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■No36729に返信(akaimiさんの記事) > === > 記憶しておくがよい。君を侮辱するのは、君のことを口汚く罵る者や君を殴る者などではなく、彼らが君を侮辱していると見なす、君の考え方なのである。 > 誰かが君を怒らせるならば、その時は君自身の判断こそが君を怒らせたのだと知るがよい。 > だからこそ、まず何よりも心像によって拉致されないように努めよ。 > というのも、一度でよいから自分で考えてみる時間と余裕とを得るならば、君自身に打ち勝つのは簡単なことだろうから。 > > (『提要』20) > === > 『奴隷の哲学者エピクテトス 人生の授業 この生きづらい世の中で「よく生きる」ために』荻野弘之 著 p93より引用 > > 同著p94に、著者荻野さんの文章で、 > === > エピクテトスは、こうした感情の手前には「判断(ヒュポレープシス)」があるという。 > === > とあります。 > > > たしかに、何かいいことや嬉しい出来事があった日に逆に少し嫌な出来事が起きてもさほど苦痛とは感じなくって、 > 体調や気分が優れない日に嫌な出来事が起きると、それは例えるなら泣きっ面に蜂みたいに堪えるものになる。 > 同じことを言われても、相手との関係性や状況次第で不快だったりそうでもなく感じたりの違いもある。 > > 物事に対する自分の中での瞬時の判断によって受け止め方は決まってくる。 > > そこで。 > >自分で考えてみる時間と余裕とを得るならば、君自身に打ち勝つのは簡単なことだろうから。< > > せっかちに判断をしてしまわず、時間と余裕をもって判断をする、一時の感情に流されない大切さをエピクテトスは説いているのだと思う。 > > > 物事をどう解釈するか、その解釈・価値判断次第によって、ある物に対しての観方や考え方は変化するし、それは自分次第なのだということについての言葉はいくつかあるようです。 > >
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>>
■37256
/ inTopicNo.1)
Re[55]: 虎に翼
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□投稿者/ akaimi
-(2024/05/06(Mon) 12:49:34)
2024/05/06(Mon) 12:56:48 編集(投稿者)
虎に翼という言葉、おそらく出典は古代中国の思想家の誰かの言葉で、「鬼に金棒」的な意味合いなんだろうな、って想像してて。
少し調べてみたところ韓非子からなのだそうです。
https://getnews.jp/archives/3293933
「虎のために翼をつくることなかれ」とあるそうで、もともとは愚かなものに権力を持たせることを諫める言葉だったのだそうです。
現代ではやはり、強さに強さを加える「鬼に金棒」の意味で使われているそうです。
現代では良いほうの意味合いで使われるように変化したのですね。
ドラマではヒロインの名前が寅子(ともこ)なのと、翼は法律の意味としてタイトルにしたのかな、と想像しています。
ヒロインの父が拘留され自白を強要され後に無罪釈放になった共亜事件は、実際に昭和10年頃にあった帝人事件をモデルにしているそうです。
株取引をめぐる贈収賄事件で、大臣を含む16人が逮捕され後に無罪となった事件で、時の内閣が総辞職に追い込まれた事件。
今日観た中で印象に残ったのは、日本の統治下に当時あった韓国からの留学生の女性が兄と家で食事をする場面で、片膝を立てて食べているところです。
とても淑やかな女性で家では行儀がよくないとして描くとしたらへんだなぁ、と思い調べてみたら、その頃の韓国では、民族衣装のチマチョゴリの裾を美しく見せるためにそのように座っていた、と知りました。
あの座り方はどうしてなのだろう?と関心をもってもらいたいという演出だったのかも。
虎に翼、これまで知らなかったことに触れられつつ楽しめてます。
引用返信
/
返信
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■37196
/ inTopicNo.2)
虎に翼
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□投稿者/ akaimi
-(2024/04/28(Sun) 07:56:26)
「さよーならまたいつか!」米津玄師
https://www.youtube.com/watch?v=-wb2PAx6aEs
朝ドラ「虎に翼」の主題歌。舞う回るような軽いメロディが気に入ってます。
PVで米津さんがおさげ髪で真っ赤な服なのは、ドラマの女性たちへのリスペクトの意味もあるのかな、と想像したり。
「虎に翼」は、昭和8年頃からの物語。
日本で初めて弁護士、裁判官になった実在の女性をモデルにしたドラマです。
ヒロインが偶然に傍聴した民事裁判で、夫が離婚に応じようとせず、それだけでなく妻が結婚の際に持参していた大切な母からもらった着物を返そうとしなくて、それを法律でどう取りもどすか、裁判官も頭を悩ます場面が最初の頃にあってドラマに引き込まれました。
当時、妻の私的財産というものはなく、妻が結婚に際して持参したものでも夫が管理するものと法で定められていたそうなんです。
