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■7256 / inTopicNo.1)  十字架、10時か
  
□投稿者/ パニチェ -(2020/10/02(Fri) 15:21:30)
引用返信/返信 削除キー/
■7255 / inTopicNo.2)  Re[59]: 一神教は煩悩による捏造物
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/02(Fri) 15:06:29)
引用返信/返信 削除キー/
■7254 / inTopicNo.3)  一神教は煩悩による捏造物
□投稿者/ パニチェ -(2020/10/02(Fri) 09:35:21)
    2020/10/02(Fri) 10:45:32 編集(投稿者)

    おはようございます、minoriさん。レスありがとうございます。

    No7252に返信(minoriさんの記事)

    > 興味深く拝見しました。ありがとうございます。

    それはよかったです。^^

    > 虐げられたり安住の地をなかなか確保できないのも、神に選ばれた民族だからであり、神により与えられた試練ともいえる、という考え方になるのですよね。
    > 弱者である自分たちは多民族からは虐げられてきたけれど、自分たちを支配できるのは実は神だけである、というのを暗に言っているとニーチェは考え、そうした考え方から出る道徳は、むやみに禁欲的だったりで不自然だ、と考えていたのでしょうね。
    > 試練が多すぎると自分が救われる物語を作りたくなる心理というのが人間にはあるように思えるので、そういう意味ではユダヤ民族の気持ちも分かるし、ニーチェが批判的に考えるのも理解できる、という感じが私はします。

    上記のminoriさんのコメントは大らかな菩薩、または母の愛を感じさせます。狭量な私とはえらい違いです。^^

    > すでに与えられているものを信じ、それに従っていれば安心であるという考え方を超え、自分で考え行動し創造する人間の能力をフルに活用する、そうしたことをニーチェは提唱していたのですね。
    > 現代においてはたしかに、ニーチェが語る超人的スタイルの人が社会的にも成功しやすいし、そうでなかったとしても人生を楽しめると思います。
    > 人生をその人なりの楽しみ方で充実して過ごしていると、逆に自ら湧き出る幸福感から現代風な意味での道徳的生き方にもなるようにも思います。

    そうです。誰から強要されるでもなく、自制し自律する道徳ですね。そして身体性を痛める(鞭打ちや苦行)ような行為は自虐でしかなく、意識は遅れた発展(進化の最後に生じた機能であり、意識のない生物を観察しても分かるように生に必須ではない)であり、むしろ身体性の方が大いなる理性であると主張します。ストレスの表出にせよ、生命の危険を警報する痛みにせよ、無意識的な反射や身体的反応が正直であるということ。

    以下のアフォリズムからしても、ニーチェは道徳性を『自己を十分統制すること、自制であり克己であること』さらに『非倫理的と呼ばれる多くの行為は避けられるべきであり、克服されるべきであるということを、私は否定しない。同様に、倫理的と呼ばれる多くの行為は実践されるべきものであり、促進されるべきであるということを私は否定しない。』と明言しています。

    『無節度な連中の口にする同情の道徳。──自己を十分に統制できず、また道徳性というものは大事につけ小事につけ絶えず実践される自制であり克己であることを知らない連中はすべて、知らず知らずのうちに、善良で思いやり深く親切なさまざまなか感動の賛美者、〔分別的な〕頭脳を持たず、ただ心胸と人助けの好きな手だてからできあがっているみたいな、例の本能的な道徳心の賛美者となる。実際、理性の道徳性には疑義を示して、それとは別の、例の本能的な道徳性を唯一のものとすることが彼らの関心事である。(人間的、あまりに人間的U46)』

    『自明なことであるが、──私が愚か者でないとすれば──、非倫理的と呼ばれる多くの行為は避けられるべきであり、克服されるべきであるということを、私は否定しない。同様に、倫理的と呼ばれる多くの行為は実践されるべきものであり、促進されるべきであるということを私は否定しない。──しかし前者も後者も、これまでとは別な理由からであると私は考える。われわれは学び直さなければならない。──結局おそらく極めて後のことかもしれないが、さらにそれ以上にとうた到達するために、感じ直すために。(曙光 第103番)』

    > 生きる上での選択肢が限られていた古代の人々より、そういう意味では私たちは幸せなんだろうな。

    同意です。
    ちなみに以下はニーチェから離れ、私が一神教を嫌いな理由です。(詳しくはPanietzsche Room ニーチェT第二章 アンチクリスト 11.旧約聖書〜13.英米の罪 )

