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■11332 / inTopicNo.25)  Re[18]: 仏道は基本的に自力
  
□投稿者/ knowing itself -(2021/03/06(Sat) 21:20:51)
    勿忘草さん こんばんは

    > 私たちはキリストを救い主として信じると、はじめは、とかく自分の力で、一生懸命に信仰に励み、努力しようとします。
    >
    > しかし、やがて信仰というものは、じつは自分の力でしているものではなく、三位一体の神が自分にたまわったもので、信仰できるように働きかけてくださっているのだ、ということがわかってきます。
    >
    > つまり、すべてはキリストの恵みであり、働きということがわかってきます。
    > 自分の力に頼むのではなく、キリストのお働きに身をゆだねることこそ大切なのだ、と思うようになるのです。
    >
    > では、そのように他力に身をゆだねた自分は、完全に消滅してしまい、自分の意志さえもなくなってしまうのかというと、実はそうではないことに、やがて気づき
    > そこに"新しい自分"を発見するようになります。
    >
    > 他力は自力となり、自力は他力となる。そこにはもはや自力も他力もありません。自他両力は一つとなっています。
    >
    > こうした渾然一体が信仰の究極の境地なのかなと思うのですが如何でしょうか。

    そうだと思います。

    プロテスタントには恵みだけということを過度に強調し、人間の行いやわざを全否定する立場もあるし、日本の浄土教にも他力一本に執着する人が少なくないですね。あまりも単純だと言わざるをえません。

    例えば、信仰によってドラッグ中毒から立ち直れた人は、以後何もせずに寝ているわけではありません。再びドラッグ中毒に舞い戻らないで、他の何かの行動はしているはずです。別にこれ見よがしの善行ではなくても、ドラッグを飲むのではないことは行動に現れているはずです。ドラッグはやめる必要はない、そのままでOKなんだという論理もあるかもしれませんが、それなら他力信仰さえ必要はないと思います。
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■11338 / inTopicNo.26)  Re[19]: 仏道は基本的に自力
□投稿者/ 勿忘草 -(2021/03/07(Sun) 09:52:14)
    No11328に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ねえ、勿忘草さん
    >
    > あなたの言う「自力」の「自」ってなあに? 「自分」ってなあに?

    「自分」とは、様々な煩悩だけで出来ている煩悩に目と鼻がくっ付いている生き物のことだと思います。

    なので、自らへの計らいを捨てることが、出来ません。

    この煩悩をなくさないままで、煩悩の支配を離れた涅槃という境地にいたることができることが信心だと思います。

    「煩悩」というのは、私どもの身や心を煩わせ、悩ませる心のはたらきのことです。しかもそれは、自分自身が引き起こしている心の作用なのです。

    自分とは、煩悩がいつも心に付きまとっていて、絶えず支配していて、自分の思い通りにしようとしていること、それが実は煩悩であって、結局はそれが自分自身を苦しめ悩ませる原因になっていて、しかも、自らが引き起こしている煩悩によって、自分が苦しんでいることすら気づけないでいる、本当に無知だとしか言わざるを得ません。

    だからこそ、それを憐れんだ阿弥陀仏の本願によって往生すること、そのことが煩悩を滅する事が出来なくても、いや、煩悩を断ずることのできない、愚かで情けない自分であるからこそ、弥陀の「本願」により、救われるものであると仏祖から思うのです。


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■11344 / inTopicNo.27)  仏教とキリスト教が違うとしたら一つには
□投稿者/ knowing itself -(2021/03/07(Sun) 17:04:51)
    > 例えば、信仰によってドラッグ中毒から立ち直れた人は、以後何もせずに寝ているわけではありません。再びドラッグ中毒に舞い戻らないで、他の何かの行動はしているはずです。別にこれ見よがしの善行ではなくても、ドラッグを飲むのではないことは行動に現れているはずです。

    ここあたり、もしかしたらキリスト教と仏教の違いかもしれない。

    ドラッグに向かう強烈な渇望、これはドラッグでなく他の対象でもいいが、そういう渇望はそもそも悪だから根底から無くしてしまえ、とはならないのがキリスト教だね。人間は基本的に善なるものとして創造されているが、渇望の対象を間違うと満たされずに苦悩と絶望に陥る。

    渇望の対象を三位一体の神に向ける以外に、人間の渇望が満たされることはない、というのがキリスト教の処方。そこで初めて人間の渇望はパーフェクトに満たされる。渇望をもって行動することを根こそぎやめろ、とはいいません。違いは渇望の対象だけ。
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■11349 / inTopicNo.28)  Re[20]: 仏教とキリスト教
□投稿者/ 勿忘草 -(2021/03/08(Mon) 20:41:45)
    knowing itselfさんこんばんは。
    やはり、基本中の基本を把握なさっているんですね。
    素晴らしいです。
    何事も基本は等閑にできません。

    > 渇望の対象を三位一体の神に向ける以外に、人間の渇望が満たされることはない、というのがキリスト教の処方。そこで初めて人間の渇望はパーフェクトに満たされる。渇望をもって行動することを根こそぎやめろ、とはいいません。違いは渇望の対象だけ。

    なるほど、そうですね。
    私自身の渇望が癒えないで苦しんでいる理由は、やはり、ここにあったのですね。
    あの十字架での神の心身の苦悩を思うとき、最近、鬱がひどくて落ち込んだ気持ちなのですが、こうしていてはダメだとイエス様を見上げて奮い立たせているところです。

