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■6813 / inTopicNo.73)  形骸化と堕落
  
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/19(Sat) 10:39:30)
    2020/09/19(Sat) 10:42:12 編集(投稿者)

    キリスト教に限らず仏教も、その他、体制や組織、制度や規範やルールも介在する人や時間とともに形式化、形骸化します。

    宗教なら権威主義的にもなり、その反動として原点に戻そうという運動が生じる。

    大乗仏教運動やルターによる宗教改革。

    そしてまた檀家に胡坐をかいた日本の伝統仏教は葬式、法事、先祖供養を主とした形骸化が生じ、戒名に位を付けて高値で売るなどという、本来の目的とは正反対のことがまかり通るような権威主義によって堕落しています。

引用返信/返信 削除キー/
■6811 / inTopicNo.74)  Re[26]: 善悪の狭間
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/19(Sat) 10:23:37)
    レスありがとうございます。

    No6806に返信(ななしさんの記事
    > パニチェさん、さすがですね。
    > >ななしさんのレスを引用させてただき、私なりに結ぶと以下のようになります。
    > 三段の変化は、結局、「永遠回帰」の思想における「然り」という肯定にほかならないと思いますし、生命の充実感であり、嫌なことさえも肯定できる。
    > つまり、その一デナリオン(約1万円)というのは、決して来世や永遠の命などではなくて、自分なりの大いなる正午を自らの生であるところの大地で迎えることを至上の悦びとする瞬間であるということ。
    > 全くもって同意です。

    ありがとうございます。
    ななしさんの先のカキコからすれば少し抵抗があるかな、と思いつつ書きましたが。。。。
    ななしさんは、対応が柔軟というか、よい意味で執着の少ない謙虚な方とお見受けします。^^

    > 来世とかではなくて現在の「地上での恵み」と言ったらいいのか
    > 「生きる充実」というか、決してポジティブシンキングとかではなくて
    > 何もかもを受け入れ肯定出来るということ。
    > 仏教の正見ですね。

    全くもってその通りです。
    私も正見はあるがままをあるがままに観じ(中道)、あるがままを受け入れるという肯定の教義だと思っています。

    > 災害の時などは、特に、バイアスをかけずに、危険なことは危険であると
    > 素直に受け入れ即刻、避難すること。
    > つまり、ポジティブシンキングで、ここには洪水や津波は来ないと
    > 災害時における「正常性バイアス」などの自己暗示をかけても死が待っているだけですから。
    > 日常では心を守るための機能が、災害などの非常時に強く働くことで、
    > 一刻も早く避難しないといけない状況にいながら、「自分は大丈夫」
    > 「これくらいなら避難しなくてもいい」と考えてしまう場合があります。
    > それは、危険を過小評価する落とし穴ですね。

    同意です。そういう意味では恐怖の情動を発動し無意識的に退避行動を起こす扁桃体とか視床下部や即座に反応する身体性はニーチェも言うように大いなる理性だと思います。

    「身体は一つの大いなる理性である。一つの意味を持つ一つの多様であり、一つの戦争と一つの平和であり、一つの畜群と一人の牧人である。わたしの兄弟よ、きみが『精神』と呼ぶところの、きみの小さな理性もまた、きみの身体の道具である。きみの大いなる理性の一つの小さな道具ないしは玩具である。(ツァラトゥストラ 4.身体を軽蔑する者たちについて)」

    「意識。──意識性は、有機体の最後の、最も遅れた発展であり、したがってまたその表面の最も未熟な、最も無力な部分である。(悦ばしき知識第11番)」

引用返信/返信 削除キー/
■6810 / inTopicNo.75)  Re[26]: 善悪の狭間
□投稿者/ ななし -(2020/09/19(Sat) 10:09:08)
    日本では、クリスチャン人口は、1パーセント未満だと言われているそうです。

    その少なさの中で特徴的なことは、キリスト教の教会での日曜日ごとの礼拝ですが、ある信徒の言によれば、日曜日がいちばん忙しく疲れる日なのだそうです。

    というのも私自身は、教会生活を知らないので聞いた限りなのですが。

    礼拝が済めば待っているのは、決まってお茶の時間となり、
    信徒同士の交流の時間となり、そして待っているのが教会奉仕なのです。

    日々の人間関係に疲れているにもかかわらず礼拝が済めば早々に待っているのは、婦人会や青年会そしてイベントの打ち合わせなど心を落ち着かせる時間もないほどスケジュールは詰まっているのだそうです。

