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■41777 / inTopicNo.1)  史的ゴータマシッダルタと史的イエス
  
□投稿者/ knowingitself -(2025/04/05(Sat) 14:53:43)
    悪魔ちゃん 横レス失礼します

    > 過去に生きたキリストっていう名の人とゴータマシダルタっていう名の人の言う「教え?」みたいなのになんでそれほどまでにこだわるのかがわたしにはわかんない。

    まったくもっともな疑問だと思います。

    この疑問に対してキリスト教から主張されるのは、

    キリスト教は「キリストの言う教え」では決してないと。

    「神のことば」が身体をもつ人間になったことがキリスト教の最大の特徴であって、

    昔の宗教家や哲学者、科学者、偉人賢人などの「言う教え」では全然ないと。

    なので、身体論の哲学、メルロポンティや現象学とキリスト教は相性がいいとみられる場合も。

    仏教なら大乗仏教がこのキリスト教の主張にどこか似ているかもしれません。

    ゴータマシッダルタという先駆的個人の「言う教え」とは違うんだと。宇宙的な究極真理が仏教なんだと。

    が、最近の仏教研究や現代日本人の好みはゴータマシッダルタという「人の言う教え」にばかり視点が置かれるように思う。





引用返信/返信 削除キー/
■41760 / inTopicNo.2)  SumioBaBaさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2025/04/05(Sat) 06:22:53)
    おはようございます、SumioBaBaさん。レスありがとうございます。

    No41754に返信(SumioBaBaさんの記事)

    >  そうですか。平行線をたどるようだったら、ここで議論終了にした方が賢明だと思います。
    >  ただ、考えのズレははっきりしましたね。
    >  SumioBabaは、「「多世界解釈」(正)は〔仮説〕でも、それを(合)=(正)+(反)と止揚(アウフヘーベン)した「多世界解釈」(合)はトートロジーであり、SumioBabaが使っているのは「多世界解釈」(合)というトートロジーの方であって、「多世界解釈」(正)という〔仮説〕は使っていない」と説明しました。
    >  パニチェさんは、「多世界解釈」(正)と「多世界解釈」(合)の区別も無視したまま、「「多世界解釈」は〔仮説〕であり、「多世界解釈」を使ったSumioBabaのSB理論も〔仮説〕である」と結論された訳ですね。

    上記のSumioBaBaさんの括り方にも異論はありますがやはり平行線になるので反論は控えさせてもらいます。^^

    >  他に理解者を探してみますので、もう少しSB理論の説明を続けさせて下さい。

    もちろんです。
    SumioBaBaさんがニークラに参加いただいていること、ここで議論やレス交換されることは大歓迎です。
    その気持ちは全く変わりませんので、今後ともよろしくお願いします。

引用返信/返信 削除キー/
■41759 / inTopicNo.3)  日本人の形而上学嫌い
□投稿者/ knowingitself -(2025/04/05(Sat) 06:21:18)
    理論物理学というのは形而上学に近いと思っている。

    というか、他の数多くの科学分野に比べれば、形而上学といえないか。ニュートン力学などは現代の細分化された多ジャンルの科学理論からみると、形而上学にかぎりなく接近しないか。

