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■18574 / inTopicNo.85)  pipitさんへ
  
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/11/08(Mon) 21:56:30)
    pipitさん

    レスをありがとうございます。


    >ふくろうさんの投稿
    >No18277
    >>先に述べたように、私の主張は、
    >>私は私の世界である
    ⇔私は私の言語世界である
    >>というものです。
    >>なので、ここの“私”とは、当然、世界の限界たる私、形而上学的主体であって、<

    >上のふくろうさんの意見は、カント事典にあった下記の文章の内容と整合するものだと思える、とpipitは思ったのですが、違いましたでしょうか?

    >pipitの投稿
    >No18295
    >『(略)
    >通常「限界」は、限界づけられる当のものからみられがちであるが、「限界づけるものは限界づけられるものから区別されねばならない」[B543]とすれば、その意味で「経験は自らを限界づけない」。それを限界づけるものは「純粋な悟性的存在者の領域」なのである[Prol.§59]。』

    >全然違ったらすみません!
    ***********
    私はカントについて責任をもって言う自信はありません。
    それを前提で言いますが、
    たぶん、pipitさんのおっしゃるとおり、「限界」という概念については、基本的に同様なものとしてもよいのではないでしょうか。
    「純粋な悟性的存在者の領域」というのは、ウィトゲンシュタインの言い方では、「超越論的」な領域、ということになるのではないかなと思います。
    そして、それは、語りえず、示されるもの(形式として)、とも考えたと思います。

    どうでしょう?
    ピンとくるものありますか?(笑)

    こちらこそ、違っていたらすみませんm(__)m

引用返信/返信 削除キー/
■18577 / inTopicNo.86)  Re[16]: 主体
□投稿者/ パニチェ -(2021/11/08(Mon) 22:19:12)
    No18551に返信(おくたがわさんの記事)
    > ・「フクロウはもういない」を意味する命題を私が書いて(写像を行って)も、命題の中にそれを書いた主体は出てこない。
    > 「私が『フクロウはもういない』と記述した」と書いても、その「 」内は事態の写像であり、その写像を行った主体は依然として出てこない。そこに書かれている私は世界の中に登場する多数の人間の一人であり客体である。語られると主体ではなくなる。
    > これらの写像される事態の総体が世界である以上、世界の中に(真の)主体はない。

    > ・世界の開闢点である特異な私を言語で語ろうとすると、多数存在する人物の一人である「私」になってしまう。

    (彡゜o゜彡)すんばらしぃ〜!

    ちなみに以下は全く関係のない話というか愚痴めいたものですが。。。
     
    世界が開闢する地点に関して、ビッグバン宇宙論の特異点を〈私〉の点としてYahoo!掲示板で十数年前に命名したのは間違いなく永井均氏より先だったのですが、永井氏も「特異点」という表現を用いるようになったのはビックリポンですたw

引用返信/返信 削除キー/
■18578 / inTopicNo.87)  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/11/08(Mon) 22:31:13)
    ふくろうさん、レスありがとうございます。


    No18574
    > ***********
    > 私はカントについて責任をもって言う自信はありません。
    > それを前提で言いますが、
    > たぶん、pipitさんのおっしゃるとおり、「限界」という概念については、基本的に同様なものとしてもよいのではないでしょうか。
    > 「純粋な悟性的存在者の領域」というのは、ウィトゲンシュタインの言い方では、「超越論的」な領域、ということになるのではないかなと思います。<

    投稿した時点では、
    「純粋な悟性的存在者の領域」というのは、形而上学的領域とpipitは捉えていました。


    > そして、それは、語りえず、示されるもの(形式として)、とも考えたと思います。<

    なるほどです、そういう捉え方もあるのか、と、思いました。
    カント事典での記述は形而上学領域かなと今でも思うのですが、
    カント事典切り離して、ふくろうさんの見解として話すなら、

    、、、わたしはウィトゲンシュタインのこと何も知らないので、とりあえずカントの形式から推測してみますね、

    超越論的領域、例えば時間と空間は、現れたものの形式としてしか表象されないように、
    形としてこの世界に生じる形式としてしか表れ得ない、かな、と思いましたが、