    少数の教会で共同体での組織活動に伴うものが人間関係です。
    疲れるのもあたりまえかもしれません。

    牧師や神父にしても人間です。
    そりが合う合わないもあることでしょう。

    通っている教会に、あれやこれやと不満も生まれることでしょう。
    きっと、ニーチェもこんな教会員の事も見ていたのではないでしょうか。

    教会生活が疲れる原因はいったい何でしょうか。
    難しい問題ですね。

    「あとの者は先になり、先の者があとになる」

    神の言葉は、奥が深いですね。


引用返信/返信 削除キー/
■6806 / inTopicNo.76)  Re[25]: 善悪の狭間
□投稿者/ ななし -(2020/09/19(Sat) 09:38:28)
    パニチェさん、さすがですね。

    >ななしさんのレスを引用させてただき、私なりに結ぶと以下のようになります。

    三段の変化は、結局、「永遠回帰」の思想における「然り」という肯定にほかならないと思いますし、生命の充実感であり、嫌なことさえも肯定できる。
    つまり、その一デナリオン(約1万円)というのは、決して来世や永遠の命などではなくて、自分なりの大いなる正午を自らの生であるところの大地で迎えることを至上の悦びとする瞬間であるということ。

    全くもって同意です。

    来世とかではなくて現在の「地上での恵み」と言ったらいいのか
    「生きる充実」というか、決してポジティブシンキングとかではなくて
    何もかもを受け入れ肯定出来るということ。

    仏教の正見ですね。

    災害の時などは、特に、バイアスをかけずに、危険なことは危険であると
    素直に受け入れ即刻、避難すること。

    つまり、ポジティブシンキングで、ここには洪水や津波は来ないと
    災害時における「正常性バイアス」などの自己暗示をかけても死が待っているだけですから。

    日常では心を守るための機能が、災害などの非常時に強く働くことで、
    一刻も早く避難しないといけない状況にいながら、「自分は大丈夫」
    「これくらいなら避難しなくてもいい」と考えてしまう場合があります。

    それは、危険を過小評価する落とし穴ですね。



引用返信/返信 削除キー/
■6803 / inTopicNo.77)  善悪の狭間
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/19(Sat) 07:52:18)
    2020/09/19(Sat) 08:26:50 編集(投稿者)

    人間の本性が基本的に善でないことは、社会主義や共産主義体制で理想国家を築くどころか一部の特権階級による独裁国家となっていることからして明らかだろう。

    同じく非常時での利他的行為や奉仕精神があることからして悪に塗れているわけでもない。

    人間という日本語はよくできた言葉だ。

    草食獣と肉食獣、共存共栄と弱肉強食(競争淘汰)の両面性を持ち合わせ

    善と悪の狭間で揺れ動く本性

    西洋的な善悪二元論よりも、煩悩によるけがれの有無や濃淡によって区分される善、悪、無記(有覆無記、無覆無記)という仏教的な倫理観の方が現実的である。

    人間、未だ不確定な中間的生物

    「人間は動物と超人とのあいだにかけ渡された一本の綱である。(ニーチェ著『ツァラトゥストラ』より)」

    不安定な綱の上を行く道化師

引用返信/返信 削除キー/
■6791 / inTopicNo.78)  大いなる正午
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/18(Fri) 20:19:37)
    こんばんは、ななしさん。レスありがとうございます。

    No6746に返信(ななしさんの記事)

    以下も思ったところを忌憚なく返信させてもらいます。

    > パニチェさん、こんばんは。
    > ぶどう園の労働者のたとえは、まるで、「ツァラトゥストラ」の荒涼とした断崖のほとりで、若い牧人の口から黒く重たい蛇が垂れ下がり横たわり、のたうちまわっていたときにツァラトゥストラは牧人に向かって「その頭をかみ切れ」と言いヘビを噛みきり、その頭をはき飛ばして高らかに笑ったというようなニヒリズムとの闘いのように感じました。