    仏教に戻ると、阿弥陀仏の本願というのは、私たち一人一人を間違いなく救おうとしてくださっている、深く大きな願いのことでありました。

    そして、釈尊がこの世間にお出ましになられた目的は何であったのか。

    釈尊は、たまたまこの世間にお生まれになり、たまたま仏になられて、人びとに教えを説かれた、ということではないのです。

    この世間にお出ましになられたのは、それは、ただただこの私を救ってやりたいという阿弥陀仏の本願が、私に差し向けられている、その事実を私に教えようとしてくださったためである、ということであり、この事が信じられる人が幸せの人なのだと思います。


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■11350 / inTopicNo.29)  Re[21]: 仏教とキリスト教
□投稿者/ 勿忘草 -(2021/03/08(Mon) 20:55:47)
    なので、このまま鬱に落ち込んでいたら神仏に本当に申し訳なくて、けど、どうすることも出来なくて、ただ、神仏の庇護にすがるだけだと思っているところです。
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■11354 / inTopicNo.30)  Re[22]: 仏教とキリスト教
□投稿者/ knowing itself -(2021/03/09(Tue) 19:22:25)
    勿忘草さんこんばんは

    仏教にしろキリスト教にしろ、自力の要素がある程度必要ではないでしょうか。

    瞑想や祈りなしの仏教やキリスト教はありえないでしょう。念仏を唱えることをある程度時間をとってやるのも、自力なしでありえるのでしょうか。


    気分転換のためにでも、自力の要素を活用した方が得だと思います。

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■11355 / inTopicNo.31)  Re[23]: 仏教とキリスト教
□投稿者/ 勿忘草 -(2021/03/09(Tue) 19:31:34)
    knowing itselfさんこんばんは。

    > 仏教にしろキリスト教にしろ、自力の要素がある程度必要ではないでしょうか。
    >
    > 瞑想や祈りなしの仏教やキリスト教はありえないでしょう。念仏を唱えることをある程度時間をとってやるのも、自力なしでありえるのでしょうか。
    >
    >
    > 気分転換のためにでも、自力の要素を活用した方が得だと思います。

    なるほど、そうですね。
    自分は、いつも「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えているのですが、これもある意味
    自力かもしれませんね。

    もちろん、三位一体のイエス様への信仰も忘れていませんけど。
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■11357 / inTopicNo.32)  他力の困難さ
□投稿者/ knowing itself -(2021/03/09(Tue) 19:45:10)
    法然は一日たしか七万回の念仏を唱えることを日課としていたとされています。これだけ唱えると、ネガテイブな感情や雑念などどこかに行ってしまうと思います。
    もちろん、強固な意志がなければこういうことはできませんが、親鸞の浄土真宗は、こういうのも自力だ、信心の方が大事だと理屈をつけます。他力だ、自力は絶対認めないと。たしかにその通りなんだけど、信心一本の方が難行になっているように思う。素直に念仏を唱え込む方が易行ですね。
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■11358 / inTopicNo.33)  Re[25]: 他力の困難さ
□投稿者/ 勿忘草 -(2021/03/09(Tue) 19:58:07)
    knowing itselfさん、法然にも明るいのですか。
    ホント毎度の事ながら感心させられます。

    > 法然は一日たしか七万回の念仏を唱えることを日課としていたとされています。これだけ唱えると、ネガテイブな感情や雑念などどこかに行ってしまうと思います。
    > もちろん、強固な意志がなければこういうことはできませんが、親鸞の浄土真宗は、こういうのも自力だ、信心の方が大事だと理屈をつけます。他力だ、自力は絶対認めないと。たしかにその通りなんだけど、信心一本の方が難行になっているように思う。素直に念仏を唱え込む方が易行ですね。

    うーん、そうだと思います。
    何もしていないほうが、つらいような気がしますね。

    それよりは、「南無阿弥陀仏」と素直に唱えていたほうが、良いかもしれません。


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■11376 / inTopicNo.34)  東日本大震災 鎮魂の日
□投稿者/ 勿忘草 -(2021/03/11(Thu) 19:55:14)
    knowing itselfさん、今日は、10年目を迎えました。

    何とも言い難き餅になります。

    特に黙とうの1分間のサイレンの間は、涙がこみ上げて仕方ありませんでした。

    亡くなった多くの方々のご冥福を心からお祈りいたします。

    https://www.youtube.com/watch?v=RmXW2hD1OX0
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■11382 / inTopicNo.35)  Re[27]: 東日本大震災 鎮魂の日
□投稿者/ knowing itself -(2021/03/12(Fri) 18:52:10)
    勿忘草さん こんばんは

    天国、お浄土で現世以上に安らいでいるのでなければ理に合わないと思います。天国やお浄土の方がリアルで、その前段階の現世の方がリアルの度合いは低い。この理に心底から納得できれば、死は悲しむべきではないのかもしれません。


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■11412 / inTopicNo.36)  天国、お浄土、涅槃その他
□投稿者/ knowing itself -(2021/03/14(Sun) 16:26:03)
    自己レスです。

    > 天国やお浄土の方がリアルで、その前段階の現世の方がリアルの度合いは低い。

    天国と現世を住居に喩えると、それぞれ別の住居があるのではなく、現世の住居が天国の住居にトランスフォームしていくのだと理解しています。前後で同一性は変わりません。まったく同じ住居です。イエスキリストの体の復活の神秘もこの真理を語っているとも言えます。
    むさ苦しいボロ屋と究極の豪邸がどうして同じなのよくわからんと感じるようでも、むさ苦しいボロ屋にしていたのはマインドの錯覚だったというのが真相でしょう。むさ苦しいボロ屋でも、天国性は微かに滲みでていた。これを濃厚に味わう僥倖に恵まれる場合もあります。しかし天国性が100パーセント露出するのは肉体生を終えてから。

    天国性とはリアル性の別名といってもいいかもしれない。
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