものであるかは、自分が一番わかっているのだと思います。

    そういうことですね。自分の場合、燭台の上にイエス様の姿をしたライトが明るく輝き光っているイメージを持っていました。
    そして、その明かりを見て自分自身、心から明るくなる。
    というような感じでしょうか。

    >>「11:33 だれもあかりをともして、それを穴倉の中や枡の下に置くことはしない。むしろはいって来る人たちに、そのあかりが見えるように、燭台の上におく。
    >>
    >>11:34 あなたの目は、からだのあかりである。あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいが、目がわるければ、からだも暗い。
    >>
    >>11:35 だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。
    >>
    >>11:36 もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、ちょうど、あかりが輝いてあなたを照す時のように、全身が明るくなるであろう」。
    >>
    >>(ルカによる福音書 11章33〜36節)
    >>
    >>この燭台の話は、何を仰っているのか。
    >>
    >>これは、民衆の目の前におられるイエス様自身のことで、早く神を信じるように述べているように思います。
    >>
    >>そして、「あなたの目は、からだのあかり」なので、何を見るのかが大切だと。
    >>
    >>ここでは、奇蹟や現世利益ではなく神の御言葉を見るように諭されていると思います。
    >>
    >>神の御言葉を見れば、体全体が明るくなるのだという事でしょうか。
    >>御言葉から離れると心も暗くなるのだと。
    >
    > 聖体の話しが続いていたので関連づけますと、ルカ11・36などは端的に聖体を指し示していると考えます。御言葉を求めよというのは正にその通りですが、御言葉が人間になったそのままの「キリストの体」=聖体を食べたその状態が、ズバリ、「あなたの体全体が明るくて、暗い部分が少しもない」状態にあたる。

    そうなのですね。カトリックの形相と質料から考えると当然の帰結に思えました。

    > 聖書では、満たされていない、何かが欠けている状態がイエスによって示されます。まあ、それが罪であって、旧約と新約の全巻はそれを示す書物といっていい。その欠けを満たすのは、パンとワインから聖変化した「キリストの体」、それだけ、それ以外何もないというのがカトリックの立場です。単純明解ですね。

    その通りだと思います。
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■14546 / inTopicNo.6)  Re[49]: 聖変化
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/29(Tue) 19:02:14)
    No14440に返信(knowing itselfさんの記事)
    > >真の神であると同時に真の人間である全キリストの実体に変わった。パンとワインの実体は跡形もなく、ひたすらキリストの実体(感覚的には不可知)だけがそこに現存する。
    >
    > 人間からみると「聖体を食べる」ことは、神からみると「真の神であると同時に真の人間である全キリストの実体を与え尽くす」こと。これが新しい契約、新約になると思います。いや、これ以外に新約はない。けっして新約聖書という書物が新約ではないですね。

    キリストの実体がリアルに自分の中に現存するということは、父なる神から子なるキリストに注がれたのとまったく同じ、寸分も変わらず同じ愛が、自分の心と体にも注がれていることを含意します。これ以上のゴールはありません。
引用返信/返信 削除キー/
■14545 / inTopicNo.7)  Re[56]: 聖体=キリストの復活した体
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/29(Tue) 18:53:25)
    愛満開さん こんばんは

    聖書の解釈は、キリストの神性(聖書が定義する意味での)と人性を否定するのでない限り、基本的に自由だと思います。自分にいま必要な解釈がどういうものであるかは、自分が一番わかっているのだと思います。

    > 「11:33 だれもあかりをともして、それを穴倉の中や枡の下に置くことはしない。むしろはいって来る人たちに、そのあかりが見えるように、燭台の上におく。
    >
    > 11:34 あなたの目は、からだのあかりである。あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいが、目がわるければ、からだも暗い。
    >
    > 11:35 だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。
    >
    > 11:36 もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、ちょうど、あかりが輝いてあなたを照す時のように、全身が明るくなるであろう」。
    >
    > (ルカによる福音書 11章33〜36節)
    >
    > この燭台の話は、何を仰っているのか。
    >
    > これは、民衆の目の前におられるイエス様自身のことで、早く神を信じるように述べているように思います。
    >
    > そして、「あなたの目は、からだのあかり」なので、何を見るのかが大切だと。
    >
    > ここでは、奇蹟や現世利益ではなく神の御言葉を見るように諭されていると思います。
    >
    > 神の御言葉を見れば、体全体が明るくなるのだという事でしょうか。
    > 御言葉から離れると心も暗くなるのだと。

    聖体の話しが続いていたので関連づけますと、ルカ11・36などは端的に聖体を指し示していると考えます。御言葉を求めよというのは正にその通りですが、御言葉が人間になったそのままの「キリストの体」=聖体を食べたその状態が、ズバリ、「あなたの体全体が明るくて、暗い部分が少しもない」状態にあたる。

    聖書では、満たされていない、何かが欠けている状態がイエスによって示されます。まあ、それが罪であって、旧約と新約の全巻はそれを示す書物といっていい。その欠けを満たすのは、パンとワインから聖変化した「キリストの体」、それだけ、それ以外何もないというのがカトリックの立場です。単純明解ですね。
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■14520 / inTopicNo.8)  Re[55]: 聖体=キリストの復活した体
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/28(Mon) 20:00:24)
    knowing itselfさんこんばんは。