    全く違ったらすみません。

    でも、お話しきかせていただいておもしろかったです、ありがとうございます(^_^)

引用返信/返信 削除キー/
■18579 / inTopicNo.88)  超越論的主体
□投稿者/ pipit -(2021/11/08(Mon) 22:42:57)
    ザビビのふくろうさんへ 補足

    No18578
    そういえば『超越論的な主体』と言う言葉が、『純粋理性批判』の初版のA356あたりに出てくるようで、この段落をまとめた中山元先生は、小題として
    【L15〈わたし〉という超越論的な主体の像の空虚さ】とありました。

    ちょっとわたしにはまだ、形而上学領域になるのか超越論的領域になるのかわからなくなってきましたが、
    カント事典のまた別の一部を引用しておきますね。

    No18294
    >ところで「限界づけるものはまったくそれの外にあるのでなければならない」[Prol.§59:Refl.Nr.4958、]XV41]。
    すなわちそれ自身はもはや感性的なもの、現象的なものではなく、いわば悟性的存在者(Verstandeswesen)、可想的な本体的存在者(ヌーメノンNoumenon)であるだろう。
    これが「限界概念」にほかならない。
    すなわち、この「ヌーメノンという概念は、感性の越権を制限するための単なる限界概念であって、したがって消極的にのみ使用される」といわれるのである[B311]カントはこの言葉に続けて、それを「積極的なもの」として定立することを戒めている。これは広義の理論理性の見地においてはもっともなことといえよう。
    だがこれも批判(的分別)の観点からすれば、同じ理性(の使用)でも実践理性の見地においてならば先に戒められた「感性界と悟性界(叡智界)」という二つの世界の対比はここでは可能となり、「現象人(homo phaenomenon)」と「本体人(可想人)(homo noumenon)」という対比が積極的な意味で語りうることとなるのである。<

    ザビビのふくろうさん、ありがとうございまーす
引用返信/返信 削除キー/
■18585 / inTopicNo.89)  pipitさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/11/09(Tue) 00:17:11)
    pipitさん、レスありがとうございます。


    No18574
    >> 私はカントについて責任をもって言う自信はありません。
    >> それを前提で言いますが、
    >>たぶん、pipitさんのおっしゃるとおり、「限界」という概念については、基本的に同様なものとしてもよいのではないでしょうか。
    >> 「純粋な悟性的存在者の領域」というのは、ウィトゲンシュタインの言い方では、「超越論的」な領域、ということになるのではないかなと思います。<

    >投稿した時点では、
    >「純粋な悟性的存在者の領域」というのは、形而上学的領域とpipitは捉えていました。


    >> そして、それは、語りえず、示されるもの(形式として)、とも考えたと思います。<
    >なるほどです、そういう捉え方もあるのか、と、思いました。
    >カント事典での記述は形而上学領域かなと今でも思うのですが、
    >カント事典切り離して、ふくろうさんの見解として話すなら、

    >、、、わたしはウィトゲンシュタインのこと何も知らないので、とりあえずカントの形式から推測してみますね、

    >超越論的領域、例えば時間と空間は、現れたものの形式としてしか表象されないように、
    >形としてこの世界に生じる形式としてしか表れ得ない、かな、と思いましたが、

    >全く違ったらすみません。
    *****************
    ふむふむ、面白いですね。
    以下は、あくまで私の解釈、私見として述べますね。

    世界の限界、条件にあたるものは、ウィトゲンシュタインによれば
    世界のアプリオリな形式、であり、かつ、超越論的なるもの、と言ってよいと思います。
    ただ、それらは、扱い方により、形而上学的対象であったり、そうでなかったりします。
    あくまで現象を記述する上での表現形式としてそれが示されている場合、それは非形而上学的です。
    しかし、その形式自体を対象化し、いわゆるメタ言語によって語った場合、それは形而上学的対象として扱われることになる、と思います。
    自我、時間、空間、といったものはそのような意味で、形而上学的対象としても、そうでないものとしても扱われ得るものだと思います。
    だから、可能性としてですが、カントの言う「純粋な悟性的存在者の領域」というのは、ウィトゲンシュタイン的に言えば、世界のアプリオリな形式を対象化(イデア化)して(メタ言語で)語るとき、その語りの空間としての形而上学的領域のことである、というふうに解釈できないでしょうか?
    無理ありすぎ?(笑)
    でも、カントにとって、「絶対の私」のみならず、「絶対の今」、「絶対の此処」というのは、形而上学的対象ではないのかなあ?

