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■No37212に返信(悪魔ちゃんさんの記事) > 今日はいっぱいお喋りしちゃう。 > > No37211のつづき > > No37109の(3)では、 > 〔フッサールが他者に対置されるべき「私」をどのように理解していたのか〕っていう、「私」を問題としてる感で、フッサールの「他我問題」やその発生を見ていく前に、ここんとこちゃんとしとこって。 > でね、 > 資料の中かから「私」を探して見たのね。 > > いろんな「私」、 > 「私自身」(3) > 「この私」(3),(5) > 「自己」(3),(5),(6) > 「自我」(3),(6) > 「純粋自我」(3),(5),(6) > 「先-自我」(5),(6) > 「原-自我」(3),(5) > > カッコ内は資料番号ね(これ、探し出すの大変だったよ)。 > > これらの語、どう区別して見とこっかな〜、って。 > > つづく >
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■37396
/ inTopicNo.1)
Re[43]: つれづれなるままに 14
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□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2024/05/31(Fri) 19:50:30)
No37392
で、第50,51,52節からわたしが抜粋したところの、わたしの見方でのが書けたんだけど、
なんかちょっと、わたし何を分かろうとしてるのか? なんか分かんなくなってきた感じ。
今回の物語りの、わたしの、知りたい、の始まりね。
いま、【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】の第五省察の第50、51,52節を読み返してもう一度考えて見てるんだけど、そうすることになった、きっかけね。
ほら、お喋りいっぱいしてて、ふと、“あれ?何からこの話になったんだっけ?”っていうこと、たまにあるよね。そんな感じの。
でね、
振り返って見て、たぶん、
No37109
の(3)の中の、
…‥‥‥‥‥‥‥
はじめに
他者経験の解明にあたり、フッサールが他者に対置されるべき「私」をどのように理解していたのかを明らかにし、他者経験の問題を受動的総合の問題として再提起し直すこと、それが本論の目的である。
周知のように超越論的相互主観性を構成するために、フッサールは他者経験そのものの現象学的解明を重視し、『デカルト的省察』(1931)(以下『省察』)の第五省察においてその課題に取り組んでいる。しかしフッサールによる他者経験の解明は、K・ヘルトに顕著に代表されるように、まず自己移入による類比化的統覚の理論として、その妥当性について批判される。このフッサールの他我構成論に対する批判には、妥当な面が少なからず認められよう。だがそこで指摘される批判以前に、他我構成論においては、そもそも他者に対置されるべき「私」あるいは「自我」の位置づけが、曖昧なままになっている。この曖昧さは、フッサールの他我構成論全体を貫いており、第五省察の理解にとって重要な焦点となっていると言える。‥‥
…‥‥‥‥‥‥‥
から、だったような気がする。
わたし前に『デカルト的省察』読んだから、それを、わたしので捉えるのに参考になりそう、って思ったのからかも。
このような始まりからの始まりは、
No37314
のところのような気がする。
後でその部分をも一度書き出して見るね。
引用返信
/
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■37392
/ inTopicNo.2)
Re[42]: つれづれなるままに 14
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□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2024/05/30(Thu) 18:34:42)
No37384
のつぎに、
No37289
のを見てく。
わたしが抜粋したところは短いから、それも含めて書いて見るよ。
本文(D)
**********
第52節 共現前は、独自の確認する様式をもった経験である
‥‥「異なるもの(フレムト)〔他者〕」は、自分固有のものの類似物(アナロゴン)としてのみ考えることができる。それは必然的に、その意味の構成ゆえに、私の最初に客観化された自我と私の原初的世界との「志向的変様」として現れる。つまり、他者は、現象学的には自己の「変様」として現れるのだ(私の自己が「私の」というこの性格を受け取る(38)のは、ここで対になることが必然的に現れて、対比が行われることによってである)。したがって、類比による変様において、この自我の具体性はまずその原初的世界として、次に十分に具体的な我(エゴ)として属するものすべてが共現前する、ということは明らかである。言い換えれば、共現前によって、私のモナドにおいて別のモナドが構成されるのである。‥‥(p206)
