□投稿者/ minori -(2020/09/30(Wed) 18:20:27)
| パニチェさん、レスありがとうございます。
> 哲学者は分かりませんが趣味を仕事にしている人は二手に分かれるようですね。 > 一方はminoriさんの言う通りですが、他方は趣味を仕事にしたため自分の好きなようにはできなくなり葛藤が生まれるみたいです。
仕事としてそれで収入を得るためには、自分の意向だけを通すわけにもいかない面もあるでしょうし、そういうところでは葛藤も生まれるかもしれないですね。
>>純粋・・そうですね、いろいろと許せないという思いや、不遇な人々への愛、神への純粋な愛、そうしたものを合理的な形で表現することが、もっと長生きしてたらあるいはできたのかもしれない、そんなふうにニーチェは考えていたのかな、と改めて想像しました。 > > 同意です。 > イエスとは異なり、パウロや原罪を持ち込んだアウグスティヌス、教会には手厳しいアフォリズムが残ってます。 > > 『彼(パウロ)は、異教の世界の大きな欲求を理解しており、キリストの生と死の事実からまったく勝手気ままな選りごのみをして、すべてのものをあらためて強調しなおし、いたるところで重点をおきかえた・・・彼は原始キリスト教を無効にしてしまったのである・・・僧侶や神学者を暗殺するたくらみが、こうしたパウロのおかげで、一つの新しい僧侶階級や神学をうむことで終わった──ひとつの支配階級を、一つの教会をも。(力への意志 第167番)』
地上に天の国を作る、から死後の救済へ変更してしまったことを指しているのですね。
> 『陰にこもった復讐欲が、卑小な嫉妬が主となったのである!すべての憐れむべきもの、おのれ自身で苦しむもの、劣悪な感情に悩まされるものが、魂のユダヤ人街的全世界が一挙に上位をしめてしまったのである!──なんたる汚らわしい徒輩がこれらで上位をしめてしまったのかをとらえるためには、嗅ぎだすためには、キリスト教の煽動者のうちの誰かを、たとえば聖アスグスティヌスを読みさえすればよい。キリスト教運動の指導者たちには悟性になんらかの欠陥があったのだと前提するなら、まるまる詐欺にかかっていると言うべきであろう(アンチクリスト第59番)』 > > 『──教会こそ、イエスがそれに反対して説教し──またそれに対して戦うことをその使徒たちに教えたもの、まさにそのものである──(力への意志 第168番)』
悟性になんらかの欠陥があったのだと前提するなら、 という表現とか、過激ですね。( ゚Д゚) ニーチェ的にはまさにそうだったのですね。
キリスト教というのも歴史の流れのなかで必然ともいえる形で形成されたもので、人間の世界に与えた光としての影響も大きいと私は思うので、ニーチェに大賛成とは言い切れない部分もあります。 一方、ニーチェのような人が現れたのも、時代の必然だったのだろうと思います。 ニーチェより少し先に生まれたキルケゴールとは、同じ実存主義でも対極みたいですね。
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