    pipitさん、沼の深みに突き落としたとしたら、許されよ〜

引用返信/返信 削除キー/
■18587 / inTopicNo.90)  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ 時 -(2021/11/09(Tue) 04:21:20)
    2021/11/10(Wed) 01:49:03 編集(投稿者)

    失礼しました。★マークの箇所を訂正しました。(論理命題が→論理的真理が)

    No18571 ザビビのふくろうさんへ

    レスをありがとうございます。

    > ではなぜ書いたのかというと、第一に私が単に書きたかったのと(笑)、
    > 第二には、ここを突っ込んでくれる人がいるんじゃないかという、いわば釣りとして書いておいたんですよね。
    > 理詰めに書くより、むしろこういう書き方のほうが直感的に響くんじゃないかと。
    > たぶん、引っ掛かりを覚えた人は他にもいらっしゃったと思いますが、突っ込んでくださったのは、旧知の時さんだけ、というオチになりましたね(笑)
    > ひょっとすると、私の意図に気付いて乗ってくださったとか^^

    まさかまさか。見事に釣られたようですが、単純に感じたことを書きました。(^^)

    > まあ、それはともかく、「私は私の言葉である」についての説明までは届かないと思いますが、せっかく仏教の考えをご教示くださったので、『論考』の思想との比較を少し詳しく行ってみたいと思います。

    > 先に、一応前提となる『論考』の言語観について述べておいたほうがいいかもしれません。
    > 『論考』で言われる「言語」というのは、あくまで真偽二値の可能性をもつ文、すなわち命題(の全体)のことです。
    > また、それと相即して、「論理」もまた古典論理学と呼ばれる論理学が扱うものに限られます(仮に二階述語論理を含める場合も、2値論理)。
    > だから、例えば、SumioBabaさんの世界を記述する可能世界論理のような、非古典論理は全く念頭に置かれていません。
    > 以下でいう「言語」とは、基本的に『論考』が前提する、このきわめて限定された意味での命題=言語を意味するものとします。

    > その上で、どうしても押さえておくべきことを述べます。
    > 命題は、論理的命題(恒真命題・恒偽命題)と経験命題に分けられます。
    > 例:経験命題:今、雨が降っている
    >   恒真命題:今、雨がふっている、または、今、雨が降っていない
    >   恒偽命題:今、雨が降っている、かつ、今、雨が降っていない
    > このうち、『論考』で言われる「語る」言語は経験命題のみであり、これは真偽両方の可能性を有する命題です。
    > それに対し論理的命題は「意味を欠く」と言われ、恒真命題(同語反復命題=トートロジー)は真でしかありえない命題、恒偽命題(矛盾命題)は偽でしかありえぬ命題です。
    > 経験命題の真偽は経験的検証によって定まります。
    > (今、雨が降っているかどうか実際に確かめて真偽を決定する)
    > 対して、論理命題は経験的検証を必要としません。
    > (「今、雨が降っているか降っていないかどちらかである」、というのは実際に調べるまでもなく真でしかありえない。
    > 「今、雨が降っていて、かつ、降っていない、というのは偽でしかありえない)、
    > これら論理命題の真偽は真理条件(意味)の計算(論理計算)によって定まります。いわば意味の計算により、論理的真理(恒真)、あるいは論理的矛盾(恒偽)は「示される(証明される)」のです。

    ご丁寧に、論理の基礎の基礎であろう事柄のご説明をありがとうございます。

    論理的命題(恒真命題・恒偽命題)の恒真命題はトートロジーであり、恒偽命題はあり得ない設定ということで、論理的命題は排除ということですね。残るのは経験命題であり、論考で言われる「語る」言語は、二値での判断となる経験命題のみということだと理解しました。