    世界各地に自然発生的に生じている宗教は多神教(古代エジプト、メソポタミア、ギリシア、インド、中国、日本などなど)であり、そのルーツはアニミズム、トーテミズム、シャーマニズムであるということ。

    旧約聖書はエジプトで奴隷とされていたヘブル人(ユダヤ人)の団結と解放、荒寥とした地方で唯一緑が茂るヨルダン川近辺の地に建国(ユダヤ人の理想郷)を想定し、その根拠として書かれたという説が有力であり、政治的な意図を主として創作されている可能性が大であり、今もなおユダヤ人が領有権を主張し不法占拠しているカナンの地(エルサレム)は紛争の元凶となっている。

    ノアの箱舟が漂着したのがアララト山であり、モーゼがヤハウェから十戒を与えられたのがシナイ山であることから、オリンポス神話に影響を受けた山の神と考えることもできる。しかし内容の一部はハンムラビ法典(BC17世紀頃)や、ギルガメッシュ神話(メソポヤミアの神話)にある。「目には目を」はハンムラビ法典にもあるし、洪水はギルガメッシュ神話に類似のイベントが記述されている。

    ユダヤ人のための建国を目的とした意図と目的を主として世界の神話を寄せ集めてつくったのが旧約聖書ではないか。それは人間にとっての福音にはならないし、むしろくすぶり続ける火種でしかない。

    特定民族がつくったこんな不自然な宗教(一神教)に今も多くの人間が依存し影響されているのは、人間の愚かさの象徴でもあり、弱さ、無能、無力、不完全、不確定な人間のないものねだりの反対物を神として崇めることによって安らぎを得ようとする、極論すれば煩悩による捏造物であると思う。

    煩悩による捏造物であるが故にそのデメリットとして一神教には、紛争や戦争の因となる見取見(十根本煩悩のひとつ、自分の考えや自分の見解を絶対視し固執すること)や排他性を伴っている。

    ニーチェを知って一神教が嫌いになったわけではなくて、もともと一神教が嫌いでニーチェを知ることによって、嫌いな理由がより明確になったというところです。
    但し、他者の敬虔な信仰を否定したり、批判すうつもりは全くありませんが。。。^^

引用返信/返信 削除キー/
■7252 / inTopicNo.4)  Re[57]: 奴隷一揆
□投稿者/ minori -(2020/10/02(Fri) 08:17:21)
    パニチェさん、レスありがとうございます。

    >ただ一つだけ補足させてもらうとニーチェのキリスト教批判の核心はパウロやアウグスティヌスに対するものではなく、ユダヤ教の成立そのものにあります。
    キリズト教、イスラム教、ユダヤ教共通の聖典である旧約聖書の成立を心理学的に解体した上で強烈な批判を浴びせます。
    そこのところを次の投稿でアフォリズムの引用もしつつカキコしてみますが、興味がなければスルーでも結構です。^^


    興味深く拝見しました。ありがとうございます。


    > 『いわく、「ユダヤ人とともに道徳における奴隷一揆は始まる」と。この一揆は背後に二千年の歴史をもっており、今日われわれの目にふれないのは、それが──勝利をおさめてしまったからにすぎないのだ…(道徳の系譜 第一論文7)』
    >
    > 『ユダヤ人たち──タキトゥスと古代世界のすべてが言うところでは「奴隷に生まれついた」民族であり、彼らが自ら言いかつ信じるところでは「諸民族のうち選ばれた民族」である──そのユダヤ人たちが価値の逆転という、あの奇術をやってのけたのであり、そのおかげで、地上の生活は数千年にわたって、一つの新しく危険な刺激を手に入れることになった。(善悪の彼岸196番)』
    >
    > 『道徳における奴隷一揆の手始めは「怨恨(ルサンチマン)」そのものが創造となって、価値を生み出すということである。本当の反癈、行動による反癈ができないところから、単に想像上の復讐によって、自己のうけた損害の埋めあわせをつけるような人たちのいだく「怨恨」が、価値を生みだすのだ。すべての高貴な道徳が、自己自身に対する勝ち誇った肯定から生い立ってくるのに対して、奴隷道徳は始めから「外なるもの」、「違った生き方をするもの」、「自己ならざるもの」に対して「否」を言うのだ。しかもこの「否」がこの道徳の創造行為なのだ。価値を設定する眼差しをこのように向きかえること──自己自身に帰るかわりに、このように止むを得ずして、外に向かうこと──エジプトで奴隷として他民族に支配されていたヘブル人(ユダヤ人)は、本来自分達は神の民であり、我らを支配する絶対唯一の存在は神のみであるという発想の転換をやってのけた。これこそが「怨恨」の本性なのだ(道徳の系譜 第一論文10)』
    >
    >
    > エジプトで奴隷として他民族に支配されていたヘブル人(ユダヤ人)は、本来自分達は神の民であり、我らを支配する絶対唯一の存在は神のみであるという発想の転換をやってのけた。奴隷一揆は特定民族のルサンチマンによって生じ、生と死、大地と天国の価値をひっくり返した天地逆さの奇術をやってのけたということ。
    >
    > 抑圧された奴隷がつくった宗教のため、その倫理観も自虐的であり、生を罪深いもの(原罪)としたり、禁欲的なことを善とし、人間を家畜の如く飼いならし、画一的かつ没我な畜群化するようなものでしかない。

