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■14094 / inTopicNo.61)  自己レス
  
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/14(Mon) 19:28:31)
    > 内なる光が明るいか暗いかというのは、基本的には、神の恵みに向かっているか、罪や肉の欲望に向かっているかだと思います。

    自己レスによる注釈。ここは信じるか信じないかという白黒二元より(これはカルトの危険)、はるかに奥が深い。人間の霊性のスペクトルが余すところなくすべて含まれているというべき。仏教瞑想なら、凡夫から仏陀の最終的な悟りの境地まで非常に幅があるのと一緒です。福音では自分が霊性スペクトルのどこにあるかは問題ではなく、光源だけが問題。
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■14091 / inTopicNo.62)  Re[24]: 聖書を読む目的
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/14(Mon) 19:07:24)
    >「だれもあかりをともして、それを穴倉の中や枡の下に置くことはしない。むしろはいって来る人たちに、そのあかりが見えるように、燭台の上におく。
    >あなたの目は、からだのあかりである。あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいが、目がわるければ、からだも暗い。
    >だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。
    >もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、ちょうど、あかりが輝いてあなたを照す時のように、全身が明るくなるであろう」
    >(ルカ福音書11章33節35節から36節)

    ここはマタイ福音書25のタラントンのたとえの箇所とも響きあうように思います。タラントンのたとえは、利子の推奨や世俗的才能の活用を直接説いているはずもなく、キリスト再臨の前の行動準則を示しているとしか読めません。その行動準則とは、福音のリリース、拡散以外のものではない。こういうときは、隠しておくことやしみったれて自分だけのために取っておくことを酷く嫌う。灯りは燭台の上におけ、隠しておくな。





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■14090 / inTopicNo.63)  Re[23]: 聖書を読む目的
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/14(Mon) 18:53:35)
    愛満開さん こんばんは

    > >>「だれもあかりをともして、それを穴倉の中や枡の下に置くことはしない。むしろはいって来る人たちに、そのあかりが見えるように、燭台の上におく。
    > >>あなたの目は、からだのあかりである。あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいが、目がわるければ、からだも暗い。
    > >>だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。
    > >>もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、ちょうど、あかりが輝いてあなたを照す時のように、全身が明るくなるであろう」
    > >>(ルカ福音書11章33節35節から36節)

    「光」というのは、当然のことながら、ヨハネ福音書1章1ー5を受けているはずです。

    >>まず、並行箇所であるマタイ五15 マタイ六22-23などを参考にして統一的に読むのがいいと思います。
    >
    > そうですね。
    > ただ、マタイとルカでは、その言われている背景というかコンテキスト、文脈が違うように思えます。
    >
    > マタイでは、神と富とに兼ね仕えることはできない点を述べていて、ルカでは、しるしや奇蹟あるいは御利益と神の御言葉との違いを述べているように感じますが、いかがでしょうか。

    マタイでもしるしは問題にされてましたからね。しるしを求めることが悪いのでなく、イエスがしるしだということがわからなかったことを問題にしているわけですね。イエスの生涯それ自体がしるしで、そのことの決定的な証しが十字架と復活ということだと思います。

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■14066 / inTopicNo.64)  Re[22]: 聖書を読む目的
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/13(Sun) 17:03:19)
    knowing itselfさんこんばんは。
    レスありがとうございます。

    >>「だれもあかりをともして、それを穴倉の中や枡の下に置くことはしない。むしろはいって来る人たちに、そのあかりが見えるように、燭台の上におく。
    >>あなたの目は、からだのあかりである。あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいが、目がわるければ、からだも暗い。
    >>だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。
    >>もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、ちょうど、あかりが輝いてあなたを照す時のように、全身が明るくなるであろう」
    >>(ルカ福音書11章33節35節から36節)
    >>
    >>これは、どのような意味、解釈になるのでしょうか。
    >
    > まず、並行箇所であるマタイ五15 マタイ六22-23などを参考にして統一的に読むのがいいと思います。

    そうですね。
    ただ、マタイとルカでは、その言われている背景というかコンテキスト、文脈が違うように思えます。

    マタイでは、神と富とに兼ね仕えることはできない点を述べていて、ルカでは、しるしや奇蹟あるいは御利益と神の御言葉との違いを述べているように感じますが、いかがでしょうか。