現代の感覚では考えられないですよね。
裁判官の判決は、「夫は嫌がらせのために着物を返却しないという権利の濫用をしていて、それは現法での権利範囲から逸脱しているので妻に返却しなさい」というものでした。
虐げられている人を法で助けたいという思いがヒロインの中で決意となった場面でした。
大学で法律を一緒に学ぶことになった女性の中には、貧しい農家で親に身売りされそうになり逃げてきてカフェーでボーイをしながら学んでいる女性や、弁護士夫人でモラハラ夫から子どもの親権を取るために学んでいる女性もいます。
このあたりはフィクションですが、昭和初期には親が娘を身売りするというのがまだあったのは本当ならしいです。
それから最近、共同親権が議論にあがってきているのでタイムリーです。
共同親権が権利の濫用になってしまうのではないか、という恐れもありつつ養育費の支払いの義務化とセットになればという期待もあるようです。
引用返信
/
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■37144
/ inTopicNo.3)
Re[53]: ストア派
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□投稿者/ akaimi
-(2024/04/20(Sat) 07:38:35)
悪魔ちゃん、おはよー。
投稿ありがとうございます(*^-^*)
■
No37142
に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
> >「我々次第であるもの」と「我々次第ではないもの」とを分け、「我々次第ではないもの」については考えない、触れないというエピクテトスの考え方<
>
> <「我々次第であるもの」と「我々次第ではないもの」とを分け>たとき、
> その間にいるのが〈我々〉っていうんじゃないかな〜、って。
>
> あ、ストア派、<考えない>、だから、「我」になるのかもだけど、
> わたしの用語では「我」じゃなくて「私」って言った方がいいかな。
「我々次第であるもの」「我々次第ではないもの」の「我々」は、「自分」と変えて表現してみても意味は通じるものなんです。
訳する時、「我々」がふさわしいのでそれになったのかな、って想像しますよ。
それで、「我々次第であるもの」と「我々次第ではないもの」の違いをちょっと具体的に例を出してみますね。
台風が来るっていうのは「我々次第ではないもの」です。
気象は人間には変えられないので。
台風に備えて雨戸を付ける、のは「我々次第であるもの」です。
引用返信
/
返信
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■37142
/ inTopicNo.4)
Re[52]: ストア派
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□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2024/04/19(Fri) 19:07:17)
akaimiさん、お邪魔しま〜す。
>「我々次第であるもの」と「我々次第ではないもの」とを分け、「我々次第ではないもの」については考えない、触れないというエピクテトスの考え方<
<「我々次第であるもの」と「我々次第ではないもの」とを分け>たとき、
その間にいるのが〈我々〉っていうんじゃないかな〜、って。
あ、ストア派、<考えない>、だから、「我」になるのかもだけど、
わたしの用語では「我」じゃなくて「私」って言った方がいいかな。
引用返信
/
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■37141
/ inTopicNo.5)
Re[51]: ストア派
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□投稿者/ akaimi
-(2024/04/19(Fri) 15:17:25)
2024/04/19(Fri) 15:34:34 編集(投稿者)
パソコンを久しぶりに開けたら動きがとても遅い。。。
なんとか開けました。
ストア派、自分なりの簡単なまとめを。
これまで触れていませんでしたが、ストア派の人々は占いを信じていたようです。
ストア派だけではなく逍遥派とあと忘れましたがなんだったかの派の人々も信じていたそうです。
現代の感覚では哲学と占いは相いれないものに感じるけれど、科学の発展していない古代には先々を予測するツールとして信用され重宝されていたのでしょう。
未来は今現在の時点で既に決まっている、のだとしたら、占いによって未来を知ることができるのならそしてそれが信用に値するものだと考えるなら、占いにより未来を知りたいとストア派の人々も考えたのかもしれません。
さて、ほんとうに未来は今の時点で既に決定しているのでしょうか。
占いというツールを用い未来を知り、その未来を変えようとすることも起きると思うのですが。
むしろそうするために占いを使用していたのかなぁ。。
それとも、占いの結果を神聖なものとして受け止め運命に逆らことはよしとはされなかったのでしょうか。
後者のあり方もストア派の考え方としてはあったのだろう、と思わせる文章があります。