    虐げられたり安住の地をなかなか確保できないのも、神に選ばれた民族だからであり、神により与えられた試練ともいえる、という考え方になるのですよね。

    弱者である自分たちは多民族からは虐げられてきたけれど、自分たちを支配できるのは実は神だけである、というのを暗に言っているとニーチェは考え、そうした考え方から出る道徳は、むやみに禁欲的だったりで不自然だ、と考えていたのでしょうね。

    試練が多すぎると自分が救われる物語を作りたくなる心理というのが人間にはあるように思えるので、そういう意味ではユダヤ民族の気持ちも分かるし、ニーチェが批判的に考えるのも理解できる、という感じが私はします。


    > 人として生まれた特権は世界に意味や価値を創出しつつ自己超克し続けることであり、絶対的な真理やトップダウンの善悪二元論道徳は、本来ダイナミックであるはずの生や個性豊かで多様な側面をもつ人間ならではの特権を画一化し弱体化させるばかりか、畜群動物へと後退させるようなマイナス要素があるということを看破した。
    >
    > 人間は神の隷属ではないということ。
    >
    > ニーチェのもうひとつの大仕事は自虐的なキリスト教的善悪二元論道徳(奴隷道徳)に代わる君主道徳(高貴な人間のための高貴な人間による高貴な道徳)を提起したことにある。

    すでに与えられているものを信じ、それに従っていれば安心であるという考え方を超え、自分で考え行動し創造する人間の能力をフルに活用する、そうしたことをニーチェは提唱していたのですね。

    現代においてはたしかに、ニーチェが語る超人的スタイルの人が社会的にも成功しやすいし、そうでなかったとしても人生を楽しめると思います。
    人生をその人なりの楽しみ方で充実して過ごしていると、逆に自ら湧き出る幸福感から現代風な意味での道徳的生き方にもなるようにも思います。

    生きる上での選択肢が限られていた古代の人々より、そういう意味では私たちは幸せなんだろうな。
引用返信/返信 削除キー/
■7239 / inTopicNo.5)  ななしさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2020/10/01(Thu) 21:38:29)
    こんばんは、ななしさん。レスありがとうございます。

    No7219に返信(ななしさんの記事)
    > パニチェさん生きることはホント大変ですね。

    私は今のところそんなに深刻に考えておりませんし、きわめて楽観的に捉えています。^^

    > 『正法眼蔵』「画餅」の巻は、“画”に書いた“餅”と書いて「画餅(がびょう)」で、「画に書いた餅」と言えば、役に立たない物の喩えに使われますが、道元禅師はもっと深い意味に捉えています。
    > 中国の唐代末期、香厳(きょうげん)禅師の「画餅は飢えを充たさない」という言葉から、「たくさんの書物を暗記しても自分自身の中から出てくる言葉を持たなければ修行にならない。」それを道元禅師は、さらに、思索を深めていきました。
    > 絵に描いた餅では、香りや美味しさは伝わらないように、修行の中身には自己の内側から醸し出されてくるものが無ければならない。
    > つまり、修行者は自己から離れて外に真実を求めることはしてはならないのだと。
    > 本を読んで知識を獲得ばかりではダメ。
    > だからこそ、只管打坐なんでしょうけど、なかなか難しいです。

