| 2020/09/05(Sat) 11:02:35 編集(投稿者)
以下、Panietzsche Room > 仏教 > 中論 > 5.因果応報の弊害 より
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仏教の縁起思想と言えば、多くの人は時間軸をメインとした因果応報とか善因楽果や悪因苦果をイメージするのではないだろうか。
ところがこの思想は仏教というよりも、その土台となったバラモン教の色合いが強く、弊害や危険な思想にもなりかねないドグマである。
輪廻転生とか三世(過去・現在・未来)にわたる業(カルマ)は、生まれながらにして身分が保障されるカースト制度や世襲制が正当であることの論拠となる。 逆の言い方をすればインドに攻め込んだアーリア人が自分たちの身分を末代にわたるまで保障するため考え出された思想と言えなくもない。 つまり、生まれながらにして高貴な身分であることは前世に積んだ善業の結果であるという考え方である。
その反面、この思想のロジックでは先天的なハンディを持って生まれた人に対して前世の結果であるかのように断罪してしまうという、とんでもない言いがかりのような理屈も通ることになる。
さらにオウムのポアでもあったように、今世で悪業を重ねながら生きている人がいれば、よりよき来世のためにポア(オウムでは殺人を意味したが、もともとは死後に魂を仏界に戻すこと)してやることが救済であるかのような危険極まりないロジックも成立してしまう。
実際のところ、一つの原因が一つの結果を生むなんてことは現実的にはありえない。原因も何らかの別の原因による結果であるし、さまざまな要素(原因や結果)が複雑に関連して、ある結果を招いているというのが実態である。
ピストルを撃ったから、撃たれた相手が死んだとして、ピストルの引き金を引いたことが、その原因と言えるだろうか?どこで、どのような理由で、誰からピストルを手に入れたのか?相手がその場にいたのは、どのような理由からか?などなど常に無数とも言えるくらいの要素がある事象に絡んでいる。
釈尊の教えの原型をとどめていると言われる初期仏典のスッタニパータには「生まれによって賎しい人となるのではない。生まれによってバラモンとなるのではない。行為によって賎しい人ともなり、行為によってバラモンともなるのである。(スッタニパータ142)」という教えがある。
また、仏弟子になる際に世俗での階級を象徴していたカースト制度上の名前を捨てさせ戒名したことからしても、釈尊が前世の業(カルマ)を重んじていたとは思えないし、自らが王家に生まれ、その身分を捨てたことからしても、その証左となるだろう。
仮に三世の業(カルマ)や因果応報が恐怖ともなりうるような教義を有している仏教系宗教団体があるとすれば、それこそ苦を増幅させるような非佛であり、信者を恐怖で団体に引き止め呪縛する邪道に他ならない。
縁起思想にもいろいろある。 十二縁起、相依性縁起、真如縁起、法界縁起、如来蔵縁起、分位縁起、業感縁起などなど。初期仏教ではシンプルであったが、その後の学究と修行によってさまざまな解釈がなされた結果である。
日本に伝来した大乗仏教の縁起思想がどのようなものであったかについては長くなるので次の機会にするとして、結論だけ言えば業感縁起(因果)や分位縁起(三世の業)が時間軸のみを対象とした解釈であるのに対して、八宗の祖師とされるナーガールジュナ(龍樹)の論書である中論で語られている空間的な(あるいは時空を一元的に捉えた)解釈であるところの相依性縁起こそ、仏教ならではの縁起思想と言える佛智の賜物である。
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