    イエス様は、様々な譬えで御言葉を述べられていますが、以前にも書きましたが
    次の解釈でよろしいでしょうか。よろしくお願いします。

    「11:33 だれもあかりをともして、それを穴倉の中や枡の下に置くことはしない。むしろはいって来る人たちに、そのあかりが見えるように、燭台の上におく。

    11:34 あなたの目は、からだのあかりである。あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいが、目がわるければ、からだも暗い。

    11:35 だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。

    11:36 もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、ちょうど、あかりが輝いてあなたを照す時のように、全身が明るくなるであろう」。

    (ルカによる福音書 11章33〜36節)

    この燭台の話は、何を仰っているのか。

    これは、民衆の目の前におられるイエス様自身のことで、早く神を信じるように述べているように思います。

    そして、「あなたの目は、からだのあかり」なので、何を見るのかが大切だと。

    ここでは、奇蹟や現世利益ではなく神の御言葉を見るように諭されていると思います。

    神の御言葉を見れば、体全体が明るくなるのだという事でしょうか。
    御言葉から離れると心も暗くなるのだと。


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■14514 / inTopicNo.9)  Re[54]: 聖体=キリストの復活した体
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/28(Mon) 18:56:43)
    愛満開さん こんばんは

    > それにしても、カトリックとプロテスタントで、どうしてこうも見解が異なるのでしょうね。

    聖書解釈や神学的な枠組みは、そんなに違わないかとも思いますが、聖体の意味についてはまるで違います。カトリックはこの一点に全重量が乗っているといって過言でなく、聖体を否定するなら、カトリックを解散するくらいでしょう。

    > 自分自身は、プロテスタントなのですが、基本は、アリストテレスとトマスアクィナスの形而上学が好きなので、聖変化のロジックである形相と質料は、とても分かりやすく腑に落ちました。
    > なので、個人的には、カトリック的見解が、断然、正しいと思います。
    > 決して、単なるシンボルとはとても思えません。

    ヨーロッパ的な形而上学がお好きであれば、カトリックとの相性はいいと思います。

    日本にこの部分はほとんど入ってこないというか、切り捨てられているといるというか。茂木健一郎氏も、形而上学はヨーロッパのもっとも美味しい部分で、ヨーロッパ的な天才が開花した土壌だとかいっていました。
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■14481 / inTopicNo.10)  Re[53]: 聖体=キリストの復活した体
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/27(Sun) 15:24:02)
    knowing itselfさんこんにちは。

    それにしても、カトリックとプロテスタントで、どうしてこうも見解が異なるのでしょうね。

    自分自身は、プロテスタントなのですが、基本は、アリストテレスとトマスアクィナスの形而上学が好きなので、聖変化のロジックである形相と質料は、とても分かりやすく腑に落ちました。
    なので、個人的には、カトリック的見解が、断然、正しいと思います。
    決して、単なるシンボルとはとても思えません。

    > 聖体はキリストの体とされますが、最も重要なのは、それがキリストの復活した体ということです。
    >
    > 以前の壊れるべき死すべき人間の体ではなく、復活した神秘体。
    >
    > この意味でも、単なるシンボルに止まることはありません。

    仰る通りだと思います。
    ただ、このことを簡単に理解できず受け入れられないのでプロテスタントのシンボル論は、続いているのかなと思いました。
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■14480 / inTopicNo.11)  聖体=キリストの復活した体
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/27(Sun) 15:12:36)
    聖体はキリストの体とされますが、最も重要なのは、それがキリストの復活した体ということです。

    以前の壊れるべき死すべき人間の体ではなく、復活した神秘体。

    この意味でも、単なるシンボルに止まることはありません。
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■14477 / inTopicNo.12)  Re[51]: 実体、物自体
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/27(Sun) 14:51:01)
    愛満開さん レスありがとうございます


    > 事物は個別実体と必然性に対する偶有性から成り立ち、偶有性は、形相と質料から合成される存在事物(感覚的個物)の在り方で、実体は偶有性を伴ってはじめて存在するということです。
    >
    > 聖変化後のパンとワインは、偶有性の質料である外観や科学的な組成は変わらずとも、実体は概念なので変化したと考える訳ですね。

    相手がアリストテレスとトマスアクィナスなので極めて難解ですね。結論をごく大雑把に言うことしかできませんが、キリスト教の核心中の核心というべき、「キリスト両性論」を
    アリストテレス哲学を自家薬籠中のものにすることで鮮やかに提示したのだと思います。

    神という第一実体に、第二実体である人間本性が受容されたのがキリストのリアルプレゼンスということですね。聖変化とは、パンとワインが全キリストへと実体変化すること。第一実体に第二実体が受容され共存することで、一つの分離不能な実体キリストがそこに現存する。

    カトリックにあって、パンがシンボルどころの話ではないのはこういうことです。パンは外観だけで、その同じところに神が究極のリアリティそのままに現存している、それをパンといっているわけですね。
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