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■11875 / inTopicNo.13)  Re[11]: 意識の綜合とその分節
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/04/14(Wed) 20:35:57)
    わたしの分節の意味を見えるようしたところで、
    No10927に戻ります。

    現象学のね。
    前にどこかで書いたと思うけど、もう一度ここに書き写しておくことにします。

    「現象学事典」から。短いのでぜんぶ。

    受動的総合/能動的総合 [(独)passive Synthesis/aktive Synthesis]
    〔フッサールにおいて総合は意識の原形式であり、その特徴は「流れ去る多様の統一」と規定される。サイコロという統一的対象の知覚は、どの側面から、どの距離で、どの光のもとで、見るか(さらには、どのように触れるかなど)に応じて変化する多様な現れ方を通して、その総合として成立する。この知覚したサイコロをのちに想起するときにも、かつて知覚したサイコロと同一のサイコロの想起であるという同一性の意識は総合によってつくり出される。こうした個別的意識体験の総合が可能になのは、もともと意識生の全体が総合的に統一化されているからである。この普遍的総合の根本形式はすべてを包括する内的時間意識である。「能動的/受動的」という発生的現象学の基本概念は、以前から使用されていた「顕在的/潜在的」「主題/背景(地平)」などの対概念を力動化したものである。自我はいま見えているサイコロの面前を主題として顕在的に意識していると同時に、裏面を背景として潜在的に意識している。この区別の根拠は自我の関わり方の相違にある。「能動的/受動的」の区別も同様であり、能動的総合はとくに自我的な作用であるに対して、受動的総合は自我の関与なしにおのずから生じる。その点で、無意識の働きにも比せられる。
    能動的総合はすべて受動的総合を土台にして行われる。受動的総合の基底をなすのは内的時間意識による時間構成であり、キネステーゼによる空間構成とともに総合の形式条件を形成する。実質的条件をなすのは連合法則に従う布置形成である。布置形成によって図と地が分化し、地から浮き上がった図が自我を触発する。自我は図に注目して把握的に対向する。それが触発の受容であり、能動性の最低段階をなす。受動的総合と能動的総合の境界線はここに引かれる。把握する、解明する、関係づけるなどの低次の能動的総合を超えた、数える、述定するなどの高次の能動的総合においては、数や述定的事態がなどのイデア的対象が産出される。能動的総合は作用としてはまもなく過ぎ去るが、その成果は自我極に沈殿し、習慣として妥当しつづける。習慣は第二の受動性として、より高度の能動的総合の土台となる。したがって、すべての能動性に先立つ受動性と能動性に由来する受動性が区別される。〕

    わたし、こういう見方、受け入れてる。

    わたしのは後で。




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■11972 / inTopicNo.14)  Re[12]: 意識の綜合とその分節
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/04/17(Sat) 18:59:22)
    ゲシュタルトや分節の意味がわたしに見えてきたところで、ここからのわたしの物語りは、

    No11875の現象学事典からの書き写し(受動的総合/能動的総合)を(fd-1)ってしとしときます。
    しばらく(fd-1)について見ていっていこうと思ってま〜す。
    わたしの(現象学のと相互主観的にわたしに見えてきているのもの)ね。

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■11974 / inTopicNo.15)  Re[13]: 意識の綜合とその分節
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/04/17(Sat) 19:06:38)
    わたしにおいて、「人」というのは分類されたもの。そして「人」をゲシュタルトとして見ます。
    「意識(精神)」というのも人において分節されたもの。そしてこれもゲシュタルトとして見る。
    〈統一的・全体的構造をもつ移調可能な一つの意識〉っていうことになるのかな。

    フッサールは、〔総合を意識の原形式〕とし、〔総合〕を〔流れ去る多様の統一〕としている。
    たしかに、〔流れ去る多様の統一〕のようにわたしには思えてる。
    たとえば、わたしがいまこうして文を打ち込んでいたり、ただ座って窓の外を眺めているときでさえ、そこには〔流れ去る多様〕があって、それらが〔統一〕されてるんだと思う。でもこういうのっていちいち意識してない。だから〔無意識の働きにも比せられる〕、になるんだと思う。