===
「もしも私が、宿命によっていま私が病気になるように決定されていると知ったなら、そうなることへの衝動をもちさえしただろう。」
(エピクテトスの『語録』に引用されたクリュシッポスの言葉、と注釈p14にあります。)
===
『ストア派』ジャン=パティスト・グリナ 著 川本 愛 訳 p97より引用
「衝動をもちさえしただろう」とあり、定められた宿命に沿う生き方をすることが時に自分に不利益であろうともそれを受け入れることがストア派の人々にとって美徳ともいえたのかもしれません。
私はそうした衝動はもたないなぁ(;^_^A
「我々次第であるもの」と「我々次第ではないもの」とを分け、「我々次第ではないもの」については考えない、触れないというエピクテトスの考え方はとても参考になりました。
といったところでストア派、終わります。
引用返信
/
返信
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■37037
/ inTopicNo.6)
Re[50]: ストア派
▲
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■
□投稿者/ akaimi
-(2024/04/07(Sun) 09:53:15)
スマホから手短な追加。
クリュシッポスも宿命論と自由意志を共存させるために考えてはいたらしいです。
宿命論だけではあまりにも虚しいですしね。
自然本性は各人に宿命として備わっていて、選択も自然本性に応じたものがなされるけれど、自然本性次第によってなされるということは、徳を身につけるなどにより自然本性そのものを変化させることにより選択も変化していく、というような考えだったのかな。
例えば円錐も転がりにくい徳を身につけることにより転がりにくくなる、というように。
引用返信
/
返信
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■37035
/ inTopicNo.7)
Re[49]: ストア派
▲
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□投稿者/ akaimi
-(2024/04/07(Sun) 07:12:10)
2024/04/07(Sun) 16:10:54 編集(投稿者)
ストア派については終了と思ったのですが、自分の勘違いしていた部分に気づいたので仕切り直しです。
No37015
で私は
>>p96に、
===
衝動と同意は、「私たち次第である」。なぜなら、「同意は表象によって引き起こされないかぎりは生じることがない」(表象は「外的な刺激」として働きかける)のだが、この表象は、同意の先行的な原因であり完全な原因ではないからである。
===とあります。
上の例でいえば、「どこかが痛くなった」というのが表象で、その時に「医者を呼ぶ」あるいは「医者を呼ばない」という選択をするのが衝動と同意になるのだと思います。
そして衝動と同意は「私たち次第である」と。<<
と投稿しました。
私は、クリュシッポスもエピクテトスと同じように「選択」は自分の意志により都度に可能なのだと考えていたのだろう、と思っていました。
でも違うようです。
p96に円筒と円錐を譬えとしてクリュシッポスが語ったことが書かれています。
===
これらのものは押されなければ運動しないが、「押されて動きだしたとき、その後に円筒が転がり円錐が回転するのは、自分自身の自然本性によるのである。」さらに続けて彼が言うには、「同意はちょうど円筒の場合のように、外から引きおこされるが、その後に自分自身の力と自然本性に従って動くだろう」
===
考察してみます。
円筒、円錐、それから四角柱をそれぞれ人間の譬えだとするとわかりやすいです。
ゆるい坂でそれぞれが押されたとして、円錐と円柱は転がっていくけれど四角柱は容易には転がってはいきません。
それはそれぞれの人間の自然本性が転がりやすいか転がりにくいかにより違ってくるのだ、ということだと思います。
そして、円錐と円柱のように「押される」と「転がる」、四角柱のように「押される」けれど「転がらない」はそれぞれに宿命づけられていて、それはそれぞれの持つ自然本性によるのだ。
つまり、各人の「選択」もその各人の自然本性由縁のものとして宿命にセットされている、そして、各人の宿命というのも宇宙の摂理から起きてきている。
自分で選択していると見えても宿命に従っているのだ、ということ。
>>「もし病気から快復するのが君の宿命なら、医者を呼んでも呼ばなくても、君は回復するだろう。だがもし回復しないのが君の宿命なら、医者を呼んでも呼ばなくても君は回復しないだろう。
>>しかるに君の宿命は回復するかしないかのどちらかである。
>>したがって、君が医者を呼ぶのは無駄である。」
>>===p95より
という質問に対して、
>>===
>>私たちが医者のおかげで回復するということと、私たちが医者を呼ぶことは「一緒に宿命づけられている」と述べた。
>>===p95より
と答えたというのは、
その人にとって、「医者を呼んだので回復した」がセットで宿命づけられていた、と言いたかったようです。
その人にとってはその場合にそれ以外の宿命はなかった、と。
映画やドラマのストーリーがあらかじめ決められているように、各人のところでは自然本性としての宿命が働いている、ということなのでしょう。
