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■11271 / inTopicNo.13)  Re[10]: 三位一体とイエス
  
□投稿者/ knowing itself -(2021/03/02(Tue) 19:25:02)
    勿忘草さん こんばんは

    > しばしば、仏教特に浄土真宗とキリスト教はよく似ていると言われます。
    >
    > それは、行為や功績によって救われるのではなく、絶対者(浄土真宗では阿弥陀如来、キリスト教ではキリスト)の側の働きへの信仰、信心(信受)によって救われるということです。けれども、3点は違うと思います。
    >
    > 1キリスト教は天地創造の神を認めるが、浄土真宗には天地創造の神は存在しない。
    >
    > 2キリスト教の場合、イエス・キリストという具体的な歴史的人物による十字架の贖いという行為に救いの根拠が置かれているが、浄土真宗における法蔵菩薩・阿弥陀如来は具体的な歴史的人格ではなく、超時間的な理念的存在であり、また救いの根拠は贖いではなく修行者の功徳の回向による。
    >
    > 3キリスト教には黙示録における世の終末と新天新地の希望が記されているが、浄土真宗には特に終末論やその後の世界についての展望はない。つまり、キリスト教における「神の国」は終末において現実化するものであるのに対し、浄土真宗の浄土はあくまで他界であり終末が存在しないので終末において現実化するということはない。


    そうだと思います。

    キリスト教において、「地」はそこから逃れるべきもの、消えた方がいいもの、ただ否定すべきものではないんですね。「地」は神に創造された良きものです。もちろん「天」は究極によきものです。浄土系仏教ならお浄土にあたるのが「天」でしょうか。その「天」と「地」が合体して一つになり、最後の完成をみるのが終末ですね。


    > やはり、天地創造と、キリストの受難と贖いをもってはじめて罪人の私も救われたと思うし、終末のキリストの再臨を思えばこそ、この歴史が無意味な反復ではなく何がしかの完成、目標に向かい神の計画の意味のあるものだと思うことができます。
    >
    > もし、仏教のように神の天地創造はなく偶然によるのなら弱肉強食、自然の非情さの説明も納得はできるのですが、それでも、神の愛を信じたいと思います。
    >
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■11272 / inTopicNo.14)  Re[11]: 三位一体とイエス
□投稿者/ knowing itself -(2021/03/02(Tue) 19:43:19)
    No11268に返信(勿忘草さんの記事)
    > ちなみに、私は、イエス様の贖罪の救いも信じますが、実は、毎日、自然と「南無阿弥陀仏」と唱えているのです。
    >
    > すると身体全体が温かく自律神経が休まる気がするので、自然に唱えてしまいます。
    >
    >

    いい習慣だと思います。意味内容はもちろんですが、音自体にも秘密があるのでしょうか。南無妙法蓮華経も音自体にパワーがありますね。

    ちなみに南無〜のキリスト教バージョンを考えてみると、南無神さま、南無キリスト、南無YHWH、南無三位一体、などが一応ありえても、いずれもキリスト教の本質からズレるように思います。南無アッバ(父、お父さんの意)というのがしっくりくる感じです。これだと主の祈りの簡易版ともいえるし、父に対する子の位置をプレゼントされるという、キリストを媒介にした三位一体の交わりへの参加の意味が強調されます。


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■11273 / inTopicNo.15)  Re[12]: 三位一体とイエス
□投稿者/ 勿忘草 -(2021/03/02(Tue) 20:30:32)
    knowing itselfさんこんばんは。
    励ましのメッセージありがとうございます。

    > ■No11268に返信(勿忘草さんの記事)
    >>ちなみに、私は、イエス様の贖罪の救いも信じますが、実は、毎日、自然と「南無阿弥陀仏」と唱えているのです。
    >>
    >>すると身体全体が温かく自律神経が休まる気がするので、自然に唱えてしまいます。
    >
    > いい習慣だと思います。意味内容はもちろんですが、音自体にも秘密があるのでしょうか。南無妙法蓮華経も音自体にパワーがありますね。

    確かに、音の効果は、あると思います。
    実は、南無妙法蓮華経でも試してみたのですが、南無阿弥陀仏ほどには、身体の暖かさを感じることが出来なくて、結局、今夜も南無阿弥陀仏になってしまうんです。