    そして、フッサールは意識の「総合」を、まず大きく二つに分節していて、〔受動的総合〕と〔能動的総合〕。

    ゲシュタルトとして見る、ということで重要なのは、ただ分ける(分節)するだけに留まるんじゃなくて、その分節されたものが相互にどのように関係していて、統一的・全体的な一つのものとして機能しているのかを見ることでなんで、ようするにその分節したものの“相互関係性自身”を見ることによって全体を見てゆこうとしてるんじゃないかっわたし見てる。

    No11697に書いたように、メルロは【相互に作用しあっている出来事】とか【神経系には全体的な出来事しかない】などと言っている。

    (fd-1)では、「内的時間意識」「キネステーゼ」「自我」「自我極」「地と図」「分化」、などの用語が出てきている。
    これらについて見ていって見ることにしま〜す。

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■12013 / inTopicNo.16)  Re[14]: 受動的総合
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/04/18(Sun) 19:28:39)
    「受動的総合」っていうの、

    No11345、(FD-2)の、----(a)
    【匿名的の行われ】ている【隠れた働き】【根源的な働き】
    だったり、

    No11393、(FD-4)の、----(b)
    【原初的領分に属する統覚】だNo114
    No11411、(MP-4)の、----(c)
    【世界との“この”素朴な触れあい】だったり、

    No11426、(MP-5)の、----(d)
    【森林や草原や河川がどのようなものであるかをわれわれに最初に教えた風景】だったり、

    No11467、(MP-7)の、----(e)
    【非反省的な生】だったり、

    するところだとわたし見てる。

    そして、(fd-1)では、〔能動的総合はすべて受動的総合を土台にして行われる〕ってしてる。

    もし、哲学っていうのが「根源」とか「起源」を探究することを欲することなのだとしたら、そして、現象学が意識について、そのようなものを問題としているとしてるんだとしたら、哲学することにとっても素直なんじゃないかって、わたし思ってる。

    ついでに、「能動的総合」を上記のなかから見て見ると、
    (a)の【数、述定的な事態、価値、目的、作品】、【実証的な諸学】(コレたぶん科学のことね)、【高次の素朴性であり、賢明な理論的技術】だったり、
    (b)【言葉が制定されている世界】【出来合いの意義が用意されている】だったり、
    (c)【より高次の発生のおかげで、この意味のうえに新しい意味を積み重ねるような統覚】だったり、
    (あ、カントの『純粋理性批判』はこの綜合を対象としているんだと思う。たぶん)
    (d)【智私学が抽象的、記号的、依存的である】だったり、
    (e)【世人や科学者たちが知っていると信ずるもの】だったり、
    するところかな?

    能動的総合の世界に関してはカントや科学者におまませするとして、わたしのここでの物語りは受動的総合の世界を現象学ので見てゆくことにしま〜す。


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■12057 / inTopicNo.17)  Re[15]: 分節されたものの呼び名
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/04/20(Tue) 19:52:49)
    あ、ちょっと、カント、思い出した。受動的総合の世界に入る前に。

    現象学では、意識の「総合」を大きく二つに分節したものへの名称が「受動的総合」と「能動的総合」。

    ここでカントのを見て見ます。カントのについてpipitさまから教わったのは、

    『導入のためのこの序論としての役割においては、人間の認識には二つの〈幹〉があることを指摘しておくだけで十分であろう。この二つの〈幹〉とは感性と知性[=悟性]であり、これらはおそらく、まだわたしたちには知られていない一つの共通の〈根〉から生まれてきたものである。感性によって、わたしたちに対象が与えられ、知性によってこの対象が思考されるのである。』中山元先生訳『純粋理性批判1』p63----(K)

    でした。

    なんかこういうの、現象学の意識の分節の仕方と似てる感じがする。

    カントの場合、『人間の認識』ってあるけど、わたしのばあい「認識」を〈真正な判断〉(狭義の意味でね)(No11053)ってしてるから、「認識」ってしないで、「意識」として、人間の意識をまず大きく「感性」と「知性」の二つに分けている、ってわたし見た。
    ただ、カントの場合、意識をゲシュタルトとして見てるかどうかはわかんない。わたし、ここんところが重要だと思ってるだけど。

    あと、『まだわたしたちには知られていない一つの共通の〈根〉から生まれてきたものである』っていうところは括弧に入れとく(エポケー)ね。

    かなりわたしの入ってきてるけど書いとく。
    あ、これもちょっとあるから後で。




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■12059 / inTopicNo.18)  Re[16]: わたしの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/04/20(Tue) 20:08:41)
    んでね、わたしの。

