| 勿忘草さん こんばんは
> 私たちはキリストを救い主として信じると、はじめは、とかく自分の力で、一生懸命に信仰に励み、努力しようとします。 > > しかし、やがて信仰というものは、じつは自分の力でしているものではなく、三位一体の神が自分にたまわったもので、信仰できるように働きかけてくださっているのだ、ということがわかってきます。 > > つまり、すべてはキリストの恵みであり、働きということがわかってきます。 > 自分の力に頼むのではなく、キリストのお働きに身をゆだねることこそ大切なのだ、と思うようになるのです。 > > では、そのように他力に身をゆだねた自分は、完全に消滅してしまい、自分の意志さえもなくなってしまうのかというと、実はそうではないことに、やがて気づき > そこに"新しい自分"を発見するようになります。 > > 他力は自力となり、自力は他力となる。そこにはもはや自力も他力もありません。自他両力は一つとなっています。 > > こうした渾然一体が信仰の究極の境地なのかなと思うのですが如何でしょうか。
そうだと思います。
プロテスタントには恵みだけということを過度に強調し、人間の行いやわざを全否定する立場もあるし、日本の浄土教にも他力一本に執着する人が少なくないですね。あまりも単純だと言わざるをえません。
例えば、信仰によってドラッグ中毒から立ち直れた人は、以後何もせずに寝ているわけではありません。再びドラッグ中毒に舞い戻らないで、他の何かの行動はしているはずです。別にこれ見よがしの善行ではなくても、ドラッグを飲むのではないことは行動に現れているはずです。ドラッグはやめる必要はない、そのままでOKなんだという論理もあるかもしれませんが、それなら他力信仰さえ必要はないと思います。
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