    『阿弥陀仏の本願』についてのサイトがありましたので上げておきます。

    https://xn--udsw7h21snjj.jp/jodohongan.html#section3

    さて、お釈迦様は、なぜ、この世にお生まれになったのでしょうか。
    親鸞聖人は「正信偈」の中で、

     如来所以興出世
     唯説弥陀本願海

    と、おっしゃられています。
    これは、つまり、お釈迦様が、この世にお生まれになった理由は、ただ、阿弥陀如来さまの本願を、この私に、説くためであったとされています。

    そして、南無阿弥陀仏とは、幸せになれる特効薬であり、南無阿弥陀仏をとなえる者を極楽浄土に生まれさせ、成仏させるという救いが完成したのです。
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■11274 / inTopicNo.16)  Re[13]: 三位一体とイエス
□投稿者/ 勿忘草 -(2021/03/02(Tue) 20:45:28)
    正信偈の意味・内容をわかりやすく解説したサイトがありましたので上げておきます。やはり、仏教なので縁起の因果、つまり空に基づいた知恵なのだと改めて感じました。

    https://www.youtube.com/watch?v=5t7167tKnRQ
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■11278 / inTopicNo.17)  うれしいひな祭り
□投稿者/ 勿忘草 -(2021/03/03(Wed) 20:07:58)
    knowing itselfさんこんばんは。

    今日は、ひな祭りです。
    でも、もう直ぐおしまいです。
    ホントに世は無常ですね。

    https://www.youtube.com/watch?v=hFxXuWYcqNY

    長らく阿弥陀様の本願について書き込みしてきましたが、
    仏教って、なんて因果応報の緻密なロジックなのかと改めて思いました。

    対するキリスト教は、やはり、三位一体の慈愛に満ちたある種エネルギーのようなものかなと思います。

    イエス様の十字架による贖罪によって、このように日々生かされている事の幸せ。

    大変、有難いと感じています。

    どのみち、自力での修業は、自分は無理だと思うので、神仏の他力に頼んで
    生きていきたいと思います。




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■11280 / inTopicNo.18)  Re[12]: うれしいひな祭り
□投稿者/ knowing itself -(2021/03/04(Thu) 19:15:44)
    勿忘草さん こんばんは

    > 仏教って、なんて因果応報の緻密なロジックなのかと改めて思いました。
    >
    > 対するキリスト教は、やはり、三位一体の慈愛に満ちたある種エネルギーのようなものかなと思います。
    >
    > イエス様の十字架による贖罪によって、このように日々生かされている事の幸せ。
    >
    > 大変、有難いと感じています。
    >
    > どのみち、自力での修業は、自分は無理だと思うので、神仏の他力に頼んで
    > 生きていきたいと思います。

    自力の修業はともかく、他力を受けいれるためには、意志を研ぎ澄ましていなければならないともいえ、けっしてラクで抵抗のない道ではないと思います。むしろ、逆説的に緊張や決断が要求されるともいえるのでないでしょうか。見方によっては、人間は自力の惰性に陥る方が多いともいえます。


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■11282 / inTopicNo.19)  Re[13]: うれしいひな祭り
□投稿者/ 勿忘草 -(2021/03/04(Thu) 19:23:50)
    knowing itselfさんこんばんは

    > 自力の修業はともかく、他力を受けいれるためには、意志を研ぎ澄ましていなければならないともいえ、けっしてラクで抵抗のない道ではないと思います。むしろ、逆説的に緊張や決断が要求されるともいえるのでないでしょうか。見方によっては、人間は自力の惰性に陥る方が多いともいえます。

    確かに他力だから楽とは言えないかもしれませんね。

    一瞬一瞬の実存的な決断が求められるというのは、そうかもしれません。

    日々、安易に流されることなく、神仏の真の慈愛を素直に受け入れられるよう
    自己を磨いていきたいものです。
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■11286 / inTopicNo.20)  仏道は基本的に自力
□投稿者/ 勿忘草 -(2021/03/04(Thu) 20:22:03)
    「自力」というのは、自らの力によって仏に成ることを目指す道です。

    まずは苦にあえぐ衆生を救くうべく仏と成りたいという菩提心を起こし、
    どのような仏と成ることを目指すのかという「願(がん)」をたて、
    その「願」の通りに成ることを誓います。