    上記の箇所を以下に引用します。

    『そして、まことに、わたしが見たもの、そんなふうなものを、わたしはいまだかつて見たことがなかった。一人の若い牧人が、身もだえし、息づまり、けいれんし、顔面をゆがめているのを、私は見た。彼の口からは、一匹の黒い重いヘビが垂れ下がっていた。かつて私は、一つの顔面に、こんなにおびただしい吐きけと色青ざめた恐怖を見たことがあったか?おそらく彼は眠っていたのであろう?そのとき、ヘビは彼ののどのなかに這いこみ── そこにしっかりとかみついたのだ。わたしの手はヘビを引きに引いた。── が、むだであった!わたしの手はヘビをのどから引き出せなかった。そのとき、わたしのなかから叫ぶものがあった、「かみつけ!かみつけ!頭をかみ切れ!かみつけ!」── このようにわたしのなかから叫ぶものがあった。わたしの恐怖、わたしの憎悪、わたしの吐きけ、わたしの憐憫、わたしの一切の善と悪が、声をひとつにして、わたしのなかから叫んだ。── きみたち、わたしを取り囲む大胆な者たちよ!きみたち、探り試みる者たちよ、また、きみたちのうでで狡猾な帆を上げて、いまだ探究されたことのなにもろもろの海に乗り出したことのある者たちよ!きみたち謎を喜ぶ者たちよ!さあ、もうここらで、わたしがあのとき見た謎を明かしてくれ、さあ、もうここらで、最も孤独な者の見た幻影を判じてくれ!というのは、それは一種の幻影であり、一種の予見であったからだ。── わたしはあのとき比喩のかたちで何を見たのか?そして、やがていつの日か来たらざるをえない者は、誰であるのか?あのように自分ののどのなかへヘビに這いこまれた牧人は、誰であるのか?やがてあのように自分ののどのなかへ一切の最も重いもの、最も黒いものに這いこまれるであろう人間は、誰であるのか?── だが、牧人は、わたしの叫びが彼に勧めた通りに、かんだ。彼は物の見事にかんだのだ!彼はヘビの頭を遠くへ吐き捨てた ──。そして跳び上がった。── もはや牧人ではなく、もはや人間でもなく、── 一人の変化した者、一人の光に取り囲まれた者として、彼は笑った(哄笑した)のだ!彼が笑った(哄笑した)ように、一人の人間が笑った(哄笑した)ことは、地上ではいまだかつて一度もなかったのだ!(ニーチェ著「ツァラトゥストラ 幻影と謎について」より)』

    上記の蛇は永劫回帰の暗黒面とそれに伴う受動的ニヒリズムの象徴です。
    この箇所と「ぶどう園の労働者のたとえ」がどう関連するのか私には分かりません。

    > 三段の変化は、結局、「永遠回帰」の思想における「然り」という肯定にほかならないと思いますし、生命の充実感であり、嫌なことさえも肯定できる。
    > つまり、その一デナリオン(約1万円)というのは、決して来世や永遠の命などではなくて

    ここまでは同意できますが、以下は違和感があります。
    何故ならニーチェ哲学にとって神(ユダヤ・キリスト・イスラム教が信仰対象とする人格神)は人類にとっての福音ではなく禍因でしかないからです。

    > この世における神への信仰による生きがい、生命の充実感の事ではないかなと思いました。
    > それが、現世において神から与えられるのが「あとの者は先になり、先の者があとになる」ということ。天の国とは、このような神との交わりの場なのかなと思います。

    ななしさんのレスを引用させてただき、私なりに結ぶと以下のようになります。

    三段の変化は、結局、「永遠回帰」の思想における「然り」という肯定にほかならないと思いますし、生命の充実感であり、嫌なことさえも肯定できる。
    つまり、その一デナリオン(約1万円)というのは、決して来世や永遠の命などではなくて、自分なりの大いなる正午を自らの生であるところの大地で迎えることを至上の悦びとする瞬間であるということ。

引用返信/返信 削除キー/
■6746 / inTopicNo.79)  Re[22]: 精神の三変化
□投稿者/ ななし -(2020/09/17(Thu) 19:55:47)
    パニチェさん、こんばんは。

    ぶどう園の労働者のたとえは、まるで、「ツァラトゥストラ」の荒涼とした断崖のほとりで、若い牧人の口から黒く重たい蛇が垂れ下がり横たわり、のたうちまわっていたときにツァラトゥストラは牧人に向かって「その頭をかみ切れ」と言いヘビを噛みきり、その頭をはき飛ばして高らかに笑ったというようなニヒリズムとの闘いのように感じました。


    三段の変化は、結局、「永遠回帰」の思想における「然り」という肯定にほかならないと思いますし、生命の充実感であり、嫌なことさえも肯定できる。

    つまり、その一デナリオン(約1万円)というのは、決して来世や永遠の命などではなくて、この世における神への信仰による生きがい、生命の充実感の事ではないかなと思いました。

    それが、現世において神から与えられるのが「あとの者は先になり、先の者があとになる」ということ。天の国とは、このような神との交わりの場なのかなと思います。






引用返信/返信 削除キー/
■6712 / inTopicNo.80)  精神の三変化
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/16(Wed) 22:14:00)
    **** 以下、ニーチェ著「ツァラトゥストラ 三つの変化について」より引用 ****

