| pipitさん
レスをありがとうございます。
>ふくろうさんの投稿 >No18277 >>先に述べたように、私の主張は、 >>私は私の世界である ⇔私は私の言語世界である >>というものです。 >>なので、ここの“私”とは、当然、世界の限界たる私、形而上学的主体であって、<
>上のふくろうさんの意見は、カント事典にあった下記の文章の内容と整合するものだと思える、とpipitは思ったのですが、違いましたでしょうか?
>pipitの投稿 >No18295 >『(略) >通常「限界」は、限界づけられる当のものからみられがちであるが、「限界づけるものは限界づけられるものから区別されねばならない」[B543]とすれば、その意味で「経験は自らを限界づけない」。それを限界づけるものは「純粋な悟性的存在者の領域」なのである[Prol.§59]。』
>全然違ったらすみません! *********** 私はカントについて責任をもって言う自信はありません。 それを前提で言いますが、 たぶん、pipitさんのおっしゃるとおり、「限界」という概念については、基本的に同様なものとしてもよいのではないでしょうか。 「純粋な悟性的存在者の領域」というのは、ウィトゲンシュタインの言い方では、「超越論的」な領域、ということになるのではないかなと思います。 そして、それは、語りえず、示されるもの(形式として)、とも考えたと思います。
どうでしょう? ピンとくるものありますか?(笑)
こちらこそ、違っていたらすみませんm(__)m
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