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No7252 の記事


■7252 / )  Re[57]: 奴隷一揆
□投稿者/ minori -(2020/10/02(Fri) 08:17:21)
    パニチェさん、レスありがとうございます。

    >ただ一つだけ補足させてもらうとニーチェのキリスト教批判の核心はパウロやアウグスティヌスに対するものではなく、ユダヤ教の成立そのものにあります。
    キリズト教、イスラム教、ユダヤ教共通の聖典である旧約聖書の成立を心理学的に解体した上で強烈な批判を浴びせます。
    そこのところを次の投稿でアフォリズムの引用もしつつカキコしてみますが、興味がなければスルーでも結構です。^^


    興味深く拝見しました。ありがとうございます。


    > 『いわく、「ユダヤ人とともに道徳における奴隷一揆は始まる」と。この一揆は背後に二千年の歴史をもっており、今日われわれの目にふれないのは、それが──勝利をおさめてしまったからにすぎないのだ…(道徳の系譜 第一論文7)』
    >
    > 『ユダヤ人たち──タキトゥスと古代世界のすべてが言うところでは「奴隷に生まれついた」民族であり、彼らが自ら言いかつ信じるところでは「諸民族のうち選ばれた民族」である──そのユダヤ人たちが価値の逆転という、あの奇術をやってのけたのであり、そのおかげで、地上の生活は数千年にわたって、一つの新しく危険な刺激を手に入れることになった。(善悪の彼岸196番)』
    >
    > 『道徳における奴隷一揆の手始めは「怨恨(ルサンチマン)」そのものが創造となって、価値を生み出すということである。本当の反癈、行動による反癈ができないところから、単に想像上の復讐によって、自己のうけた損害の埋めあわせをつけるような人たちのいだく「怨恨」が、価値を生みだすのだ。すべての高貴な道徳が、自己自身に対する勝ち誇った肯定から生い立ってくるのに対して、奴隷道徳は始めから「外なるもの」、「違った生き方をするもの」、「自己ならざるもの」に対して「否」を言うのだ。しかもこの「否」がこの道徳の創造行為なのだ。価値を設定する眼差しをこのように向きかえること──自己自身に帰るかわりに、このように止むを得ずして、外に向かうこと──エジプトで奴隷として他民族に支配されていたヘブル人(ユダヤ人)は、本来自分達は神の民であり、我らを支配する絶対唯一の存在は神のみであるという発想の転換をやってのけた。これこそが「怨恨」の本性なのだ(道徳の系譜 第一論文10)』
    >
    >
    > エジプトで奴隷として他民族に支配されていたヘブル人(ユダヤ人)は、本来自分達は神の民であり、我らを支配する絶対唯一の存在は神のみであるという発想の転換をやってのけた。奴隷一揆は特定民族のルサンチマンによって生じ、生と死、大地と天国の価値をひっくり返した天地逆さの奇術をやってのけたということ。
    >
    > 抑圧された奴隷がつくった宗教のため、その倫理観も自虐的であり、生を罪深いもの(原罪)としたり、禁欲的なことを善とし、人間を家畜の如く飼いならし、画一的かつ没我な畜群化するようなものでしかない。

    虐げられたり安住の地をなかなか確保できないのも、神に選ばれた民族だからであり、神により与えられた試練ともいえる、という考え方になるのですよね。

    弱者である自分たちは多民族からは虐げられてきたけれど、自分たちを支配できるのは実は神だけである、というのを暗に言っているとニーチェは考え、そうした考え方から出る道徳は、むやみに禁欲的だったりで不自然だ、と考えていたのでしょうね。

    試練が多すぎると自分が救われる物語を作りたくなる心理というのが人間にはあるように思えるので、そういう意味ではユダヤ民族の気持ちも分かるし、ニーチェが批判的に考えるのも理解できる、という感じが私はします。


    > 人として生まれた特権は世界に意味や価値を創出しつつ自己超克し続けることであり、絶対的な真理やトップダウンの善悪二元論道徳は、本来ダイナミックであるはずの生や個性豊かで多様な側面をもつ人間ならではの特権を画一化し弱体化させるばかりか、畜群動物へと後退させるようなマイナス要素があるということを看破した。
    >
    > 人間は神の隷属ではないということ。
    >
    > ニーチェのもうひとつの大仕事は自虐的なキリスト教的善悪二元論道徳(奴隷道徳)に代わる君主道徳(高貴な人間のための高貴な人間による高貴な道徳)を提起したことにある。

    すでに与えられているものを信じ、それに従っていれば安心であるという考え方を超え、自分で考え行動し創造する人間の能力をフルに活用する、そうしたことをニーチェは提唱していたのですね。

    現代においてはたしかに、ニーチェが語る超人的スタイルの人が社会的にも成功しやすいし、そうでなかったとしても人生を楽しめると思います。
    人生をその人なりの楽しみ方で充実して過ごしていると、逆に自ら湧き出る幸福感から現代風な意味での道徳的生き方にもなるようにも思います。

    生きる上での選択肢が限られていた古代の人々より、そういう意味では私たちは幸せなんだろうな。
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