    > 内なる光が明るいか暗いかというのは、基本的には、神の恵みに向かっているか、罪や肉の欲望に向かっているかだと思います。後者なら暗い。明るいか暗いかは、体に反映されるのではっきりかわかる。ごまかしがきかない。霊と体の二元性を主張するグノーシスにはならないという意味もあると思います。

    仰る通りだと思います。

    > 福音を伝えるには、内なる光が体全体から放射されるくらいでないと難しいという意味もあるでしょう。悔い改めて神に意識が向かえば、隠されていない、周りに伝播する。

    とても興味深い表現だと思いました。
    このくらいにならないと伝導は難しいのかなと思ったりしました。

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■14065 / inTopicNo.65)  Re[21]: 聖書を読む目的
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/13(Sun) 16:03:50)
    愛満開さんへ

    > 「だれもあかりをともして、それを穴倉の中や枡の下に置くことはしない。むしろはいって来る人たちに、そのあかりが見えるように、燭台の上におく。
    > あなたの目は、からだのあかりである。あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいが、目がわるければ、からだも暗い。
    > だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。
    > もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、ちょうど、あかりが輝いてあなたを照す時のように、全身が明るくなるであろう」
    > (ルカ福音書11章33節35節から36節)
    >
    > これは、どのような意味、解釈になるのでしょうか。

    まず、並行箇所であるマタイ五15 マタイ六22-23などを参考にして統一的に読むのがいいと思います。

    内なる光が明るいか暗いかというのは、基本的には、神の恵みに向かっているか、罪や肉の欲望に向かっているかだと思います。後者なら暗い。明るいか暗いかは、体に反映されるのではっきりかわかる。ごまかしがきかない。霊と体の二元性を主張するグノーシスにはならないという意味もあると思います。

    福音を伝えるには、内なる光が体全体から放射されるくらいでないと難しいという意味もあるでしょう。悔い改めて神に意識が向かえば、隠されていない、周りに伝播する。





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■14064 / inTopicNo.66)  Re[22]: 目は、からだのあかりである
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/13(Sun) 14:35:35)
    「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。」(ヨハネによる福音書6章63節)

    この言葉は、ヨハネによる福音書6章53節からの言葉と対になっています。
    https://www.youtube.com/watch?v=iRUj_1x6ARM

    「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。
    54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。
    55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。
    56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。
    57 生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。」

    やはり、神の御言葉が聖霊であり、聖霊によって生かされることが永遠の命かなと思います。

引用返信/返信 削除キー/
■14058 / inTopicNo.67)  あなたの目は、からだのあかりである
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/13(Sun) 10:06:33)
    これは、その前に祈祷により悪霊を単に追い出してもっと悪くなる事があるので、神の言葉の大切さを述べているのかなと思います。それから、

    「イエス様のお母さんは何て恵まれていているか」なる声に対して

    「いや、めぐまれているのは、むしろ、神の言を聞いてそれを守る人たちである」

    という言葉があり、その後に、

    「この時代は邪悪な時代である。それはしるしを求めるが、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。」

    という系譜から考えると、神に対して奇蹟やしるし、いわゆる「御利益」を求めるのではなく、聖書にある「神の言葉」を求め、その愛の言葉の力で心身とも明るくすることの必要性を述べたのかなと思います。

    ここから

    「だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。
    もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、
    ちょうど、あかりが輝いてあなたを照す時のように、全身が明るくなるであろう」

    へと繋がっていくのかなと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■14057 / inTopicNo.68)  Re[20]: 聖書を読む目的
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/13(Sun) 09:43:50)
    knowing itselfさんおはようございます。

    > キリストの「生演奏」とは、聖書全巻の最初の一章で響いていた音楽、聖書以前に響いていた音楽、最後の審判後に響いている音楽、それらとまったく同じ音楽だということです。三位一体の音楽だから当然の帰結ですね。
    >
    > 永劫回帰という考え方がありますが、ある意味ではそれに通じるところもあるかもしれません。