    わたしはきみたちに精神の三つの変化を挙げてみせよう。すなわち、精神がラクダになり、そしてラクダがシシになり、そして最後にシシが子供になる次第を。内に畏敬を宿す精神、強くて、重荷に耐える精神にとっては、多くの重いものがある。この精神の強さは、重いものを、最も重いものを欲しがるのだ。何が重いか?重荷に耐える精神はそう尋ねて、ラクダのように、ひざまずき、そして、たっぷりと荷を負わされることを欲する。わたしがわが身に負うて、わたしの強さを享楽すべき、最も重いものは何か、きみら英雄たちよ?重荷に耐える精神はそう尋ねる。

    …《中略》…

    重荷に耐える精神は、これら最も重いもののすべてをわが身に負う。こうして彼は、荷を負わされて砂漠へと急ぐラクダのように、自分の砂漠へと急ぐのだ。だが、この最も寂寥たる砂漠において、第二の変化が起こる。ここで精神はシシになるのだ。彼はみずからの自由をかちとろうとし、自分自身の砂漠において主であろうとするのだ。彼はここで自分にとっての最後の主を捜し求める。彼は最後の主、自分の最後の神に、敵対しようとするのだ。彼は大きな竜と勝利を争おうとするのだ。精神がもはや主とか神とか呼ぶことを欲しない大きな竜とは、どのようなものか?この大きな竜は、「なんじ、なすべし」と呼ばれる。だが、シシの精神は「われ欲す」と言う。「なんじ、なすべし」が、この精神の行く道のかたわらに、金色にきらめきながら、横たわっている。それは一匹の有鱗動物であって、そのうろこの一枚一枚に、「なんじ、なすべし!」が金色に輝いている。これらのうろこには、千年の諸価値が輝いている。そして、あらゆる竜のなかで最も強大な竜は、次のように語る。「諸事物のあらゆる価値──それがわが身に輝いている。」「あらゆる価値はすでに創造された。そして、あらゆる創造された価値──わたしがそれである。まことに、もはや〈われ欲す〉が存在しなくてはならない!」竜はこのように語る。

    わたしの兄弟たちよ、なんのために精神のうちなるシシが必要であるのか?断念し、畏敬の念に充ちた、重荷を負いうる動物では、なぜ充分ではないのか?
    新しい諸価値を創造すること──それはシシもいまだなしえない。だが、新しい創造のための自由を獲得すること──それはシシの権力のなしうることだ。自由を獲得し、義務に対しても或る神聖な否認を行うこと、そのために、わたしの兄弟たちよ、シシが必要なのだ。
    新しい諸価値への権利を取得すること──それは、重荷に耐え、畏敬の念に充ちた精神にとって、最も恐ろしい取得である。まことに、このような精神にとって、それは強奪であり、猛獣のしわざである。
    この精神はかつて「なんじ、なすべし」を自分の最も神聖なものとして愛した。いま彼は、自分の愛からの自由を強奪するために、最も神聖なもののうちにすらも、妄想と恣意とを見出さなくてはならない。この強奪のために、シシが必要なのだ。

    だが、言え、わたしたちの兄弟たちよ、シシもなしえなかった何ごとを、子供はさらになしうるのか?なぜ、強奪するシシは、さらにまた子供にならなくてはならぬのか?子供は無邪気そのものであり、忘却である。一つの新しい始まり、一つの遊戯、一つの自力でころがる車輪、一つの第一運動、一つの神聖な肯定である。そうだ、創造の遊戯のためには、わたしたちの兄弟たちよ、一つの神聖な肯定が必要なのだ。いまや精神は自分の意志を意欲する。世界を失った精神は自分の世界をかちえるのだ。

    *************** 引用終わり ***************

    駱駝は「汝なすべし」という定言命令(自己に課せられた責任や義務)を背負い、力強い足どりで荒涼とした砂漠を孤独のうちに歩み行く強靭な精神の象徴。

    強靭な精神はこれに飽き足らず、持て余す力から「我欲す」という雄叫びとともに自己を束縛するありとあらゆるものへの闘争(自己超克への闘争)に挑み続ける獅子に変化する。

    既成概念や既存価値の象徴「黄金の竜(キリスト教的善悪二元論道徳や、精神の創出者にして大いなる理性であるところの身体性を否定するかのような禁欲主義など)」との闘争によって、打ち克った自由を謳歌しつつ、なおも創造の遊戯を続けるためには忘我のまま無垢なる遊戯に高じる子供となる。