筋書きは絶対に変わらないドラマを演じている私たち、といったところでしょうか。
そういえばエピクテトスも、
「どういう配役を与えられるかは自分では決められない、各人はその役を精一杯していくだけだ」というようなことを語っていたのです。
しかしエピクテトスの場合は、どういう選択を都度にするかはその人に任されているとも語るので、ストーリーは変化しうる・・・完全な宿命論ではないと思います。
引用返信
/
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■37017
/ inTopicNo.8)
Re[48]: ストア派
▲
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■
□投稿者/ 時
-(2024/04/05(Fri) 18:57:15)
akaimiさんへ。こんにちは。返信をありがとうございます。
■
No37015
に返信(akaimiさんの記事)
> そもそもの質問者は、「なんでもかんでも宿命で定められているというなら、なにしたってしかたないんじゃないか? 各人の努力は無駄になる場合もあるよね?」ってなことをクリュシッポスにぶつけたかったのだろうな、と私は考えました。
> しかし、クリュシッポス的にはそうではない、と。
> p96に、
> ===
> 衝動と同意は、「私たち次第である」。なぜなら、「同意は表象によって引き起こされないかぎりは生じることがない」(表象は「外的な刺激」として働きかける)のだが、この表象は、同意の先行的な原因であり完全な原因ではないからである。
> ===とあります。
> 上の例でいえば、「どこかが痛くなった」というのが表象で、その時に「医者を呼ぶ」あるいは「医者を呼ばない」という選択をするのが衝動と同意になるのだと思います。
> そして衝動と同意は「私たち次第である」と。
質問者の「なんでもかんでも宿命で定められているというなら、なにしたってしかたないんじゃないか?」は「なにしたって仕方なくないんじゃないか」と、別にどちらでもよいと思いますし「各人の努力は無駄になる場合もあるよね?」というのは、その通りではないですかね?努力は報われるときも報われないときもある。という風に現実での私は考えましたが。
もしかすると自身に起こる「衝動と同意」のみについて、クリュシッポスは語っているのでしょうか。だとすると、質問者の質問とクリュシッポスの回答は、ずれているのかもしれないなと感じました。。この辺りは、よくわかりませんね。
> 本がもう一つわかりやすくはないのもあり、ストア派についてはこのあたりで終わりにしようかな、と思っていたところでした。
> もし続けて考察されるときは自由に投稿してくださいね。
ありがとうございます。了解しました。
> それから、忘れてたので加えます。
> クリュシッポスのいう「宿命」というのは、現代の私たちの考える「宿命」とはどうも違うのではないか、というのは感じました。
> 自分の選択で決められることも含めて宿命だというのであれば、それはわざわざ宿命と言わなくてもいいのではないかと思います。
> (身分や生まれ持っての健康状態などは宿命といってもいいでしょうけれど。)
なるほど。日本語の解説や訳として記載のある「宿命」が、もしも現代での辞書の定義等ではないようならば、考察のしようがありませんね。
では、この辺で私も終了としますね。返信をありがとうございました。
引用返信
/
返信
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■37015
/ inTopicNo.9)
Re[47]: ストア派
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■
□投稿者/ akaimi
-(2024/04/05(Fri) 17:03:11)
2024/04/05(Fri) 17:22:33 編集(投稿者)
時さん、こんにちは。レスありがとうございます。
■
No37013
に返信(時さんの記事)
> 2024/04/05(Fri) 15:58:26 編集(投稿者)
> 2024/04/05(Fri) 15:55:25 編集(投稿者)
> なるほど、このヘラクレイトスが火を重要視し、それを基本的にゼノンが取り入れて受け継いだという事だったのですね。
p18に、
===
とくに、ゼノンが火を特別な構成要素として重視したことはヘラクレイトスに負っている。
===
とあります。とりあえずそういうことだというのだけで今はいいかなと。^^
>>宿命論と怠惰が帰結するだろうという問い、具体的には、
>>===
>>「もし病気から快復するのが君の宿命なら、医者を呼んでも呼ばなくても、君は回復するだろう。だがもし回復しないのが君の宿命なら、医者を呼んでも呼ばなくても君は回復するだろう。
>>しかるに君の宿命は回復するかしないかのどちらかである。
>>したがって、君が医者を呼ぶのは無駄である。」
>>===p95より
>
> 上記の「回復しないのが君の宿命なら、医者を呼んでも呼ばなくても君は回復するだろう。」というところが理解できません。「回復しないのが君の宿命なら、医者を呼んでも呼ばなくても君は回復しないだろう。」ではないのでしょうか?
