| knowing itselfさん こんばんは。
ニーチェのツァラトゥストラでも予定説のような自由意思と必然との矛盾の問題があると思います。
それは、精神の三段階の変化を述べる際、服従を生きがいとする駱駝から獅子へと変容した精神は「自由をかち取って」支配者となり、彼には「新しい創造のための自由の創造」が可能となると、自由の提唱者というニーチェ像が築かれてきたと思います。
けれども、必然性の内なる自由の感情は、永劫回帰してカオス的世界の必然性を美として肯定しようとする「運命愛」へと昇華します。
世の中の現象の一切は必然であり自由は幻想だが、人間はこの幻想によって努力し続けるように宿命づけられている、とも言えます。
とは言え、価値創造の自由を獲得する超人へと向かう必然性が永遠回帰の内にあらかじめ組み込まれており、超人は罪悪感や自責の念のみならず徒労感からも完全に自由である子供のようになります。
つまり、カオス的世界の「必然性」を「美として肯定」する「運命愛」こそが、この予定説のような必然性の呪縛から自由になって「超人」へと変身させるのではと思います。
なので、あらかじめ決まっている必然性の運命を芸術による美のように受け入れ、子供のように戯れ愛することこそが、運命の必然性から自由に抜け出す「超人」に成るのだと思います。
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