    少し調べてみましたが、分析哲学では、分析命題、経験命題、価値命題等に分類されるのでしょうか。もはやこの時点で、頭ぐるぐるです。やはり専門分野は、当たり前ですが、専門的な表現での分類や定義があるのですね。

    論考は、経験命題のみでの判断ということを教えていただいたところで、雑談として、仏教での分類を書いてみたいと思います。

    以前にも書いたと思いますが、四句分別( 1.Aである。2.非Aである。3.Aであり、非Aである。4.Aでなく、非Aでもない。)をすべて否定します。つまりは、四句否定(Aである事はない。非Aである事はない。Aであり非Aである事もない。Aでなくまた非Aでないのでもない。)となるようなのですが、基本的にはこれに当てはめての仏典読解はしていませんし、する必要もないようです。ただ、後で当てはめてみるとこれに当てはまるということのようですね。

    > 言語によって、(全体としての)世界の存在を語ることはできません。
    > 世界の存在、すなわち「世界は存在する」は、論理的真理として前提されます。
    > 逆に、「世界は存在しない」という命題は恒偽命題(論理的にありえない)となります。
    > つまり、「世界は存在する」という命題は、偽の可能性が存在しないので、真でしかありえないことになり、いわば「独身者は結婚していない」と同様に、何も語っていないことになります。すなわち、経験的内容を欠いている(カント的に言うと、アプリオリかつ分析的真理)のです。

    ここでお尋ねしたいのですが、上記の「世界は存在する」は、論理的真理として「世界は存在しない」は、恒偽命題として前提しているのは理解できますが、ここでいう「世界」と「存在」の定義的なものは何かあるのでしょうか?ここでいう「世界とは」「存在とは」ということですが、この辺りは、一般的な当たり前の理解とすることを前提としているということでしょうか?

    ちなみにですが仏教では、世界という表現はされていますが、その明確な定義記載はないようです。代わりに、世間(苦が生起滅尽すると認識された世界や五妙欲の世界、無色界の非想非非想処まで)とか、一切(眼と色、耳と声、鼻と香、舌と味、身と触、意と法)といった記載があります。ここで勝手に定義するならば、世界とは一切である。ではいかがでしょうか?

    仏典内で存在すると説かれるのは、無常なる五蘊(色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊)であり、存在しないと説かれるのは、常住なる五蘊(色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊)です。ここで勝手に定義するならば、存在とは変化(無常)である。ではどうでしょうか?

    ですので「世界は存在する」は、「一切は変化(無常)である」になり、「世界は存在しない」は「一切は無変化(常住)である」になりそうです。どちらにしても当たり前ですので、論考でいうところの論理的命題になりますね。

    ここで私がよく理解できないのが、もしもその当たり前の「世界は存在する」という★論理的真理が「一切は変化(無常)である」ならば完全に理解に至れるのですが、ここでご説明していただいている論理的真理としての「世界は存在する」というのが何を根拠にして論理的真理としているのかが理解できないのですね。

    屁理屈をこねまくりでしょうか(笑)しかし、人間に認識できる出来ないにかかわらず、例えば見ている景色の山という色は常に変化し続け、空も雲も、飛ぶ鳥も、小川等々もすべて常に変化していますし、それを見ている側の私の眼球も視神経もシナプスも常に変化し続けていますね?一切は無常ならですが。同時に同じ富士山と呼称される山という色を、同じ地点で同じ時に同じものを見て認識しているという存在はないはずです。間違っていますかね?ご指摘いただければ幸いです。変かもしれませんが、この辺りが哲学という分野での以前よりの大きな疑問でした。どのようにザビビのふくろうさんがお考えなのかを、よろしければ教えていただければと思います。

    > というわけで、世界全体の存在は、言語が成立するため、何事かを語るための条件、限界なのです(そもそも一切何もない(無)なら語りは不可能)。

    一切(眼と色、耳と声、鼻と香、舌と味、身と触、意と法)が何もないならば、何も語ることはできませんね。ですので一切の存在は、言語が成立、何かを語るための条件であり、それが限界であるということですね。理解できます。

    > そしてこのことは、「世界は存在する」という命題が論理的真理であることによって示されています。
    > 要は、世界の存在は語られるものではなく、示されるものである、ということです。
    > また、言い換えると、世界の存在は語りえない、ということです。