    「受動的総合」を「感性」、「能動的総合」を「知性」ってして見てる。

    そして、「感性」は、〈感覚・知覚〉、「知性」は〈思・考〉、ってして見る。

    あと、「統覚」なんだけど、
    No11393で見たように、フッサールによると、統覚は二つの統覚――「低次の」と「高次の」――に分節してる。わたし前者を「統覚Apperzeption」、後者を「統握Auffassung」という語で区別することにした(あ、これ、あくまでもわたしの勝手なやつね)。

    で、簡単にまとめてみると、

    受動的総合 = 感性 ←感覚・知覚・統覚
    能動的総合 = 知性 ←思・考・統握

    ってなる。

    ここにわたし「知性」ってしたけど、狭義の意味での「知性」ね。わたし「知性」って受動的・能動的総合の両方を「知性」と見ることもできる気がしてる。狭義の意味での「知性」っていうのは、〈考える作用〉とか〈真正な判断をもたらすとする認識作用〉、という意味でのね。おそらく(K)に書いてあるカントの『知性〔=悟性〕』っていうのはこういう意味でのだとわたし見てる。メルポンは、デカルトのやカントのことを「主知主義」って呼んでる。おそらくわたしが見ている狭義の意味での知性として「主知主義」ってしてるんだとわたし見てるから、ひとまず「知性」ってしておく。

    No112057の(K)に、『感性によってわたしたちに対象が与えられ、知性によってこの対象が思考されるのである。』ってあるけど、これって、(fd-1)の〔能動的総合はすべて受動的総合を土台にして行われる。〕と重なる気がする。

    いまのところこんなの感じのが、わたしの。

    意識の分節の仕方と分節されたものの意味が、フッサールのと、カントのと、わたしに見えているこのようなものとは、まったく同じものである――すなわち「理解できている」っていう判断――あるいは「一致」――とは必ずしも言い切れない。でもそういうのが一般的なじゃないかしら? 
    〈それ〉は他者と自己とによって相互主観的に生み出されているもの、っていうこと。だとしてもこれは私にうちの出来事であることは確かだと思う。

    あと、「直観」っていうの、どうしよっかな〜、って考えてるんだけど、後で。

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■12062 / inTopicNo.19)  段違い非平行棒?
□投稿者/ 田秋 -(2021/04/20(Tue) 22:08:24)
    あっくまちゃん、こんばんは。

    神さまの存在(実在)が大前提(公理のような最も基本的な仮定)の立場と、自分が神さまを実体験しないとその存在は疑わしいという立場とでは、基本的に話はかみ合わないと思いますよ。尤もそのことは承知の上で色々ツッコミを入れてるんでしょうね^^

    ボクは後者の立場です。でも神さまには気安く人前に出ちゃいけない訳があるんでしょうね。


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■12066 / inTopicNo.20)  Re[18]: 神さま
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/04/21(Wed) 18:55:03)
    田秋さん、こんちは〜

    >基本的に話はかみ合わないと思いますよ<
    は〜い。
    >尤もそのことは承知の上で色々ツッコミを入れてるんでしょうね<
    は〜い。
    でもね、ツッコミっていうより、引き出し、っていう感じかな〜。

    一神教と多神教っていうのがあっって、わたし前者の神を「神」ってして、後者の神を「神さま」ってして区別してる。「神さま」って日本的で、いっぱい神がいる、っていうことね。

    「神」についてのわたしの立場はスピノザ的なのかな。
    もっともわたしの言う神は「神さま」だし、彼の言う神は「神」みたいだから、そこらへんは違うけどね。

    タケノコやツツジは神さまの仕業ね。
    だから田秋さん、神さまのをいっぱい実体験してるのね。
    な〜んか豊っぽい。

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■12117 / inTopicNo.21)  Re[19]: 神さま
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/04/23(Fri) 20:33:09)
    フィロソフィアの相手を「神さま」ってするの、なんかおもしろそう。

    『エチカ』の、第一部は、神について、で、定義ってあって、

    【1 自己原因とは、その本質が存在を含むもの、あるいはその本性が存在するとしか考えられえないもの、と解する。】

    なのよ〜。

    え〜!? なんで〜? 神について語ろうとしてるのよね〜、スピノザさん!
    何で「自己原因」を最初にとりあげるの〜? って。

    なんか、ここのテーマに絡まってくる予感なんだけど、これはだいぶ後になるかもしれなし、消滅するかもしれない。

    話の途中になってるところを続けま〜す。


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■12118 / inTopicNo.22)  Re[20]: 内的時間意識
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/04/23(Fri) 20:38:26)
    わたしのお話しのつづきは、
    No11875の(fd-1)についてね。
    《普遍的総合の根本形式はすべてを包括する内的時間意識である》って書いてある。《普遍的》っていうのはエポケーしといて、《内的時間意識》についてね。