そうです、すみません。打ち間違えです。
>>「もし病気から快復するのが君の宿命なら、医者を呼んでも呼ばなくても、君は回復するだろう。だがもし回復しないのが君の宿命なら、医者を呼んでも呼ばなくても君は回復しないだろう。
>>しかるに君の宿命は回復するかしないかのどちらかである。
>>したがって、君が医者を呼ぶのは無駄である。」
>>===p95より
に訂正します。
>>回復するかしないかのどちらかになることは宿命づけられているなら、医者を呼ぶか呼ばないかについては無関係だと質問者は言っています。
>
>>それに対してクリュシッポスは、
>>===
>>私たちが医者のおかげで回復するということと、私たちが医者を呼ぶことは「一緒に宿命づけられている」と述べた。
>>===p95より
>
>>ここからは私の考察です。
>
>>1
.医者を呼んで回復した
>>2
.医者を呼んだが回復しなかった
>>3
.医者を呼ばなかったが回復した
>>4
.医者を呼ばず回復もしなかった
>
>>この4通りが考えられますね。
>>そしてクリュシッポスの説に従うなら、どのパターンも宿命によるもの、になるのだと思います。
>
>>「病気になった」ということが医者を呼ぶか呼ばないかの原因となるもので、病気になった際に医者を呼ぶか呼ばないかはその人の判断によるけれど、どういう判断をするかも含めての宿命である、と言いたいのかな。
>>回復する、しないという結果だけに注目するのではなく因果関係に注目し、選択は自分でできうるということを言いたかったのだろうと思います。
>
> 私自身が考えるときには、運命と宿命の定義の違いをあまり考えませんで、もっぱら運命と表現していますが、今回は、それを宿命と表現してみます。
>
> 上記を読みますと、クリュシッポスの回答は、至極当然な答え方をしていると思います。akaimiさんが仰るように、どのパターンでも宿命なのだから、医者を呼ぼうが呼ぶまいが、病気が治ろうが治ろまいが、それらはどのパターにおいても宿命なのだという事でしょう。ですので、その全ての因果関係においてはそれら自体が宿命なのだから、自由意志での選択により医者を呼ぶ、呼ばないという選択も自由なのだという事だろうと思いました。だから自由意志はあるのだというのが、クリュシッポスの回答だと理解しました。
>
> しかし、自由意志での選択を否定することを否定するためにクリュシッポスの主張としての回答があるように思いますが、主張ですので仕方ないという想いもありますが、少し無理があるのかなと感じました。
>
> 以下は、病気になったとある人が認識した瞬間を起点とします。
>
> 医者を呼んだ。
> 医者を呼んだので、医者が来た。
> 医者を呼んだが、医者が来ない。
>
> 医者を呼ぼとしたが、呼べなかった。
> 医者を呼ぼとしたが、呼べなかった。しかし医者が来た。
> 医者を呼ぼとしたが、呼べなかったので、医者は来なかった。
>
> 医者を呼ばない。
> 医者を呼んでいないが、医者が来た。
> 医者を呼んでいないので、医者は来ない。
>
> 医者を呼んで回復した。
> 医者を呼ばなかったので回復した。
> 医者を呼ばなかったが回復した。
>
> 医者を呼ばず回復もしなかった。
> 医者を呼んだので回復しなかった。
> 医者を呼んだが回復しなかった。(ry)
>
> つまりは、思考の結果として、本人に能動的な行動(医者を呼ぶ行為)が起こるときには、自由意志での選択はあり、受動的な行動が起こるときには、自由意志での選択とは無関係の結果が生じるように思います。
>
> もしも"全て"が宿命ならば、その自由意志の選択で起こること以外の出来事も宿命ですね?ですので、自由意志での選択はあると同時に、自由意志での選択はないのだとなるのではないでしょうか。
>
>>私たちが医者のおかげで回復するということと、私たちが医者を呼ぶことは「一緒に宿命づけられている」と述べた。
>
> そうだとは限らないかなぁと思いました。一緒に宿命づけられている場合もあるだろうし、宿命として、そうではない場合もあるだろうという事です。
>
> 私たちの病気が回復するということと、私たちが医者を呼ぶこと、医者を呼ばないことは、両者一緒に宿命づけられている。となるように感じました。
>
> もしも時が、当時のクリュシッポスに尋ねることができたとしたならば、
>
> 「もし病気から快復するのが君の宿命なら、医者を呼んでも呼ばなくても、君は回復するだろう。だがもし回復しないのが君の宿命なら、医者を呼んでも呼ばなくても君は回復しないだろう。しかるに君の宿命は回復するかしないかのどちらかである。したがって、君が医者を呼ぶのは無益であり、かつ有益である。よって、そのどちらを選択するのかはあなたにその決定権があるという主張ですか?」と尋ねると思いました。