    「世界は存在する」を「一切は無常」に変換してみますと、なるほど語りえませんね。

    > したがって、逆に、語りうる「存在」は、世界(時間空間)内の存在者が、いついつ、どこどこにある、ということに限られます。
    > そうすると、日常的にとらえられる自分、私については、世界内に他者と共に存在する一存在者であり、たとえば「私は今、京都の龍安寺にいる」と語ることができます。つまり、この文は真偽の両方の可能性があって、本当かどうかは確かめてみなくてはわかりません。
    > したがって、この私は「語りうる私」です。

    ここの解釈として、私という存在を一瞬でも常住的なもの=日常的にとらえられる自分(世界(時間空間)内の存在者が、いついつ、どこどこにある)としたのであれば、それの真偽が他者によっても二値で確かめられるということですね。この場合に「語りえない私」から「語りうる私」に至るという理解でよろしいでしょうか。

    > それに対して、『論考』で言われる形而上学的主体としての私というのは、
    > 私=世界
    > が成り立つものです。
    > で、先ほど世界の存在は語りえない、と先に述べました。
    > ゆえに、形而上学的主体としての私の存在も、語りえないのです。

    仏教の思想に照らしての今までの私の理解が正しいのであれば、理解できそうです。

    > 私が表象する(語る、思考する、知覚する)とき、私は私の表象そのものであって、表象する主体(実体)ではありません。

    常住的な私(語りうる私)の場合には、その二値での真偽判定ができ、私が表象する(語る、思考する、知覚する)ときには、私は私の表象そのものであって、表象する主体(実体)ではなくなるということでしょう。

    > そして世界が私の表象であるなら、当然、私は世界である、ということになるわけです。

    「世界が私の表象であるなら、当然、私は世界である、ということになる」というのは、理解できそうですが、しかしここでの「私は世界である」は、誰の言葉なのでしょうか?(笑)世界が私の表象であるならば、私は世界であるので、その私は何も語れないのではないでしょうか?この場合語っているのは、常住的な私(語りうる私)ですね。

    > 実は、『論考』のもとになった『草稿』に、
    > 「表象する主体は恐らく空虚な妄想だろう」
    > という言葉があります。

    はい。「表象する主体は恐らく空虚な妄想だろう」は、感覚的に理解できそうですね。

    > また、『論考』には次の主張もあります。
    > 6.321 人間の魂の時間的な不死性、つまり魂が死後も生き続けること、それはいかなる仕方でも保証されてはいない。しかしそれ以上に、たとえそれが保証されたとしても、その想定は期待する役割をまったく果たさないのである。いったい、私が永遠に生き続けたとして、それで謎が解けるとでも言うのだろうか。その永遠の生もまた、現在の生と変わらず謎めいたものではないのか。時間と空間のうちにある生の謎の解決は、時間と空間の外にあるのである。

    > このように見てくると、やはり時さんがおっしゃったことと、かなり共通する部分があるように思われますね。

    論考という難しい哲学書のさわりだけの解説をしていただきましたが、仏教思想とよく似た部分がありそうですね。・・しかし当たり前のことですが、私ではこの難しい哲学書の理解には至らないようにも感じます。(TT)

    > だいたい、本来東洋論理的な思考であるはずの時さんも、SumioBabaさんや私の理屈に対して、むちゃくちゃ理解力ありますしね(笑)

    うーん、どうでしょうか(笑)いい加減な理解でなければよいですが。

    > 実は、私は仏教系の著作を読むときは、特に西洋論理的批判的態度で臨むのではなく、
    > できるだけ、その仏教思想そのもののロジックを理解しようとしますので、仮に西洋論理が適用不可でも困りはしないんです。これは、分析哲学以外の大陸系哲学についても同じなんですが。

    これは初耳だと思いますが、うれしいですね。私自身も仏典を読むときには、心を白紙にしてできるだけそのままを理解しようとしています。その仏典群の中に潜み絡み合うロジックが観えた時、それは突然に現れたりします。(笑)