    (FD)の訳注より、
    《Retention:「未来予持(Protention)」と対になって使われる。それぞれ、re-(後ろに)とpro-(前に)に、In-tention(志向)のtention(緊張、張られていること)をつけた造語。過去を主題的に振り返る「想起」、未来を主題的に見通す「予期」に対して、過去把持と未来予持は、時間的幅を持った現在の地平をなす、「たったいま」過ぎ去ったものを「まだ」保持する、あるいは、「いますぐに」来らんとするものを「もう」先取りする、非主題的な働きを指している。その意味で、原語には「過去」や「未来」という語は含まれていないことに注意。》

    「現象学事典」より、
    過去把持/未来予持〔把持/予持〕[(独)Retention/Protention (仏)retention/protention]
    《過去把持〔把持〕と未来予持〔予持〕とはともにフッサールの現象学において、もっとも根源的な意識層である時間意識の働きを指す用語であり、彼の初期時間論において当初〈第一次想起〉(primare Erinnerung=新鮮な想起=frische Erinnerung)、〈第一次予期〉(primare Erwartung)と呼ばれていたものが、それぞれ 過去把持〔把持〕、未来予持〔予持〕言い換えられ多用されるようになったという経緯を持つ。本項では、以下、慣用にしたがって 過去把持、未来予持の訳語を用いるが、言語には過去あるいは未来を表す語は入っていないことに注意すべきである。
     〈過去把持〉とは、あらゆる存在の源泉である〈原印象〉(Urimpression)において産出されて〈今〉として意識されたものを、次の瞬間、なおも、〈たった今過ぎ去った〉ものとして己の内に保持する意識の働きであり、原印象という核に対する「彗星の尾」にたとえられる。
    〈未来予持〉とは、〈まさに到来しつつあるもの〉を待ち受ける意識の働きである。
    意識の現在は、これら原印象を中核とする〈過去把持―原印象―未来予持〉による時間意識の総合の働きによって構成され、それによって瞬間的な点的〈今〉ではなく時間的幅を持った〈今〉が意識され、意識の現在に〈以前〉と〈以後〉の地平が形成されるのである。ところで、未来予持は待ち受けていたものが原印象において産出されれば次々に充実されていくが、他方、原印象は別の新たな原印象が絶えず出現してくることによって過去把持へ、さらに過去把持の過去把持へと変様して連続体を成し、次第に消失していく。しかもフッサールによれば、未来予持は裏返しにされた過去把持であり、やはり連続体を成すとされているから、かくして意識は形式上、そのつどの原印象を境にして未来予持と過去保持とが連続体を形成し、その全体が原印象の絶えざる出現とともに一つの〈流れ〉を形成している、と考えられるのである。
     初期時間論においては、時間の起源を想像の領域に求めたブレンターノの根源的連合説や、時間客観の瞬間的な知覚作用を主張したマイノングとの批判的対決を通して、フッサールが〈時間的広がりを持った知覚〉およびそれの〈時間的幅を持った今〉という思想を形成した際に、とりわけ過去把持(第一次想起)の概念が中心的役割を演じた。そこでは過去把持(第一次想起)は時間的客観の十全的知覚を構成する本来的契機として捉えられ、これが〈第二次想起〉としての〈再想起〉に対置され、際立たせられている。つまり再想起(第二次想起)の一構造契機であり、現在化(Gegenwartgung)に属する、とされるのである。
     中期以降のフッサールにおいては、時間意識が受動性の最深の次元に位置づけられていくのに応じて、過去把持と未来予持は、自我の関与なしに受動的かつ連続的に機能する総合の働きとして捉えられるようになる。そしてこのような最も普遍的で根源的な内的時間意識の総合にもとづきつつ、さまざまな段階の意識の総合が発生的に解明されたのである。》

    〈今〉、生の意識の受動(感性)的領域ではこのようなことが起こっている、って、ひとまずしとく。

    長くなちゃったので、これについてはまた後で見てゆくことにしま〜す。

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■12138 / inTopicNo.23)  Re[21]: キネステーゼ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/04/24(Sat) 18:27:14)
    (fd-1)に関してのつづきね。