    そして「行(ぎょう)」を重ねることで、その願いを完成・成就させることによって、仏と成るに至るのです。

    「行」というのは、八正道や六波羅蜜を基本に様々なものがありますが、心を正し、行いを正していくことと言えば良いでしょうか。

    「仏教」と言えば、やはりこの「行」を修めていくということが一般的です。
    しかしこの「自力」道は、修行は、大変に厳しいものです。

    どんな修行でも自らがすべての煩悩から離れたさとりの境地に到るまで、途中で終わってしまっては、目的達成にはなりません。

    なので、誰にでもできる道ではなく、一握りの勝れた人だけしか「仏と成る」という悟りのゴールに辿り着くことが出来ないのです。

    仏教が目指すのは、苦悩の中にある生命を救うことこそが、一番の目的となります。でも勝れた人しか悟りという境地に辿りつけないのでは、それはいつまでたっても達成されません。

    仏と成るためには、仏になって苦にあえぐ人を救いたいという菩提心と「願」、そしてその願を成就させるための修行が不可欠です。

    しかしごく一般の人たちが、菩提心を起こし、「願」をたて、「行」を修めるということは、そもそもでき得ることではありません。

    このため、それを見通した「阿弥陀仏」が、自分の力で「願」を起こすことも、「行」を修めることもできない人こそ救うというものです。

    それは、阿弥陀仏が私に変わって「願」と「行」を完成させ、それを「南無阿弥陀仏」という言葉に込めて私に届けるという方法です。

    ですから、私はただその「南無阿弥陀仏」という言葉をいただく、つまり念仏していくことによって、死後に阿弥陀仏の浄土に往生し、修行を完成させて仏と成ることが約束されるのです。

    仏教とは、苦の根源である「私」から離れるための教えでありました。

    それを「自力」ではなく「他力」の阿弥陀仏のはたらき、南無阿弥陀仏という念仏に出会うことによって、自分の力ではできないことも最終的には自らの「はからい」から離れることを実現する教えなのかもしれません。
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■11297 / inTopicNo.21)  Re[15]: 仏道は基本的に自力
□投稿者/ knowing itself -(2021/03/05(Fri) 19:12:20)
    勿忘草さん こんばんは

    仏教における人生苦からの解放は、貪瞋痴から解放されない限り、ありえないと考えています。自力か他力かは、貪瞋痴から解放される上でどちらが効果的かによるのではないでしょうか。自力か他力かに分けても意味はないのではとも思います。要は、ターゲットは、貪瞋痴ですから。
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■11298 / inTopicNo.22)  Re[16]: 仏道は基本的に自力
□投稿者/ 勿忘草 -(2021/03/05(Fri) 19:26:39)
    knowing itselfさん こんばんは
    早速のお返事ありがとうございます。

    > 仏教における人生苦からの解放は、貪瞋痴から解放されない限り、ありえないと考えています。自力か他力かは、貪瞋痴から解放される上でどちらが効果的かによるのではないでしょうか。自力か他力かに分けても意味はないのではとも思います。要は、ターゲットは、貪瞋痴ですから。

    へえーっ、knowing itselfさんは、仏教にも造詣が深いのですね。
    私は、まだまだなので、これからも、いろいろ教えて頂ければと思います。
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■11326 / inTopicNo.23)  Re[17]: 仏道は基本的に自力
□投稿者/ 勿忘草 -(2021/03/06(Sat) 18:23:03)
    私たちはキリストを救い主として信じると、はじめは、とかく自分の力で、一生懸命に信仰に励み、努力しようとします。

    しかし、やがて信仰というものは、じつは自分の力でしているものではなく、三位一体の神が自分にたまわったもので、信仰できるように働きかけてくださっているのだ、ということがわかってきます。

    つまり、すべてはキリストの恵みであり、働きということがわかってきます。
    自分の力に頼むのではなく、キリストのお働きに身をゆだねることこそ大切なのだ、と思うようになるのです。

    では、そのように他力に身をゆだねた自分は、完全に消滅してしまい、自分の意志さえもなくなってしまうのかというと、実はそうではないことに、やがて気づき
    そこに"新しい自分"を発見するようになります。

    他力は自力となり、自力は他力となる。そこにはもはや自力も他力もありません。自他両力は一つとなっています。

    こうした渾然一体が信仰の究極の境地なのかなと思うのですが如何でしょうか。







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■11328 / inTopicNo.24)  Re[18]: 仏道は基本的に自力
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/06(Sat) 18:32:07)
    ねえ、勿忘草さん

    あなたの言う「自力」の「自」ってなあに? 「自分」ってなあに?

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