    > ただ、ご存じかどうかわかりませんが、石飛道子さんという方のように、西洋論理学を理解しないまま、仏陀論理は西洋論理を超えている、みたいに言う方がいらっしゃると、いやいやちょっと待ってよと言いたくもなるんですよね。

    竜樹がお好きなM先生ですね。お名前だけは存じています。

    > なんか、時さんのレスの応答になっているかどうか、わかんなくなってきましたので、このあたりにしたいと思います。 いつものグダグダ長い返信、申し訳ありません。

    いえいえ。こちらこそ訳の分からない内容になっているやもしれませんが、ご容赦ご指摘いただければと思います。

    >もしもザビビのふくろうさんが、長年にわたり熱心に仏教思想にはまっていたのであれば、その思想体系は解き明かされていたのではないだろうかと、ふと思う時があります。

    > いやいやいや、さすがにそれはありません(笑)

    ありませんか(笑)それは残念です。

    では、ご返信をありがとうございました。
引用返信/返信 削除キー/
■18588 / inTopicNo.91)  Re[17]: 無我
□投稿者/ みのり -(2021/11/09(Tue) 07:46:02)
    No18566に返信(パニチェさんの記事)

    パニチェさん、レスありがとうございます。

    私が書いたものについて、「そうです。」をいただいたところが多かったので、方向性としてはぜんぜん違ってはいないのだな、と安心しました。
    これも、なかなか理解しにくい私に対しても、親切に相手してくださるパニチェさんのおかげです。
    ほんとうにありがとうございます。^^


    >>真ん中の透明というか浮き出される三角形は、『論理哲学論考』で「主体だけが論じることのできないものとなるであろうからである。」と書かれている、その形而上学的主体についてである、ということ。その喩えとしてパニチェさんが出された、ということですね。
    >>これであってますか?
    >
    > はい、PN解釈として合ってます。
    > 少し補足すると論考で語りえないものとしているのは形而上学的主体の他にもあります。
    > 論考は言語と論理を世界の写像とした言語論を前提としてさまざまなことを述べていますが、写像が成立しない対象は語りえないということになります。
    > あくまで上記は前期のウィトゲンシュタインの主張であり、後期には変わりますが。。。

    そういえば、有名哲学者の言説の概略をまとめた本で、「写像が成立しない対象は語りえない」の例も出されていたと、あれがそのことかな、というのがあります。
    ・・・・・
    「花」は「白い」とは結びつくが、「円周率」とは結びつかない。
    だが、そもそも「花」が何であるのか知らなければ、これが何と結びつきうるのかまるで見当がつかないだろう。
    ・・・・・『読まずに死ねない哲学名著50冊』平原 卓 p321より引用

    こうしたことを、パニチェさんはおっしゃっていますか?
    質問ばかりしてすみません。
    ここ、気になるのでよかったら教えてください。

    > 悪くはないと思います。

    そうなんですね。ありがとうございます。

    > 今なら以前はさっぱり分からなかった永井均氏の「ウィトゲンシュタイン入門」も読めるんではないでしょうかねぇ〜。

    本棚にあるので、読んでみようかな、と思います。
    多少なりとも理解できたらいいな〜。
引用返信/返信 削除キー/
■18590 / inTopicNo.92)  写像
□投稿者/ パニチェ -(2021/11/09(Tue) 09:15:45)
    おはようございます、みのりさん。レスありがとうございます。

    No18588に返信(みのりさんの記事)
    > 私が書いたものについて、「そうです。」をいただいたところが多かったので、方向性としてはぜんぜん違ってはいないのだな、と安心しました。
    > これも、なかなか理解しにくい私に対しても、親切に相手してくださるパニチェさんのおかげです。
    > ほんとうにありがとうございます。^^

    いえいえ、こちらこそ、ありがとうございます。
    前回もそうですが、こういったレス交換は自分の考えをまとめたり、あやふやなところをハッキリさせるのに役立ちます。
    この手の作業は独りで行うより自分とは違った発想を持つ他者に伝えようとすることではかどります。