    ここで、ニーチェにも通じると言う事でしょうか。

    それから、聖書を読んでいて疑問点がありました。

    「だれもあかりをともして、それを穴倉の中や枡の下に置くことはしない。むしろはいって来る人たちに、そのあかりが見えるように、燭台の上におく。
    あなたの目は、からだのあかりである。あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいが、目がわるければ、からだも暗い。
    だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。
    もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、ちょうど、あかりが輝いてあなたを照す時のように、全身が明るくなるであろう」
    (ルカ福音書11章33節35節から36節)

    これは、どのような意味、解釈になるのでしょうか。
引用返信/返信 削除キー/
■14029 / inTopicNo.69)  Re[19]: 聖書を読む目的
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/12(Sat) 16:11:34)
    キリストの「生演奏」とは、聖書全巻の最初の一章で響いていた音楽、聖書以前に響いていた音楽、最後の審判後に響いている音楽、それらとまったく同じ音楽だということです。三位一体の音楽だから当然の帰結ですね。

    永劫回帰という考え方がありますが、ある意味ではそれに通じるところもあるかもしれません。
引用返信/返信 削除キー/
■14027 / inTopicNo.70)  Re[18]: 聖書を読む目的
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/12(Sat) 15:44:12)
    愛満開さん レスありがとうございます

    >>聖書は重要だとしても、聖書編纂以前に鳴っていた生演奏そのものの方がより本質的で、その生演奏がキリストの血と体なのだと思います。最後の晩餐で鳴っていたのと寸分も変わらない生演奏。

    > 主イエスは言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
    > (ヨハネの福音書14:6 )

    ポイントは、イエスの教えが道であり、真理であり、いのちであるとは言っていないことだと思います。聖書の教えが道であり、真理であり、いのちであるとも言っていません。聖書の教えを守るようにでも、聖書の内容を信じろでもない。端的に、ストレートに、喩えではなく、わたしが道であり、真理であり、いのちである、と。

    これが、「生演奏」の中に直接参加せよという先のカキコに対応すると考えています。「生演奏」とはもちろん、リアルのキリストの体です。


    > この狭き門は、イエス様を通した救いの門なのだと思うのですが如何でしょうか。
    >
    >
引用返信/返信 削除キー/
■14024 / inTopicNo.71)  Re[17]: 聖書を読む目的
□投稿者/ 愛満開 -(2021/06/12(Sat) 13:15:24)
    knowing itselfさんお疲れ様です。

    > 聖書は重要だとしても、聖書編纂以前に鳴っていた生演奏そのものの方がより本質的で、その生演奏がキリストの血と体なのだと思います。最後の晩餐で鳴っていたのと寸分も変わらない生演奏。

    何かとても立体的な内容かなと思いました。

    「努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。」(ルカ13章22−30節)

    主イエスには、何パーセントの人が救われるのかといったような単なる情報にはまったく関心を示されませんでした。

    そして、多くの人が救われていないと、主は言われたのです。

    それでも、常に、一人でも多くの人が神を信じて罪の裁きと罪の支配から解放されてほしいと言う願いをはっきりと持っておられたのだと思います。

    主イエスは言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
    (ヨハネの福音書14:6 )

    この狭き門は、イエス様を通した救いの門なのだと思うのですが如何でしょうか。


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■14003 / inTopicNo.72)  Re[17]: 聖書を読む目的
□投稿者/ knowing itself -(2021/06/12(Sat) 06:14:53)
    No13993に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 聖書は重要だとしても、聖書編纂以前に鳴っていた生演奏そのものの方がより本質的で、その生演奏がキリストの血と体なのだと思います。最後の晩餐で鳴っていたのと寸分も変わらない生演奏。

    ペテロなどの弟子は新約聖書を読んでいませんね。聖母マリアとパウロは、福音書を読んでいません。生演奏は聴いています。

    生演奏を受動的に聴くというより、どんなに下手くそでも生演奏に参加することが救いになると思います。ここは、プロテスタントとカトリックで違いはないかな。カトリックはいうまでもなく、ミサにおけるキリストのリアルプレゼンスが生演奏の再現になる。

    あと、誤解があるようなのは、最後の審判で初めて生演奏を聴けるかのように、キリスト教を批判する人がいまだに絶えない。誰が、どの本が、どこのキリスト教が、最後の審判にそんな意味をもたせているのでしょう?

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