そもそもの質問者は、「なんでもかんでも宿命で定められているというなら、なにしたってしかたないんじゃないか? 各人の努力は無駄になる場合もあるよね?」ってなことをクリュシッポスにぶつけたかったのだろうな、と私は考えました。
しかし、クリュシッポス的にはそうではない、と。
p96に、
===
衝動と同意は、「私たち次第である」。なぜなら、「同意は表象によって引き起こされないかぎりは生じることがない」(表象は「外的な刺激」として働きかける)のだが、この表象は、同意の先行的な原因であり完全な原因ではないからである。
===とあります。
上の例でいえば、「どこかが痛くなった」というのが表象で、その時に「医者を呼ぶ」あるいは「医者を呼ばない」という選択をするのが衝動と同意になるのだと思います。
そして衝動と同意は「私たち次第である」と。
時さんの考察に対しての直接のレスになっていなくてすみません。
本がもう一つわかりやすくはないのもあり、ストア派についてはこのあたりで終わりにしようかな、と思っていたところでした。
もし続けて考察されるときは自由に投稿してくださいね。
それから、忘れてたので加えます。
クリュシッポスのいう「宿命」というのは、現代の私たちの考える「宿命」とはどうも違うのではないか、というのは感じました。
自分の選択で決められることも含めて宿命だというのであれば、それはわざわざ宿命と言わなくてもいいのではないかと思います。
(身分や生まれ持っての健康状態などは宿命といってもいいでしょうけれど。)
引用返信
/
返信
削除キー/
編集
削除
■37013
/ inTopicNo.10)
Re[46]: ストア派
▲
▼
■
□投稿者/ 時
-(2024/04/05(Fri) 12:49:15)
2024/04/05(Fri) 15:58:26 編集(投稿者)
2024/04/05(Fri) 15:55:25 編集(投稿者)
akaimiさんへ。こんにちは。
■
No37001
に返信(akaimiさんの記事)
> 前回に続き『ストア派』ジャン=パティスト・グリナ 著 川本 愛 訳
> からです。
> ===
> 神、あるいは理性は、素材が原初の火の状態にあるときからすでに素材に内在し、種子として、すなわち、動物と植物をつくる生物的な原理としてはたらく理性的な原理である。人間のうちにあるものとしては、それは魂として人間を指導する指導的な原理である。
> ===p87より
> 理性=神であり、人間のうちとしては魂としてその人間を指導する原理と言っているようです。
> このあたりなんとなくブラフマン=アートマンとも少し似ているのかな。
そうですね。古代インドの梵我一如の思想に似ていそうですね。
梵我一如の思想は、ブラフマン=アートマンだという事でしょうから。
> 神はどうやら宇宙の外にあるものではなく、素材(のちに宇宙のさまざまなものに変化するもの)が原初の火だった時から種子として内在していた理性的な原理、と考えていたようです。
私の知るインドの思想では、一切の源泉を神とするようです。ですので、火を原初とはしないように思いますが、これも表現の違いだけで、原初の火だった時から、原初の水だった時から、原初の風だった時から、原初の土だった時から種子として内在していた理性的な原理と言っても違和感はなさそうですね。そしてこの中でストア派は、その始まりであるゼノンが火を特別な構成要素として重視したことはヘラクレイトス由来のものだったという事だったという事なのですね。
ヘラクレイトスで思い出しましたが、過去に一瞬だけ何かで見た記憶があります。万物流転の思想の方ですよね。同じ川には同じ人は入れない、だったでしょうか。これを見たときには、それはそうでしょう。。で、後は調べてはいませんが^^
なるほど、このヘラクレイトスが火を重要視し、それを基本的にゼノンが取り入れて受け継いだという事だったのですね。
> p91から「宿命と原因」という見出しで、もしもすべてが宿命に従って生じるならば、人間の責任はどのように位置づけられるのだろうか?についてのクリュシッポスの回答があります。
ここですね。問題点は(笑)
> 宿命論と怠惰が帰結するだろうという問い、具体的には、
> ===
> 「もし病気から快復するのが君の宿命なら、医者を呼んでも呼ばなくても、君は回復するだろう。だがもし回復しないのが君の宿命なら、医者を呼んでも呼ばなくても君は回復するだろう。
> しかるに君の宿命は回復するかしないかのどちらかである。
> したがって、君が医者を呼ぶのは無駄である。」
> ===p95より
上記の「回復しないのが君の宿命なら、医者を呼んでも呼ばなくても君は回復するだろう。」というところが理解できません。「回復しないのが君の宿命なら、医者を呼んでも呼ばなくても君は回復しないだろう。」ではないのでしょうか?