    無邪気や忘却や遊戯は忘我(無我夢中)のままの無垢なる戯れを意味する。

    無垢なる戯れとは、世界を認識し、意味や価値を自らの生の遠近法上に付与する主としての創造の遊戯、ニーチェが言うところの認識の実験たる創造的な生そのものである。

    創造の遊戯によって自らが創出した世界には、何ものも自己の対立物は存在せず、自己存在と万物の存在が渾然一体となり「然り!」という「一つの神聖な肯定」を発するに至る。

    トップダウン的に与えられていた世界や生の意味や価値は神の死によって喪失するが、主を失った精神が三つの変化を経て自分の世界をかちとり、全肯定する運命愛へと帰結する。

    牧師の長子として生まれ、アンチクリストを経てディオニュソスへ

    ニーチェの生涯は精神の三変化そのものである。
引用返信/返信 削除キー/
■6691 / inTopicNo.81)  ぶどう園の労働者のたとえ
□投稿者/ ななし -(2020/09/15(Tue) 21:23:47)
    マタイ福音書20章1〜16

    「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。」

    https://www.church.ne.jp/ikegami/matthew20_1-16.html

    さて、このたとえは何を語られたのでしょうか。
    16節に、「このように、あとの者は先になり、先の者があとになるものです」
    とあります。

    同じ表現が、このたとえの直前の、19章30節にある。実は訳されていないが、30節に続く20章1節の冒頭には、「なぜなら」を意味することばがある。「なぜなら、天の御国は」と、先の者があとになり、あとの者が先になるとはどういうことなのかを、たとえで説明しようということでした。


    私たちは本来、滅ぶべき罪人だった。

    地獄に行く値打ちしかない罪人であった。

    それなのに1デナリでは少なすぎると文句を言うのでしょうか。
    実際の神の恵みはご存じのように1デナリ以上です。

    私たちは、ただ神の恵みの豊かさに感謝していたいものです。
引用返信/返信 削除キー/
■6690 / inTopicNo.82)  Re[19]: ニーチェのカント的道徳批判
□投稿者/ ななし -(2020/09/15(Tue) 21:02:42)
    パニチェさん、こんばんは。

    複雑系は、対象物を細かく分解してその仕組みを理解しようとする『要素還元主義』に批判した学問であり、その中心がサンタフェ研究所なのでした。

    確かに「カウフマン 生命と宇宙を語る」という本は、話としては面白いとは思うものの仮設の域を出てない話が多くて不完全燃焼の感じがしました。

    カウフマンは、「生態系」の中の「生き物(システム)」たちは、お互いに影響を与え合いながら、各々のシステムが収束するギリギリのところを目指して収束していく「共進化」があり、それは、あたかも『神の見えざる手』が存在するかのようだと、どこかで述べていたように思いますが、詳しいことは忘れてしまいました。

    生命が誕生し進化を続け、我々が今ここに在るのは決して確率論的な『偶然』によるものではなく秩序がゆらぐ限界のところ「カオスの縁」を目指して、自らが自律的に最適な進化の道を捜し求めるような性質をはじめから備えていたのだと・・・。

    カウフマンからは、そんな決定論的な感じも受けましたが、何か遠い出来事だったようにも感じてしまいます。


引用返信/返信 削除キー/
■6632 / inTopicNo.83)  Re[18]: ニーチェのカント的道徳批判
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/14(Mon) 19:51:51)
    No6598に返信(ななしさんの記事)
    > 久しぶりにカウフマンの名前を目にしました。
    > カウフマンによれば、生命の発生と進化には自然淘汰の他に自己組織化が必要で
    > あり、進化の結果、生命は「カオスの縁」から生まれ存在するという仮説ですね。
    > カウフマンと言えば複雑系研究のメッカであるサンタフェ研究所を思い起こしますが、20年以上前、当時は、自分も物凄く入れ込みをして「カオスの縁(edge of chaos)」にきっと答えが出てくると思っていたものです。
    > 現在は、どうなっているのでしょう。

    最近のカウフマンは私も知りませんが、その後に「カウフマン 生命と宇宙を語る」という本を読みましたが、これは私的にはイマイチでした。

    No6599に返信(ななしさんの記事)
    > パニチェさん、文字化けのご指摘ありがとうございます。
    > 今後は、気を付けたいと思いますので、ご容赦下さい。

    全然、大丈夫ですよ。
    返信しようと思ったのですが文字化けで論旨が分からなかったので、カキコしました。^^

引用返信/返信 削除キー/
■6599 / inTopicNo.84)  Re[17]: ニーチェのカント的道徳批判
□投稿者/ ななし -(2020/09/13(Sun) 19:35:09)
    パニチェさん、文字化けのご指摘ありがとうございます。

    今後は、気を付けたいと思いますので、ご容赦下さい。
引用返信/返信 削除キー/

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