**********
訳注(38)は、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「他者は、現象学的には私の自己の「変様」だとすると「私」というのが先にあるのでなければならないだろう。ところが、この括弧内では、「対になること」によって初めて「私の」という性格を受け取るのだとすると、それに先立って「私の」という性格がるわけではないことになる。「対になること」によって初めて、「私の」と「他者の」が言わば同時に生成してくるわけである。「我は汝と対比のなかで初めて構成される」(『間主観性の現象学』第一巻)という言い方も、この脈略で理解されよう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
本文にある『自分固有のもの』を、
No37367
で見たように、
「自分」→〈分化した自〉として、「〈分化した自〉固有のもの」ってなるんだけど、
わたしの言う〈自〉っていうの、〈意識の原初自然な固有領域〉ってしてしてるから、すでに〈自〉が固有のものなのね。
〈分化した自〉だから、、その基になってる〈自〉も固有のもの、そして、〈自〉に固有のもの、これを〈体〉ってして見るね。
フッサールは、(私の)「身体は絶対的なこの」って言ってるし。
こういうのから、
『自分固有もの』→〈自と体〉
ってして見た。
で、
‥‥‥‥
(a-D) 異なる(フレムト)もの〔他者〕」は、自分固有のもの《自と体》の類似物(アナロゴン)としてのみ考えることができる。それは必然的に、その意味の構成ゆえに、私の最初に客観化された自我《思考する自》と私の原初《乳幼の頃》的世界との「志向的変様(37)」として現れる。つまり、他者は、現象学的には自己《自と体》の「変様」として現れるのだ(私の自己《自と体》が「私の」というこの性格を受け取る(38)のは、ここで対になることが必然的に現れて、対比が行われることによってである)。したがって、類比による変様において、この自我《思考する自》の具体性はまずその原初《乳幼の頃》的世界として、次に十分に具体的な我《思考する我》(エゴ)として属するものすべてが共現前する、ということは明らかである。言い換えれば、共現前によって、私のモナド《自》において別のモナド《自》が構成されるのである。
‥‥‥‥
ってして見た。
ここんところはい〜ぱい考えたので、このつづきは後にする。
やっぱ、お喋りはわかりやすい言葉で簡単に、がいいよね。
引用返信
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■37384
/ inTopicNo.3)
Re[41]: つれづれなるままに 14
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□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2024/05/28(Tue) 19:05:41)
つぎに
No37287
の、第51節 他者経験には、連合によって構成するものとして、「対になる」という契機が含まれている
から抜粋した(B)(C)のわたしの見方ね。
No37372
で、『原初的な領分』を〈自〉ってわたし見て、
『私の原初的な領分』→「私の《乳幼の頃》的な領分」→〈(私の)自〉
っていまはなってる。(私の)ってカッコでくくったのは、まだ「私の」って言えない頃だから。
あと、
『本来的な知覚』を〈端的な知覚〉、ってして見たから、それでも見て見ると、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(a-B)私の原初《乳幼の頃》的な領分《(私の)自》の内部で、一つの物体《(他者の)「体」》が私固有の身体《〈体〉》(ライプ)=物体《「体」》(ケルパー)に類似するものとして、〔私の身体と〕同様に身体《〈体〉》として捉えられるのは、類比《類似と対比》によってであった。
ここでの類比《類似と対比》による把握に特有なことを特徴づけようとする時、
まず最初に出会うのは、ここでは根源的に創設する原本が常に生き生きと現在しており、それゆえ原創設そのものが常に生き生きと動いたままだ、という特徴である。そして第二に出会うのは、この類比《類似と対比》によって共現前するものは決して現実には至ることはできず、それゆえ、本来的な知覚《端的な知覚》に至ることはできないという、すでにその必然性において知られるようになった特性である。