> 回復するかしないかのどちらかになることは宿命づけられているなら、医者を呼ぶか呼ばないかについては無関係だと質問者は言っています。
> それに対してクリュシッポスは、
> ===
> 私たちが医者のおかげで回復するということと、私たちが医者を呼ぶことは「一緒に宿命づけられている」と述べた。
> ===p95より
> ここからは私の考察です。
> 1.医者を呼んで回復した
> 2.医者を呼んだが回復しなかった
> 3.医者を呼ばなかったが回復した
> 4.医者を呼ばず回復もしなかった
> この4通りが考えられますね。
> そしてクリュシッポスの説に従うなら、どのパターンも宿命によるもの、になるのだと思います。
> 「病気になった」ということが医者を呼ぶか呼ばないかの原因となるもので、病気になった際に医者を呼ぶか呼ばないかはその人の判断によるけれど、どういう判断をするかも含めての宿命である、と言いたいのかな。
> 回復する、しないという結果だけに注目するのではなく因果関係に注目し、選択は自分でできうるということを言いたかったのだろうと思います。
私自身が考えるときには、運命と宿命の定義の違いをあまり考えませんで、もっぱら運命と表現していますが、今回は、それを宿命と表現してみます。
上記を読みますと、クリュシッポスの回答は、至極当然な答え方をしていると思います。akaimiさんが仰るように、どのパターンでも宿命なのだから、医者を呼ぼうが呼ぶまいが、病気が治ろうが治ろまいが、それらはどのパターにおいても宿命なのだという事でしょう。ですので、その全ての因果関係においてはそれら自体が宿命なのだから、自由意志での選択により医者を呼ぶ、呼ばないという選択も自由なのだという事だろうと思いました。だから自由意志はあるのだというのが、クリュシッポスの回答だと理解しました。
しかし、自由意志での選択を否定することを否定するためにクリュシッポスの主張としての回答があるように思いますが、主張ですので仕方ないという想いもありますが、少し無理があるのかなと感じました。
以下は、病気になったとある人が認識した瞬間を起点とします。
医者を呼んだ。
医者を呼んだので、医者が来た。
医者を呼んだが、医者が来ない。
医者を呼ぼとしたが、呼べなかった。
医者を呼ぼとしたが、呼べなかった。しかし医者が来た。
医者を呼ぼとしたが、呼べなかったので、医者は来なかった。
医者を呼ばない。
医者を呼んでいないが、医者が来た。
医者を呼んでいないので、医者は来ない。
医者を呼んで回復した。
医者を呼ばなかったので回復した。
医者を呼ばなかったが回復した。
医者を呼ばず回復もしなかった。
医者を呼んだので回復しなかった。
医者を呼んだが回復しなかった。(ry)
つまりは、思考の結果として、本人に能動的な行動(医者を呼ぶ行為)が起こるときには、自由意志での選択はあり、受動的な行動が起こるときには、自由意志での選択とは無関係の結果が生じるように思います。
もしも"全て"が宿命ならば、その自由意志の選択で起こること以外の出来事も宿命ですね?ですので、自由意志での選択はあると同時に、自由意志での選択はないのだとなるのではないでしょうか。
> 私たちが医者のおかげで回復するということと、私たちが医者を呼ぶことは「一緒に宿命づけられている」と述べた。
そうだとは限らないかなぁと思いました。一緒に宿命づけられている場合もあるだろうし、宿命として、そうではない場合もあるだろうという事です。
私たちの病気が回復するということと、私たちが医者を呼ぶこと、医者を呼ばないことは、両者一緒に宿命づけられている。となるように感じました。
もしも時が、当時のクリュシッポスに尋ねることができたとしたならば、
「もし病気から快復するのが君の宿命なら、医者を呼んでも呼ばなくても、君は回復するだろう。だがもし回復しないのが君の宿命なら、医者を呼んでも呼ばなくても君は回復しないだろう。しかるに君の宿命は回復するかしないかのどちらかである。したがって、君が医者を呼ぶのは無益であり、かつ有益である。よって、そのどちらを選択するのかはあなたにその決定権があるという主張ですか?」と尋ねると思いました。
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■37001
/ inTopicNo.11)
Re[45]: ストア派
▲
▼
■
□投稿者/ akaimi
-(2024/04/03(Wed) 14:55:01)
2024/04/05(Fri) 17:07:04 編集(投稿者)
2024/04/03(Wed) 15:14:48 編集(投稿者)
前回に続き『ストア派』ジャン=パティスト・グリナ 著 川本 愛 訳
からです。
===
神、あるいは理性は、素材が原初の火の状態にあるときからすでに素材に内在し、種子として、すなわち、動物と植物をつくる生物的な原理としてはたらく理性的な原理である。人間のうちにあるものとしては、それは魂として人間を指導する指導的な原理である。
===p87より