    実体験は重要かもしれませんが、私は体験に拘りません。
    極論すれば「そんなの脳のある状態でしょ」という感覚もあります。
    もちろん、そんな見解だけで安易に片づけるべきではないということも同時に思ってはいますが。。。

    私が目指すのは言語と論理による見性悟道です。

    で、画餅は役立たずの絵に描いた餅と評価されがちなものを、道元禅師は悟りを象徴する譬えとしてフォーカスしています。
    もち米を用いて作られる餅を絵に描いた画餅には餅の生滅の相と同時に、腐らず、滅しない、不滅の相がある。
    さらに「飢えを満たさない」とは、腹に一物もない悟りの境地を表しており、飢えに対する餅でもなければ、餅に対する飢えがない、二元対立を超越した象徴であるということだと思います。

引用返信/返信 削除キー/
■7237 / inTopicNo.6)  奴隷一揆
□投稿者/ パニチェ -(2020/10/01(Thu) 21:11:45)
    2020/10/02(Fri) 07:47:41 編集(投稿者)

    『いわく、「ユダヤ人とともに道徳における奴隷一揆は始まる」と。この一揆は背後に二千年の歴史をもっており、今日われわれの目にふれないのは、それが──勝利をおさめてしまったからにすぎないのだ…(道徳の系譜 第一論文7)』

    『ユダヤ人たち──タキトゥスと古代世界のすべてが言うところでは「奴隷に生まれついた」民族であり、彼らが自ら言いかつ信じるところでは「諸民族のうち選ばれた民族」である──そのユダヤ人たちが価値の逆転という、あの奇術をやってのけたのであり、そのおかげで、地上の生活は数千年にわたって、一つの新しく危険な刺激を手に入れることになった。(善悪の彼岸196番)』

    『道徳における奴隷一揆の手始めは「怨恨(ルサンチマン)」そのものが創造となって、価値を生み出すということである。本当の反癈、行動による反癈ができないところから、単に想像上の復讐によって、自己のうけた損害の埋めあわせをつけるような人たちのいだく「怨恨」が、価値を生みだすのだ。すべての高貴な道徳が、自己自身に対する勝ち誇った肯定から生い立ってくるのに対して、奴隷道徳は始めから「外なるもの」、「違った生き方をするもの」、「自己ならざるもの」に対して「否」を言うのだ。しかもこの「否」がこの道徳の創造行為なのだ。価値を設定する眼差しをこのように向きかえること──自己自身に帰るかわりに、このように止むを得ずして、外に向かうこと──エジプトで奴隷として他民族に支配されていたヘブル人(ユダヤ人)は、本来自分達は神の民であり、我らを支配する絶対唯一の存在は神のみであるという発想の転換をやってのけた。これこそが「怨恨」の本性なのだ(道徳の系譜 第一論文10)』


    エジプトで奴隷として他民族に支配されていたヘブル人(ユダヤ人)は、もともと自分達は神に選ばれた民(選民思想)であり、自分たちを支配できるのは絶対唯一の存在である神のみであるという発想の転換をやってのけた。奴隷一揆は特定民族のルサンチマン(弱者の強者に抱く怨恨感情)によって生じ、生と死、大地と天国の価値をひっくり返した天地逆さの奇術をやってのけたということ。

    抑圧された奴隷がつくった宗教のため、その倫理観も自虐的であり、生を罪深いもの(原罪)としたり、禁欲的なことを善とし、人間を家畜の如く飼いならし、画一的かつ没我な畜群化するようなものでしかない。

    人として生まれた特権は世界に意味や価値を創出しつつ自己超克し続けることであり、絶対的な真理やトップダウンの善悪二元論道徳は、本来ダイナミックであるはずの生や個性豊かで多様な側面をもつ人間ならではの特権を画一化し弱体化させるばかりか、畜群動物へと後退させるようなマイナス要素があるということを看破した。

    人間は神の隷属ではないということ。

    ニーチェのもうひとつの大仕事は自虐的なキリスト教的善悪二元論道徳(奴隷道徳)に代わる君主道徳(高貴な人間のための高貴な人間による高貴な道徳)を提起したことにある。


引用返信/返信 削除キー/
■7236 / inTopicNo.7)  minoriさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2020/10/01(Thu) 20:49:25)
    こんばんは、minoriさん。レスありがとうございます。