第一の特性と密接に関連することだが、我《(私の)〈思考する我〉》(エゴ)と他我《(他者の)〈思考する我〉》(アルター・エゴ)は常にそして必然的に、根源的な「対(ペア)になる」という仕方で与えられる。
(a-C)いま私の原初《乳幼の頃》的な領分のうちに一つの物体《(他者の)「体」》が際立って現れ、それが私の身体《〈体〉》と似ている、すなわち、それが私の身体《〈体〉》と現象的に対になるに違いないという状態である場合、その物体《(他者の)「体」》は意味がおしかぶせられることによって、直ちに私の身体《〈体〉》から身体《〈体〉》という意味を受け取るにちがいない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ってなる。《 》内がわたしの見方で書いたところ。
(B)の、
『私の原初的な領分の内部で、一つの物体が私固有の身体(ライプ)=物体(ケルパー)に類似するものとして、〔私の身体と〕同様に身体として捉えられるのは、類比によってであった。』の、「私固有の(ライプ)=(ケルパー)」、これ長いから、訳注(34)に「Leib-Korper」(アキュートアクセントは省略)ってあるから「身体-物体」、これを簡単にまとめちゃって、〈体〉ってするよ。
で、この部分、わたしの見方だけで書くと、
「〈(私の)自〉の内部で、〈(他者の)体〉が私固有の〈体〉に類似するものとして、〔私の身体と〕同様に〈体〉として捉えられるのは、〈類似と対比〉によってであった。」
これと、
No37372
で、
「(他者)は、(私の)志向性において、類比による統覚によって、間接的に共現前(ともに現前するものとして意識させる)してる」
ってわたしして見たのをまとめて見て、
「共現前する(他者の)体は、(私の)体と対比して見たとき、類似している、と間接的に統覚される」
ってなって、これ、もっとわたしにわかりやすくすると、
(a-ABa)〈(私の)前にあるこの(他者の)体(ある物体/fremd)は、(私の)体と比べて見たら、なんか似てる、って感じる。〉
こういうふうに見ちゃったりしてる。 なんかふつうだけど。
(a-B)の、
『ここでは根源的に創設する原本が常に生き生きと現在しており、それゆえ原創設そのものが常に生き生きと動いたままだ』
っていうところ、
わたし、〈自〉が分化して〈自分〉になるってして見てるんだけど、『原本』っていうのを〈自〉ってして見て、大きくなって、〈自分〉になっても〈自〉は『常に生き生きと現存して』る、っていうふうに見てる。
『本来的な知覚』を〈端的な知覚〉ってわたし見たんだけど、
No36191
の「現在化/準現在化/共現在化」に、
〔知覚対象は単なる現前(Prasenz)ではなくつねに付帯現前(Apprasenz)なのである。〕
〔他者は私にとって永遠に思い込みとして以外に近づきえないと言うのである。〕
って見てるみたいなフッサールは、
そして、
No36130
にあるように、
〔想像は対象を非定立のまま保持しつづける。また対象が現前しないがゆえに、想像は知覚の特色である内容充足を成就することができない。〕
そういうふうに、
現前するそれ〈(他者の)体〉は、〈想像されるもの〉や〈記憶〉がつねに付帯されてるため、
「共現前するものは決して現実には至ることはできず、それゆえ、本来的な知覚〈端的な知覚〉に至ることはできない」みたいなことを言ってるんじゃないかしら?
(a-B)で、
『我』を《考える我》、『他我』を《他者の考える我》ってしてわたし見てるんだけど、これって「自我」とは書いてないから、
No37367
でみたような「自我」〈思考する自〉(原初自然な固有領域での思考)のこと言ってるんじゃないような気がしてる。
『第二に出会うのは』ってあるし、ひとまずここで言ってるのは〈考知性〉のうちでの話として見るけど、『「対(ペア)になる」という仕方で与えられる』ってある。
何と何がペアになって、何が与えられるの?みたいなのをいろいろ考えたんだけど、
たとえば、わたし、メルポンに考えられたもの(M)を読んで、わたしそれについて考えて(A)見てみて、わたしのうちになんか浮かんでくる(C)のね。こういうなかで、(M)と(A)が対(ペア)になるという仕方によって(C)がわたしに与えられる、みたいな感じのことなのかも?って。だからわたしのうちに浮かんできた(C)は、(M)と(A)によって間(相互)主観的に構成されている、って見れるかも。
こんなふうに見た。
(a-C)は、
No37372
で見た(a-A-a)のところと似てる。
な〜んか、そこはかとなくで、長くなっちゃてる。まだわたし簡単に見ることができないでいるからかな。
引用返信
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■37372
/ inTopicNo.4)
Re[40]: つれづれなるままに 14