理性=神であり、人間のうちとしては魂としてその人間を指導する原理と言っているようです。
このあたりなんとなくブラフマン=アートマンとも少し似ているのかな。
神はどうやら宇宙の外にあるものではなく、素材(のちに宇宙のさまざまなものに変化するもの)が原初の火だった時から種子として内在していた理性的な原理、と考えていたようです。
p91から「宿命と原因」という見出しで、もしもすべてが宿命に従って生じるならば、人間の責任はどのように位置づけられるのだろうか?についてのクリュシッポスの回答があります。
クリュシッポスというのは、前回で触れたクレアンテスの弟子でストア派の体系を整えた人だそうです。
宿命論と怠惰が帰結するだろうという問い、具体的には、
===
「もし病気から快復するのが君の宿命なら、医者を呼んでも呼ばなくても、君は回復するだろう。だがもし回復しないのが君の宿命なら、医者を呼んでも呼ばなくても君は回復するだろう。
しかるに君の宿命は回復するかしないかのどちらかである。
したがって、君が医者を呼ぶのは無駄である。」
===p95より
上記引用を訂正します。
===
「もし病気から快復するのが君の宿命なら、医者を呼んでも呼ばなくても、君は回復するだろう。だがもし回復しないのが君の宿命なら、医者を呼んでも呼ばなくても君は回復しないだろう。
しかるに君の宿命は回復するかしないかのどちらかである。
したがって、君が医者を呼ぶのは無駄である。」
===p95より (4月5日訂正)
回復するかしないかのどちらかになることは宿命づけられているなら、医者を呼ぶか呼ばないかについては無関係だと質問者は言っています。
それに対してクリュシッポスは、
===
私たちが医者のおかげで回復するということと、私たちが医者を呼ぶことは「一緒に宿命づけられている」と述べた。
===p95より
ここからは私の考察です。
1.医者を呼んで回復した
2.医者を呼んだが回復しなかった
3.医者を呼ばなかったが回復した
4.医者を呼ばず回復もしなかった
この4通りが考えられますね。
そしてクリュシッポスの説に従うなら、どのパターンも宿命によるもの、になるのだと思います。
「病気になった」ということが医者を呼ぶか呼ばないかの原因となるもので、病気になった際に医者を呼ぶか呼ばないかはその人の判断によるけれど、どういう判断をするかも含めての宿命である、と言いたいのかな。
回復する、しないという結果だけに注目するのではなく因果関係に注目し、選択は自分でできうるということを言いたかったのだろうと思います。
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■36934
/ inTopicNo.12)
ストア派
▲
■
□投稿者/ akaimi
-(2024/03/26(Tue) 08:40:23)
2024/03/26(Tue) 08:42:30 編集(投稿者)
『ストア派』ジャン=パティスト・グリナ 著 川本 愛 訳
を一通り読んでみました。
著者は、フランス国立科学研究センター研究部長、古代思想研究所所長で、古代哲学の国際的な研究者であり、一般向けの書物でストア派の普及にも貢献。と、紹介にあります。
興味深く感じたところを断片的に引用していってみます。
ヘレニズム期にゼノンにより始まったとされるストア派。
===
とくに、ゼノンが火を特別な構成要素として重視したことはヘラクレイトスに負っている。
===p18より
===
同様に、ゼノンが、魂は物体でありプラトンの「イデア」は思考の対象でしかないとして、非物体的な実体が存在するというプラトン的な主張を批判したのも、キュニコス派とメガラ派の流れを汲んでいる。
===p19より
===
倫理学においてゼノンは、ただ徳だけが善であり悪徳だけが悪であるが、善悪無差別のもののうち、たとえば健康のようなものは優先される価値をもつものであると主張した。
「義務(適切な行為)」という概念を発明し、義務のうちに完全な義務というカテゴリ―を区別した。
あらゆる情念を否定し、情念を誤った判断として考えた。
===p19〜p20より
しなければならないとされることを現代では「義務」とするけど、ゼノンは「義務」を「適切な行為」と定義していたようです。
情念というのは感情に支配されることを意味するのだろうと考えます。
そしてそれは適切な行為ではない(義務ではない)となるのかな。
ゼノンには何人か弟子がいて、ゼノンの後継者として選ばれたクレアンテスという人は元拳闘家だそうです。
===
クレアンテスはゼノンの自然学におけるヘラクレイトス的な部分、とくに魂が「プネウマ(気息)」であるという理論を強調した。「トノス(緊張力)」の理論、つまり万物の実体が、火によって生みだされた緩むことのない緊張力を受けているという理論を初めて提唱したのは、クレアンテスだったようである。
===p21より
魂はプネウマ(気息)である、と考えていたのですね。
気息は非物体的な存在ではないものね。
続きはまた。
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