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No37024 の記事


■37024 / )  Re[81]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/04/06(Sat) 12:12:57)
    今回のわたしの物語り、メルポンの、
    No36016をわたしに見えるようにしよっ、が始まりで、
    No36015のような資料を参考しながら、
    No36984まで来たんだけど、
    「現在化/準現在化/共現在化」と「統覚」と「付帯現前」の関係で、
    わたし、「共現在化」や「統覚」や「付帯現前」っていうのを同じようなこととして見たのね。

    わたしの、振り返って、
    No36234で見たように、
    「共現在化」っていうのを、〈現在化と準現在化が一体となっているもの〉って、わたししたなかで、
    わたしので簡単に言うと、
    〈端的な知覚〉に〈記憶や想像によるもの〉が付帯したものを「共現在化」とか「統覚」とか言ってる。
    ってして見てる。

    〈端的な知覚〉ってわたしが呼んでるのは、
    No36957からで、これを「現在化」のことして、「現在(現前)にある現実的なもの」が〈知覚-されたもの〉、〈現実的な/現にあるものの知覚〉のこと、メルポンの言い方では『現実的なものの知覚』で、物理的像みたいのなの。

    〈記憶や想像によるもの〉は、「準現在化」のこととして、とくに想像については、〈非現実的な/現にない想像-されるもの〉。

    そして、〈端的な知覚〉や〈想像〉の性格を、
    No36835のようなものとして見たのね。

    こんなようなことや、想像と情緒の関係、そして〈自〉との関係も見てきたんだけど。

    「共現在化」≒「統覚」ってしていい?って思って、ネットで「現在化/準現在化/共現在化と統覚」で検索したら、
    No36984でちょっと書いたけど、「フッサールの他我構成論批判/小林秀樹」(資料11) 7 (1).pdf
    っていうのがたまたまあって、今これ読んでるんだけど、これって、
    【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】の、
    「第五省察 超越論的な存在の場をモナドの間主観性としてあらわにする」
    のことについて書いてあるみたいなのね。第五省察は、
    「第42節 独我論という非難に対抗して、他者経験の問題を呈示する」
    から始まってる。
    (資料11)を参照にしながら、この「第五省察」を読み返してるところ。
    これ、「他者」や「私」、そして「間主観性」っていう現象学における見方・考え方のお話しなんだとわたし思ってるんだけど、かなり長くなりそう。

    今回のわたしの物語りで、メルポンの、
    No36016のなかにある『幻覚』『狂人の虚言』『幻想』『妄想』って言うのをメルポンはどう見てるのかな?っていうのがわたしのなかにあって、(k)にあるように、『想像的なものの源泉が情緒にあること、また夢や幻覚という現象が新たなかたちで解明されることが理解できます』って言ってるように、ここんところをわたしなりに見たのをまとめとしようと思ってたんだけど。

    話題が横道にそれるかもだけど、な〜んか結びつけられそうな感じがしてる。

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