    > そういえば、有名哲学者の言説の概略をまとめた本で、「写像が成立しない対象は語りえない」の例も出されていたと、あれがそのことかな、というのがあります。
    > ・・・・・
    > 「花」は「白い」とは結びつくが、「円周率」とは結びつかない。
    > だが、そもそも「花」が何であるのか知らなければ、これが何と結びつきうるのかまるで見当がつかないだろう。
    > ・・・・・『読まずに死ねない哲学名著50冊』平原 卓 p321より引用
    > こうしたことを、パニチェさんはおっしゃっていますか?
    > 質問ばかりしてすみません。
    > ここ、気になるのでよかったら教えてください。

    しっかしみのりさんは論考を読んでないのに(失礼!)鋭いですねぇ〜。
    「テーブルの上に赤ワインが入ったグラスがある」←事態として世界と言語は結びつく(写像)
    「赤の上にグラスが入ったテーブルワインがある」←見当がつかない(非写像)
    〈私〉←写像となる対象が世界(言語世界)にない←語りえない

    >>今なら以前はさっぱり分からなかった永井均氏の「ウィトゲンシュタイン入門」も読めるんではないでしょうかねぇ〜。
    > 本棚にあるので、読んでみようかな、と思います。
    > 多少なりとも理解できたらいいな〜。

    初めのところだけでもパラパラっと見れば前回と違う印象を持つかもしれません。

引用返信/返信 削除キー/
■18593 / inTopicNo.93)  Re[19]: 写像
□投稿者/ みのり -(2021/11/09(Tue) 09:37:53)
    パニチェさん、レスありがとうございます。

    No18590に返信(パニチェさんの記事)

    >>私が書いたものについて、「そうです。」をいただいたところが多かったので、方向性としてはぜんぜん違ってはいないのだな、と安心しました。
    >>これも、なかなか理解しにくい私に対しても、親切に相手してくださるパニチェさんのおかげです。
    >>ほんとうにありがとうございます。^^
    >
    > いえいえ、こちらこそ、ありがとうございます。
    > 前回もそうですが、こういったレス交換は自分の考えをまとめたり、あやふやなところをハッキリさせるのに役立ちます。
    > この手の作業は独りで行うより自分とは違った発想を持つ他者に伝えようとすることではかどります。

    そう言っていただくとほんとうに有難いです。

    >>そういえば、有名哲学者の言説の概略をまとめた本で、「写像が成立しない対象は語りえない」の例も出されていたと、あれがそのことかな、というのがあります。
    >>・・・・・
    >>「花」は「白い」とは結びつくが、「円周率」とは結びつかない。
    >>だが、そもそも「花」が何であるのか知らなければ、これが何と結びつきうるのかまるで見当がつかないだろう。
    >>・・・・・『読まずに死ねない哲学名著50冊』平原 卓 p321より引用
    >>こうしたことを、パニチェさんはおっしゃっていますか?
    >>質問ばかりしてすみません。
    >>ここ、気になるのでよかったら教えてください。
    >
    > しっかしみのりさんは論考を読んでないのに(失礼!)鋭いですねぇ〜。
    > 「テーブルの上に赤ワインが入ったグラスがある」←事態として世界と言語は結びつく(写像)
    > 「赤の上にグラスが入ったテーブルワインがある」←見当がつかない(非写像)
    > 〈私〉←写像となる対象が世界(言語世界)にない←語りえない

    このパニチェさんのまとめ、とてもわかりやすいです。
    ありがとうございます。

    > >>今なら以前はさっぱり分からなかった永井均氏の「ウィトゲンシュタイン入門」も読めるんではないでしょうかねぇ〜。
    >>本棚にあるので、読んでみようかな、と思います。
    >>多少なりとも理解できたらいいな〜。
    >
    > 初めのところだけでもパラパラっと見れば前回と違う印象を持つかもしれません。

    そうですね。チャレンジしてみます。
引用返信/返信 削除キー/
■18594 / inTopicNo.94)  一部訂正
□投稿者/ パニチェ -(2021/11/09(Tue) 09:45:36)
    2021/11/09(Tue) 09:47:26 編集(投稿者)

    〈私〉←写像となる対象が世界(言語世界)にない←語りえない

           ↓(以下に訂正)