    《キネステーゼ》っていう用語につて。
    「現象学事典」からのを書き写してみま〜す。

    キネステーゼ[〔独〕Kinasthese]
    《「キネステーゼ」は、ギリシャ語のキネーシス〔運動〕(κίνησις)とアイステーシス〔感覚〕(αΐσθησις)とから合成された述語で、それを直訳してドイツ語でBewegungsempfindungと表示されることもある。フッサールでは、1907年のいわゆる「物」講義(『物と空間』)や『受動的綜合の分析』、『危機』などで論じられているもので、通常その言葉から想像されるような「運動の感覚」を意味するのではなくて、むしろ運動と感覚との不可分な結合、ないしは運動としての知覚を意味する。‥‥
    感覚と運動の不可分の統一態が「キネステーゼ」と呼ばれるものである。そしてその上で次のように言われる。「連続的な知覚においては、一つの物が、直接的な現前という端的な存在確信のうちで私に対して立ち現われている。すなわち、私が、自分の運動感覚を働かせながら、ともに経過するさまざまの呈示を、ともに帰属しあうものとして体験するとき、多様な仕方で自分を呈示する一つの物が顕在的に現前しているという意識が維持される。この物のさまざまな呈示は変移するキネステーゼに帰属している…。顕在的なキネステーゼはキネステーゼ的能力の体系のうちにあるのであるが、この体系には一律調和的に帰属しあう可能的諸契機の体系が相関しているのである。そしてこれが現前している事物をめぐるあらゆる存在確信の志向的背景をなす。」と。
    ここでキネステーゼ的能力と言われるのは、身体そのもののもつ構成機能のことである。身体は一方で、その各部分肢が感覚の器官として機能しているわけであるが、他方でそれはいるも「ここ」という位置においてある現出空間の絶対的原点であり、「方向づけの零点」でもある。そしてその身体の各部分肢に局所づけられた感覚が、その身体の変移する位置と連動しながら、物の現出過程を織りなしていく。言いかえると、物の現出の連続的連関と、キネステーゼ的に機能する身体性とが一つに結びついて、物の現出を「キネステーゼ的に動機づけている」わけである。この過程は一方で、主体での方向で、私がいまここにいるという「全体的ここ」の意識として「私は動く」「私はなす」という自己意識を発生させるとともに、他方では、対象への方向で、その相関者としてキネステーゼ的な領野を「自然の基底」として構成してゆく。こうした身体の根源的機能としてのキネステーゼ的意識は、あらゆる物の経験において、その存在確信の基盤として、いつもすでに世界意識と一体となって働きだしているものである。このようにして物の構成につねに居合わせている、それ自身は主題化されることのないこの構成する身体は、「みずからを呈示することなく呈示を可能にする」ものであって、その意味でまさに「根元的身体」として、われわれの経験の「大地」をなすものであると言ってよい。
    なみに、こうしたフッサールのキネステーゼ論を背景に、さまざまの知覚障害・運動障害の事例を引きながら、感受性(sensibillite)と運動性(motricte)との根源的な連繋関係ならびに「方向づけられた空間」を分析し、そこから身体を世界に対する実践的能力として捉え返したのは、『知覚の現象学』第1部のメルロ=ポンティである。》

    これについてもまた後で見てゆくことにしま〜す。




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■12165 / inTopicNo.24)  Re[22]: 神さま
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/04/25(Sun) 17:04:09)
    今日、本2冊買ってきちゃった。

    『ギリシア神話』串田孫一んさんのと、『24の「神話」からよむ宗教』中村圭志さんの。
    わたし「神話」に触発されて、っていう感じかな。

    デュオニソスとかアポロンって、ギリシア神話の神の名前よね。

    昔からいたるところに「神話」っていうのあったみたい。
    いまでも神仏を信仰している人いるみたいだし。
    あ、勘違いしないでね。わたし「信仰」って、真偽善悪を判断するっていうこととは違う次元の物語りって思ってる。だから、どのような神を信仰するかはお好きにね、っていうこと。

    わたしが知りたいと思ってるのはね、
    「どうして人間は〈神〉のようなものを創造したのかしら?」
    っていうこと。
    もしなんか見つかったら、後で物語りさせてもらうね。

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