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□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2024/05/26(Sun) 17:59:59)
さ〜てと、
No37367
ってして見たところで、
No15221
の本文(FD-7)は、わたしの見方では次のようになるのね。
今回は(FD-7)を、(A)ってするね。
第50節からの抜粋部分、わたしの見方は、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(a-A)
ここで次のように仮定してみよう。
私たちの知覚の場に他の人間が一人現れる。このことを原初《乳幼の頃》的に還元して言えば、私の原初《乳幼の頃》的自然の知覚の場に或る物体《(他者の)「体」》(ケルパー)が現れ、それは原初《乳幼の頃》的な物体《「体」》としてもちろん、単に私自身《私の自と体》を規定するものの部分(「内在的超越」)にすぎない。この自然と世界のうちでは、私の身体《〈体〉》(ライプ)が、身体《〈体〉》(機能している器官)として根源的に構成されている。また構成されることができる唯一の物体《「体」》(ケルパー)である。だから、そこにある物体《(他者の)「体」》〔他の人間〕はなるほど身体《〈体〉》として捉えられているが、それはこの〔身体という〕意味を、私の身体《〈体〉》の把握からの転移によって得るのでなければならない。しかもそれは、それ特有の身体《〈体〉》性という術語を現に直接的に、それゆえ原初《乳幼の頃》的に実証すること、すなわち本来的な知覚によって実証することは排除するような仕方においてである。私の原初《乳幼の頃》的領分の内部での、あそこにある物体《(他者の)「体」》を私の物体《「体」》と結びつける類似性のみが、前者を他の〔他人の〕身体《〈体〉》として「類比《類似と対比》によって」捉えるように動機づけるための基礎を与えることができるということは、初めから明らかである。
それゆえ、それは或る種の類似にもとづく統覚という把握の働きであろうが、
だからと言って、それは類推〔類比推理〕なのではない。ここで言う統覚(33)とは推理ではないし、思考作用でもない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ってなるのね。
*《 》内はわたしの見方で書いたところで、〔 〕内は訳者による補足説明ね。
『ここで次のように仮定してみよう』っていうの、わたし、〈現象学的還元してみよう〉って見て、すなわち〈乳幼の頃に遡ってそのうちで見て見よう〉っていうことだとして見たのね。
『私の原初的領分』を「私の《乳幼の頃》的領分」ってして見て、
No37287
の(B)にも『私の原初的な領分』ってあるんだけど、
『原初的な領分』をわたし〈自〉ってして見たのね。
いまは〈乳幼の頃の「私」〉で見てるから、
No37367
のDで見てる、っていうことね。
で、
『私の原初的な領分』→私の《乳幼の頃》的な領分→(私の)〈自〉
ってして、
もっとわたし勝手にして見ると、
(a-A-a)「私の《自》の内部での、あそこにある《(他者の)「体」》を私の《「体」》と結びつける類似性のみが、前者を他の〔他人の〕《〈体〉》として「《類似と対比》によって」捉えるように動機づけるための基礎を与えることができるということは、初めから明らかである。」
ってして見ちゃうのね。もっとも『初めから明らかである』かどうかは別としてもよ。
『それは或る種の類似にもとづく統覚という把握の働きであろうが、だからと言って、それは類推〔類比推理〕なのではない。ここで言う統覚とは推理ではないし、思考作用でもない。』
ここんところ、第50節のところに書いてあったんだけど、
No11393
で見たように、
フッサールは二種類の「統覚」っていうのを見てるみたい。わたしのばあい、〈感知性〉の領域でのを「統覚Apperzeption」、〈考知性〉の領域でのを「統握Auffassung」(思考作用による類推・推理によるもの)っていう語で区別することにしてる。
あと、
No15252
のなかの、
〔フッサールが他者論において用いた用語で、固有領野によって対(Paar)をなすこと、そこからさらに私の身体からの意味の移譲にとよって他(他者)の身体という意味を得るようになる現象のことをいう。フッサールは、両身体の類似性にもとづく他者経験を類比化的統覚(analogisierende Apperzeption)と特徴づけるが、それが類比推理(analogieschluß)〔伝統的な「類推説」〕のような思考作用(=能動的・対象化作用)ではないことを強調し、それを「受動的総合の根本形式」と呼ばれる対化の現象として説明しようとした。〕
っていうところとなんか似てる。
ってすると、『類似にもとづく統覚』っていうのを「類比化的統覚」って見てもいいのかな?