    形而上学的主体←写像となる対象が世界(言語世界)にない←語りえない


    補足:パニチェ&永井均氏的には形而上学的主体と〈私〉はイコール(形而上学的という表現は後期では影をひそめますので、厳密に言うと前期から後期にかけて一貫している独我論(独在論)的主体のことです)ですが、論考解釈としては「形而上学的主体」とした方が一般的なので。。。
引用返信/返信 削除キー/
■18595 / inTopicNo.95)  Re[21]: 一部訂正
□投稿者/ みのり -(2021/11/09(Tue) 09:52:02)
    了解です。 ありがとうございます。
引用返信/返信 削除キー/
■18604 / inTopicNo.96)  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/11/09(Tue) 12:25:54)
    ふくろうさん、レスありがとうございます。

    No18585に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    > pipitさん、レスありがとうございます。
    >
    >
    > ■No18574
    > >> 私はカントについて責任をもって言う自信はありません。
    > >> それを前提で言いますが、
    > >>たぶん、pipitさんのおっしゃるとおり、「限界」という概念については、基本的に同様なものとしてもよいのではないでしょうか。
    > >> 「純粋な悟性的存在者の領域」というのは、ウィトゲンシュタインの言い方では、「超越論的」な領域、ということになるのではないかなと思います。<
    >
    > >投稿した時点では、
    > >「純粋な悟性的存在者の領域」というのは、形而上学的領域とpipitは捉えていました。
    >
    >
    > >> そして、それは、語りえず、示されるもの(形式として)、とも考えたと思います。<
    > >なるほどです、そういう捉え方もあるのか、と、思いました。
    > >カント事典での記述は形而上学領域かなと今でも思うのですが、
    > >カント事典切り離して、ふくろうさんの見解として話すなら、
    >
    > >、、、わたしはウィトゲンシュタインのこと何も知らないので、とりあえずカントの形式から推測してみますね、
    >
    > >超越論的領域、例えば時間と空間は、現れたものの形式としてしか表象されないように、
    > >形としてこの世界に生じる形式としてしか表れ得ない、かな、と思いましたが、
    >
    > >全く違ったらすみません。
    > *****************
    > ふむふむ、面白いですね。
    > 以下は、あくまで私の解釈、私見として述べますね。
    >
    > 世界の限界、条件にあたるものは、ウィトゲンシュタインによれば
    > 世界のアプリオリな形式、であり、かつ、超越論的なるもの、と言ってよいと思います。
    > ただ、それらは、扱い方により、形而上学的対象であったり、そうでなかったりします。
    > あくまで現象を記述する上での表現形式としてそれが示されている場合、それは非形而上学的です。
    > しかし、その形式自体を対象化し、いわゆるメタ言語によって語った場合、それは形而上学的対象として扱われることになる、と思います。
    > 自我、時間、空間、といったものはそのような意味で、形而上学的対象としても、そうでないものとしても扱われ得るものだと思います。
    > だから、可能性としてですが、カントの言う「純粋な悟性的存在者の領域」というのは、ウィトゲンシュタイン的に言えば、世界のアプリオリな形式を対象化(イデア化)して(メタ言語で)語るとき、その語りの空間としての形而上学的領域のことである、というふうに解釈できないでしょうか?
    > 無理ありすぎ?(笑)<

    いえ、おっしゃってることわかる気します。
    (勘違いしてたらすみません)


    > でも、カントにとって、「絶対の私」のみならず、「絶対の今」、「絶対の此処」というのは、形而上学的対象ではないのかなあ?
    >
    > pipitさん、沼の深みに突き落としたとしたら、許されよ〜<


    おもしろいですよ、
    今の時点の私見ですが、
    空虚なまとめ役の わ・た・し だからこそ、多様なわたしが現れるとカントは考えてるのではないかと。

    感じる ということの すごさを、奇跡と言えば奇跡を、フィーチャーする考え方がカントの考え方なのではないかと、午前中に、仕事中!いけない!いけない!と思いながらも、考えていました。

    誰にでも当てはまる空虚なまとめ訳が、各々に生じる現象をまとめあげるとき、唯一無二の経験が立ち現れる。

    まだ仕事の昼休み中なので、純理トピに思うこと、書けたら書いてみます!

    おつかれさまー(^_^)v



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