    No7209に返信(minoriさんの記事)

    > イエスが生きて活動していた際には、形骸、形式化していた旧約の律法を中身のあるものとしようとしていた(神への愛、隣人愛の二本立て)のだと思うのです。
    > イエスの十字架と復活ということがあって、それが救いの根拠としての中心になり(罪は赦されている)、同時に広く信じられるようになっていった、という道筋になると思います。

    なるほど。

    > 後者のほうをニーチェは批判的に思っていたのかな、と。
    > ニーチェのキリスト教観についてもほとんど知らなかったのですが、教えていただいたものから早速に考えてみると、そうなるのかもしれない、というところです。
    > これは私が知る範囲の知識をもとにこのように思う、というものであって、クリスチャンの方や詳しい方にとっては、また違うかもしれないです。
    > このあたり、キリスト教についてのほんの少しの知識の、記憶が蘇ってきたのを忘れないうちに書いておかないと、明日になるとすっかり忘れてしまうかもしれないので(笑)、今日のうちに書いてみました。


    No7218に返信(minoriさんの記事)
    > 昨日書いたものに追記です。

    > ・・・・
    > 罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6:20〜23)
    > ・・・・
    > パウロの書いた手紙の文章からです。 

    > イエスが生きて活動していた時期は、イエスと人々の関係は近く、直接に言葉でやりとりして、どんな境遇の人に対しても分け隔てのない態度であったというのは伝えられていますね。
    > イエスと人々との感動的なやりとりが、新約聖書の中にはたくさん書かれています。

    > イエスが復活して人々の前に現れ、パウロの前にも現れ、パウロは「目から鱗が落ちる」になったとされています。
    > それで改心してイエスを神と信じるようになり、というのは有名ですね。

    > 引用したパウロの文章は、キリスト教として形成されていく上の理念ともいえるものではないかな、と私は感じます。
    > 神との契約を仲介する教会があり聖職者がいて洗礼をイエスに代わって授ける、という仕組みが形成されていったのでしょうね。
    > そして歴史上の時間が経つにつれ、パニチェさんが書かれているように、特権階級を生む(ニーチェからすればそういうことで、キリスト教を信じる人にとってはそうでもないかも。)ようになった、ということになるのだと思います。

    引用いただき、ありがとうございました。
    上記のminoriさんのレスは大方同意しますし、私の知らないところもあり興味深いです。
    ただ一つだけ補足させてもらうとニーチェのキリスト教批判の核心はパウロやアウグスティヌスに対するものではなく、ユダヤ教の成立そのものにあります。
    キリズト教、イスラム教、ユダヤ教共通の聖典である旧約聖書の成立を心理学的に解体した上で強烈な批判を浴びせます。
    そこのところを次の投稿でアフォリズムの引用もしつつカキコしてみますが、興味がなければスルーでも結構です。^^

引用返信/返信 削除キー/
■7219 / inTopicNo.8)  Re[52]: パニチェさんへ
□投稿者/ ななし -(2020/10/01(Thu) 07:56:40)
    パニチェさん生きることはホント大変ですね。

    『正法眼蔵』「画餅」の巻は、“画”に書いた“餅”と書いて「画餅(がびょう)」で、「画に書いた餅」と言えば、役に立たない物の喩えに使われますが、道元禅師はもっと深い意味に捉えています。

    中国の唐代末期、香厳(きょうげん)禅師の「画餅は飢えを充たさない」という言葉から、「たくさんの書物を暗記しても自分自身の中から出てくる言葉を持たなければ修行にならない。」それを道元禅師は、さらに、思索を深めていきました。

    絵に描いた餅では、香りや美味しさは伝わらないように、修行の中身には自己の内側から醸し出されてくるものが無ければならない。

    つまり、修行者は自己から離れて外に真実を求めることはしてはならないのだと。

    本を読んで知識を獲得ばかりではダメ。

    だからこそ、只管打坐なんでしょうけど、なかなか難しいです。


引用返信/返信 削除キー/
■7218 / inTopicNo.9)  Re[54]: パニチェさんへ
□投稿者/ minori -(2020/10/01(Thu) 07:53:02)
    昨日書いたものに追記です。

    ・・・・
    罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6:20〜23)
    ・・・・
    パウロの書いた手紙の文章からです。 