あと、『本来的な知覚』ってあるけど、
No36316
で見たように、《端的な知覚》ってして見ようかな、とも思ってる。
ここでわたしの問題は、『類似にもとづく統覚』なんだけど、これ後にする。
なんかごちゃごちゃしてるけどひとまずここの部分についてはこんな感じまでにしとく。
引用返信
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■37367
/ inTopicNo.5)
Re[39]: つれづれなるままに 14
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■
□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2024/05/26(Sun) 12:07:54)
No37366
まで、『デカルト的省察』読んでるなかで、わたしのうちに浮かんできた〈自〉のイメージがだいたい表現できたところで、
【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】の、第50、51、52節からわたしが抜粋した、
No15221
(第50節)
No37287
(第51節)
No37289
(第52節)
をわたしなりに見ていくことにするんだけど、この中に出て来る語、わたし次のようにして見たのね。
「我(エゴ)」をデカルトの「我思考する」の「我」として見て、
・@「我」→〈思考する我〉
「自我」を「自」と「我」に分けて、@として見て、
・A「自我」→〈思考する自〉
こう見たとき、わたし思ったんだけど、〈自〉のうちに現れるものとして、〈思考する〉ということと、〈感じる〉ということの両方が現れてくるんじゃないかしら?って。記憶もあるけど、これらを“なかだちをする場”があってそれを〈自〉って。
No37365
でわたし見ているように、乳幼の頃の(未分化の)自のうちには〈思考の芽〉みたいなのがすでにあって、それは大きくなってもそういうのあって、それは無意識的なのかもしれないけどあって、そういうのをフッサールは「純粋自我」って言ってるんじゃないかしら?
No37109
の資料(3)(5)で、
『ベルナウ草稿』あたりから、フッサールの「我」−思考する我(能動的総合)は、「自我」〈思考する自〉から〈感じる自〉(受動的総合)へと志向し始めた、みたいなこと言ってるんじゃないかしら?(3)に〈省察する自我〉、(5)に〔現象学する自我〕ってある。
資料の中では「自己」っていうのをどういう意味で日訳して区別してるの?これわたし問題だったんだけど、やっぱ日本語で考えて見て、「自」と「己」に分けて、「己」を〈体〉ってして見たらどうかな?って。
あと、「私自身」を、〈私の自と身体〉として見て、わたし「身体」を簡単な語で〈体〉って言ってるから〈私の自と体〉ね。
No37314
の(3-d)では「私自身」、(52-D)では「私の自己」って日訳されている。たぶん同じ語をこのように訳してるんだとして見て、
・B「自己」→〈自と体〉≒「私自身」→〈私の自と体〉
ってして見ることにした。
「自分」っていうの、
No31867
で見たように、わたしのばあい、
・C「自分」→〈分化した自〉
ね。
わたし、「私」って言うのを〈精神(意識)〉と〈身体〉に分節して見てる。〈身体〉を〈体〉ってするね。
・Bのとだいたい同じ意味になって、
・C「自己」→〈自と体〉≒「私自身」〈私の自と体〉≒「私」
ってなるんだけど、Cのように見てるから、
・D乳幼の頃の「私」=〈自と体〉あるいは〈自+体〉
・E大人になった「私」=〈自分と体〉あるいは〈自分+体〉
ってして分けて見てる。
この二つをまとめると、
「私」=〈自(分)と体〉あるいは〈自(分)+体〉
No37109
の(3)に、
〔フッサールの現象学的分析は、常に維持される現象学的還元という反省の舞台上で、私の諸経験に関して行われる意識の志向的本質分析である。〕
ってあった。
そして、
No37189
で見たように、
わたし、現象学で言う「還元」というのを、〈乳幼のころに遡ってそのうちで〉ってしてわたし見てる。
日訳で「原初」っていう語が出てきてるけどこれを、〈乳幼の頃〉ってして見て、
・F「原初」→〈乳幼の頃〉
ってして見た。
あと、第50節からのでは、現象学的還元してるなかでの話だと思うから、Dの方で見ることにした。
「物体(ケルパー)」と「身体(ライプ)」と、区別しているから、
・G「ケルパーとしての物体」→「体」(これを「カラダ」って読んで)
・H「ライプとしての物体(身体)」→〈体〉(これを「からだ」って読んで)
って言い表すことにして区別して見た。
フッサールの言う「モナド」っていうの、
No37183
から、〔主体的な働きだけでもなく、対象でもなく、それらが不可分に媒介的な相関の出来事そのもの〕から、
〈自〉をモナド的な場――〈間に立ってなかだちをする場〉みたいなのってして見て、
・I「モナド」≒〈自〉
これ、〈間の係(かかり)〉とも呼ぼうかな、とも思ってる(「間係」って言うのネットで調べたんだけどこういう語はないみたいだからわたし勝手に作っちゃたのね)。
「類比」っていうの、【「現象学事典」弘文堂2014】にあった、
No15252
「対化(ついか)」
No15273
「連合」
から、簡単に、
・J「類比」→〈類似と対比〉
ってして見ることにした。
「共現前」っていうの、
第50節のp192に、
『共現前(ともに現前するものとして意識させること)』
ってあったから、こう見とくことにした。
なんか長くなっちゃたけど、ようするに@〜Jのようにして見ていくよ、っていうことね。
引用返信
/
返信
削除キー/
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■37366
/ inTopicNo.6)
Re[38]: つれづれなるままに 14
▲
▼
■
□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2024/05/26(Sun) 10:00:52)
No37365
のついでに、
こんなのも描いて見たよ。添付します。
大きくなったときの、私Xと私Yがお喋りしてる感じのね。
私Xに固有の(意識のなかの)自と(身)体があって、私Yに固有の(意識のなかの)自と(身)体がある、っていうイメージ。
私Xと私Yのそれぞれに固有の自と体がある、っていうふうに見る、っていうこと。
あと、
No36861
で見たように、
〈自〉を欲望や情の場とも見てる。
だから、〈私Xの自〉は〈私Xの欲望・情の場〉、〈私Yの自〉は〈私Yの欲望・情の場〉っていうこと。
649×285 => 600×263
25.jpg
/
42KB
引用返信
/
返信
削除キー/
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■37365
/ inTopicNo.7)
Re[37]: つれづれなるままに 14
▲
▼
■
□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2024/05/26(Sun) 09:57:16)
ここからは、わたし勝手なのになるよ
わたし、〈意識の原初自然な固有の領域〉に〈自〉って名づけたなんだけど、これ、
No36717
に書いたように、
【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】の、第50、51、52節あたりを読んでるときに想いつたのね。
ずーっと
No37109
の(1)のところ考えてたんだけど、やっとお喋りできそうになってきたので。
今回の資料の中には、「自我」「純粋自我」「先-自我」「原-自我」っていう日訳あるんだけど、
No37236
でわたしが感じたように、
「自我」っていう語に固執しちゃうと、わたしのなかではではちゃんと区別できなくなっちゃうのね。
「私」にまつわる語、「自我」「自分」「私自身」みたいなの、一字に分けて見たりしてるのね。
「自我」は「自」と「我」に、「自分」を「自」と「分」に、「私自身」を「私」と「自」と「身」に、みたいに。
こういうの、日本語で見てるから、外人さんには分け分かんないと思うけどね。
フッサールのいう「モナド」、
No37183
のような、
これ、意識の領域として見て、わたし最近、フッサール的モナドみたいなのを〈自〉ともしてる。
だから、〈自〉っていうの、意識のなかの、〈原初自然な(その人)固有の媒介の場(領域)〉みたいな感じにもなってる。
こういうのがが存在する、っていうことでね。
No31867
でわたしが想像して見たの、
身体の成長と同じように意識(精神)も成長するとして見て、意識の、〈自は分化する〉っていうイメージをまた描いて見たので添付しま〜す。
乳幼の頃の〈未分化の自〉のうちには、大きくなって区別されるようなもの(たとえば、感-知覚/思考/記憶)に成長する“芽”がすでに〈未分化の自〉のうちにはある、っていうの思いついたから。
〈未分化の自〉の原初的なのを〈自〉ってして、大人になってもこの〈自〉は存在しつづけてるのね。
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■37343
/ inTopicNo.8)
Re[36]: つれづれなるままに 14
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□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2024/05/22(Wed) 19:26:41)
ごめん、
政治家さんとマスを同レベルで見ちゃったら失礼かもね?