    イエスが生きて活動していた時期は、イエスと人々の関係は近く、直接に言葉でやりとりして、どんな境遇の人に対しても分け隔てのない態度であったというのは伝えられていますね。
    イエスと人々との感動的なやりとりが、新約聖書の中にはたくさん書かれています。

    イエスが復活して人々の前に現れ、パウロの前にも現れ、パウロは「目から鱗が落ちる」になったとされています。
    それで改心してイエスを神と信じるようになり、というのは有名ですね。

    引用したパウロの文章は、キリスト教として形成されていく上の理念ともいえるものではないかな、と私は感じます。
    神との契約を仲介する教会があり聖職者がいて洗礼をイエスに代わって授ける、という仕組みが形成されていったのでしょうね。
    そして歴史上の時間が経つにつれ、パニチェさんが書かれているように、特権階級を生む(ニーチェからすればそういうことで、キリスト教を信じる人にとってはそうでもないかも。)ようになった、ということになるのだと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■7209 / inTopicNo.10)  fパニチェさんへ
□投稿者/ minori -(2020/09/30(Wed) 21:20:17)
    パニチェさん、レスありがとうございます。

    > >>『彼(パウロ)は、異教の世界の大きな欲求を理解しており、キリストの生と死の事実からまったく勝手気ままな選りごのみをして、すべてのものをあらためて強調しなおし、いたるところで重点をおきかえた・・・彼は原始キリスト教を無効にしてしまったのである・・・僧侶や神学者を暗殺するたくらみが、こうしたパウロのおかげで、一つの新しい僧侶階級や神学をうむことで終わった──ひとつの支配階級を、一つの教会をも。(力への意志 第167番)』
    >
    >>地上に天の国を作る、から死後の救済へ変更してしまったことを指しているのですね。
    >
    > あぁ、なるほど。そういう意味合いも含むんですね。


    イエスが生きて活動していた際には、形骸、形式化していた旧約の律法を中身のあるものとしようとしていた(神への愛、隣人愛の二本立て)のだと思うのです。
    イエスの十字架と復活ということがあって、それが救いの根拠としての中心になり(罪は赦されている)、同時に広く信じられるようになっていった、という道筋になると思います。
    後者のほうをニーチェは批判的に思っていたのかな、と。
    ニーチェのキリスト教観についてもほとんど知らなかったのですが、教えていただいたものから早速に考えてみると、そうなるのかもしれない、というところです。
    これは私が知る範囲の知識をもとにこのように思う、というものであって、クリスチャンの方や詳しい方にとっては、また違うかもしれないです。

    このあたり、キリスト教についてのほんの少しの知識の、記憶が蘇ってきたのを忘れないうちに書いておかないと、明日になるとすっかり忘れてしまうかもしれないので(笑)、今日のうちに書いてみました。

引用返信/返信 削除キー/
■7206 / inTopicNo.11)  minoriさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/30(Wed) 20:07:59)
    こんばんは、minoriさん。レスありがとうございます。

    No7202に返信(minoriさんの記事)

    >>『彼(パウロ)は、異教の世界の大きな欲求を理解しており、キリストの生と死の事実からまったく勝手気ままな選りごのみをして、すべてのものをあらためて強調しなおし、いたるところで重点をおきかえた・・・彼は原始キリスト教を無効にしてしまったのである・・・僧侶や神学者を暗殺するたくらみが、こうしたパウロのおかげで、一つの新しい僧侶階級や神学をうむことで終わった──ひとつの支配階級を、一つの教会をも。(力への意志 第167番)』

    > 地上に天の国を作る、から死後の救済へ変更してしまったことを指しているのですね。

    あぁ、なるほど。そういう意味合いも含むんですね。
    私は原始キリスト教というものがどういうものなのかよく分からなかったのです。
    神のもとでの平等がイエスの教えであるとすれば、特権階級である僧侶や神学者は亡き者になるはずが、パウロのおかげて権威主義的な新たな特権階級を生み出したとだけ読解していました。

    >>『陰にこもった復讐欲が、卑小な嫉妬が主となったのである!すべての憐れむべきもの、おのれ自身で苦しむもの、劣悪な感情に悩まされるものが、魂のユダヤ人街的全世界が一挙に上位をしめてしまったのである!──なんたる汚らわしい徒輩がこれらで上位をしめてしまったのかをとらえるためには、嗅ぎだすためには、キリスト教の煽動者のうちの誰かを、たとえば聖アスグスティヌスを読みさえすればよい。キリスト教運動の指導者たちには悟性になんらかの欠陥があったのだと前提するなら、まるまる詐欺にかかっていると言うべきであろう(アンチクリスト第59番)』

    >>『──教会こそ、イエスがそれに反対して説教し──またそれに対して戦うことをその使徒たちに教えたもの、まさにそのものである──(力への意志 第168番)』

    > 悟性になんらかの欠陥があったのだと前提するなら、
    > という表現とか、過激ですね。( ゚Д゚)
    > ニーチェ的にはまさにそうだったのですね。

    強烈ですよね。^^

    > キリスト教というのも歴史の流れのなかで必然ともいえる形で形成されたもので、人間の世界に与えた光としての影響も大きいと私は思うので、ニーチェに大賛成とは言い切れない部分もあります。

    それもよく分かります。

    > 一方、ニーチェのような人が現れたのも、時代の必然だったのだろうと思います。
    > ニーチェより少し先に生まれたキルケゴールとは、同じ実存主義でも対極みたいですね。

    私もそう思います。


    No7203に返信(minoriさんの記事)
    > パニチェさん、ありがとうございます。

    どういたしまして。^^

引用返信/返信 削除キー/
■7202 / inTopicNo.12)  パニチェさんへ
□投稿者/ minori -(2020/09/30(Wed) 18:20:27)
    パニチェさん、レスありがとうございます。


    > 哲学者は分かりませんが趣味を仕事にしている人は二手に分かれるようですね。
    > 一方はminoriさんの言う通りですが、他方は趣味を仕事にしたため自分の好きなようにはできなくなり葛藤が生まれるみたいです。

    仕事としてそれで収入を得るためには、自分の意向だけを通すわけにもいかない面もあるでしょうし、そういうところでは葛藤も生まれるかもしれないですね。


    >>純粋・・そうですね、いろいろと許せないという思いや、不遇な人々への愛、神への純粋な愛、そうしたものを合理的な形で表現することが、もっと長生きしてたらあるいはできたのかもしれない、そんなふうにニーチェは考えていたのかな、と改めて想像しました。
    >
    > 同意です。
    > イエスとは異なり、パウロや原罪を持ち込んだアウグスティヌス、教会には手厳しいアフォリズムが残ってます。
    >
    > 『彼(パウロ)は、異教の世界の大きな欲求を理解しており、キリストの生と死の事実からまったく勝手気ままな選りごのみをして、すべてのものをあらためて強調しなおし、いたるところで重点をおきかえた・・・彼は原始キリスト教を無効にしてしまったのである・・・僧侶や神学者を暗殺するたくらみが、こうしたパウロのおかげで、一つの新しい僧侶階級や神学をうむことで終わった──ひとつの支配階級を、一つの教会をも。(力への意志 第167番)』

    地上に天の国を作る、から死後の救済へ変更してしまったことを指しているのですね。


    > 『陰にこもった復讐欲が、卑小な嫉妬が主となったのである!すべての憐れむべきもの、おのれ自身で苦しむもの、劣悪な感情に悩まされるものが、魂のユダヤ人街的全世界が一挙に上位をしめてしまったのである!──なんたる汚らわしい徒輩がこれらで上位をしめてしまったのかをとらえるためには、嗅ぎだすためには、キリスト教の煽動者のうちの誰かを、たとえば聖アスグスティヌスを読みさえすればよい。キリスト教運動の指導者たちには悟性になんらかの欠陥があったのだと前提するなら、まるまる詐欺にかかっていると言うべきであろう(アンチクリスト第59番)』
    >
    > 『──教会こそ、イエスがそれに反対して説教し──またそれに対して戦うことをその使徒たちに教えたもの、まさにそのものである──(力への意志 第168番)』

    悟性になんらかの欠陥があったのだと前提するなら、
    という表現とか、過激ですね。( ゚Д゚)
    ニーチェ的にはまさにそうだったのですね。

    キリスト教というのも歴史の流れのなかで必然ともいえる形で形成されたもので、人間の世界に与えた光としての影響も大きいと私は思うので、ニーチェに大賛成とは言い切れない部分もあります。
    一方、ニーチェのような人が現れたのも、時代の必然だったのだろうと思います。
    ニーチェより少し先に生まれたキルケゴールとは、同じ実存主義でも対極みたいですね。
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