マスは政治家さんの糞、このの方が正しかったかも?って。
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■37342
/ inTopicNo.9)
Re[35]: つれづれなるままに 14
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□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2024/05/22(Wed) 18:22:58)
哲学者って、意外と思考が幼稚園児なみなのかも?って。
ん〜ん、科学者の方はどうかと言えば〜、思考がプアーになっちゃのかな?って。
政治家さんやマスはどかっていうと〜。 ん〜ん、そうね、家畜かな?
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■37314
/ inTopicNo.10)
Re[34]: つれづれなるままに 14
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□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2024/05/17(Fri) 18:55:45)
もうちょっと、
No37289
に関連して、
No37109
の(3)のなかに、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(a)他我構成論では、〈省察する自我〉は固有領域への還元を行うとされた。だが、超越論的経験の領野を「私に固有の」領域へと還元する操作は、〈省察する自我〉の持つ「私」という意味を前提にしなければ不可能なのである。
(b)以上のようにフッサールによる他者経験の志向的構成能作の解明は、「私」という意味について不問に付されたまま分析が進められている。その結果、他我構成論においては、超越論的自我や固有領域への還元において自己統覚された精神物理的自我(あるいはモナド)といった自我概念が、「私」あるいは「自我」という表現を介して〈省察する自我〉に静態的分析の構造上結びついており、それらが「私の」超越論的自我や「私の」モナドであることについては分析の俎上に上ることがない。
(c)そのため、フッサールの分析の各段階における自我概念は、「私」という意味をめぐって交錯し重なり合い、概念的動揺をきたすこととなるのである。こうして我々は、他者との関係性を既にそのうちに孕むこの「私」という意味が、他我構成論のどの段階において問題とされているのか不明瞭なまま他者経験の分析を行うこととなり、絶えず混乱した状況におかれることとなる。
(d)我々がその混乱した状況にはっきりとした答えを与えられるのは、「他者(Andere)は、現象学的には私自身の変容態として現れる(私自身は、今や必然的に生じ対照をなす対化によって、この私という性格を自らの側で獲得する)」(I,144)というフッサールの対化に関する記述に出会うことによってである。ここでわれわれは、初めて明確に「私の」という性格が、対化によって獲得されることを知ることができる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ってあった。
流れ的に切りのいいところを書き出したんだけど、
(d)にあるような、小林さんにはっきりとした答えを与えた、フッサールが言ってる(I,144)のところ、
(3-d)〔他者(Andere)は、現象学的には私自身の変容態として現れる(私自身は、今や必然的に生じ対照をなす対化によって、この私という性格を自らの側で獲得する)〕
なんだけど、
No37289
の本文(D)の
(52-D)『他者は、現象学的には自己の「変様」として現れるのだ(私の自己が「私の」というこの性格を受け取るのは、ここで対になることが必然的に現れて、対比が行われることによってである)。』
っていうところとよく似てる。たぶん同じところなんだと思う。
訳し方として「変様」が「変容」、「自己」が「私自身」だったりしてるけど。
「変様」については、
No36130
に出てきる。
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■37313
/ inTopicNo.11)
Re[33]: つれづれなるままに 14
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□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2024/05/17(Fri) 18:45:14)
今回のわたしの物語りのメインテーマに入る前に、ちょっとお喋り。
No37310
のつづき
No37289
の訳注(38)に、
「我は汝と対比のなかで初めて構成される」(『間主観性の現象学』第一巻)
ってあるけど、
No37237
のなかにも
「我と汝の合致」
ってあった。
それにしても、わたしの物語り、おもしろくないかな〜?
ちょっと気になっちゃりして。
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■37310
/ inTopicNo.12)
Re[32]: つれづれなるままに 14
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□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2024/05/16(Thu) 18:50:24)
【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】の中の第50,51,52節からのわたしの抜粋が書けたんだけど、いまのわたしが想定しているのを先に書いとくと、
No37289
の訳注(38)にある、
〔「対になること」によって初めて、「私の」と「他者の」が言わば同時に生成してくる〕
っていう見方ね。
ってすると〜、
何と何が対(つい)になるのかしら?
これが今回のわたしの物語りのテーマになるのかな?
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