    確かに理論の根本の核が実験データによって基礎づけられなければ、単なるアタマの理屈だが、

    実験検証が成功したとしても、あまりにも複雑怪奇、膨大で変化だらけの自然のほとんどは、科学からみても未知未開。

    最も成功して科学理論はやはり、ニュートン力学で、そのバージョンアップの現代物理学であることに変わりはないのではないか。

    その理論物理学に比べれば、数学はさらに形而上学。こちらは実験の検証はいらない。

    すべて仮説から成り立っているともいえる。もっとも仮説なる科学理論の概念は数学では使わないか。

    すべて理論内部で、成功不成功も決まる。実験も検証も、自然界からもってくるのではない。

    形而上学というと知性における悪の権化みたいな風潮はおかしあとおもっている。

    江戸時代以来の日本人特有の精神傾向かと感じている。
引用返信/返信 削除キー/
■41754 / inTopicNo.4)  Re[21]: 理論は仮説
□投稿者/ SumioBaBa -(2025/04/05(Sat) 00:17:45)
    No41748に返信(パ二チェさんの記事)
    > こんばんは、SumioBabaさん。レスありがとうございます。
    > 今回は最後の返信になるかもしれませんので忌憚なく思うところを返信します。
    >
    > ■No41711に返信(SumioBaBaさんの記事)
    >> SumioBabaが「量子力学」「多世界解釈」「梵我一如」といった考え方を利用しているのは確かです。
    >> しかし、これらはみな、そのまま使うと〔仮説〕です。そこで〔仮説〕に過ぎない(正)を、その否定である(反)との間に、(合)=a(正)+b(反)(0≦a≦1、0≦b≦1)と止揚(アウフヘーベン)します。すると、(合)はトートロジーになります。
    >
    > 多世界解釈を仮説と認めておられるなら、多世界を前提としたSB理論も仮説となります。
    > SumioBabaさん自身がSB理論と表記されているわけですから(No41704)SumioBabaさんも仮説と認めておられることになります。
    > 物理理論も全て仮説です。で、この仮説の正しさは観測や実験によって実証または検証されます。
    > アウフヘーベンやトートロジーによって正しさを担保できるものではありません。
    >
    > ■No41705に返信(SumioBaBaさんの記事)
    >> この点にはすでにNo41608で説明しましたが、もう一度説明します。
    >> 「多世界解釈」(正)=「存在し得るすべての世界W0、W1、W2、W3、…が存在する」と解釈すると、ただの〔仮説〕になります。「存在する」と「存在しない」のうち、「存在する」の方だけに限定してしまっているからです。
    >> そこでこれの否定である「多世界解釈」(反)=「存在し得るすべての世界W0、W1、W2、W3、…の中には存在しないものがある」を考え、(合)=(正)+(反)と止揚(アウフヘーベン)します。
    >
    > まず多世界解釈というのは量子、例えば電子が存在する位置が異なる(ボルンの確率解釈に沿って位置する)世界が並行して存在するということです。
    > シュレディンガーの猫で言えば死んでいる猫と生きている猫は重ね合わせで存在するのではなく、死んでいる猫と生きている猫がいる世界が同時並行で存在しているということになり、「存在しない」というのは多世界解釈ではどこにも登場しません。
    >
    > ■No41309に返信(Sさんの記事)
    >> 量子論理を使った神論・世界論です。
    >> インド哲学でいう梵我一如を採用し、神の定義は「存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を要素とする集合{M}」とします。存在するのは神(ブラフマン) だけです。神の本来の姿は無意識状態の「空」M0ですが、全知全能であり、存在し得るすべての有意識状態の心である「色」M1、M2、M3、…を作り出し、自ら体験して(夢を見て)楽しんでいるだけ、と考えます。物質世界は夢の中の幻(マーヤー)であり、実在しません。人間の心(アートマン)も「色」M1、M2、M3、…に含まれ、神自身が見ている夢です。そして量子論理を使い、こう表現します。
    >>    存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…のそれぞれが
    >>    a「存在する」+b「存在しない」(0≦a≦1、0≦b≦1) …※
    >>これは、「存在する」(a=1、b=0)かもしれない、「存在しない」(a=0、b=1)かもしれない、「両方」(a≠0、b≠0)かもしれない、「片方」(a=1、b=0、または、a=0、b=1)かもしれない、とすべての可能性を考慮しているため、決して外れようが無く、証明不要のまま論理的必然性で恒真(トートロジー)になります。喩えると、「確率1/6ずつで1〜6の目が出るサイコロを振ると何の目が出るか?」という問に、「1、2、3、4、5、6、のどれかが出る」と答えるようなものです。神は全知全能であるため、個々の心について「存在する」と「存在しない」の片方に限定されず、「存在する」「存在しない」「両方」「片方」のすべてを確率的に実現している、という意味です。しかも※が世界のすべてです。つまりこう考えると、神と世界の謎がすべてトートロジーに解消できたことになります。
    >> 間違いが無いかどうか、批評して下さい。
    >
    > 空観を仏教の根本教理として深化させたのはナーガールジュナ(龍樹)を代表とする中観派です。
    > 中観派は説一切有部の我空法有を否定し、我空法空を教理とします。
    > よってシャンカラによる不二一元論は空性からほど遠い思想となります。
    > 何故ならマーヤーの幻影、つまり夢見る主体(我空法有)、ましてや全知全能の神などは想定しませんし、その意味においては我空法空です。
    >
    > 申し訳ないのですがSB理論はさまざまな言説を牽強付会的に寄せ集めた仮説のようにしか私には思えません。
    > この反論へ真正面からレスいただけるのであれば返信させてもらいますが、同じ説明の繰り返し(アウフヘーベンやトートロジー)であれば平行線になりますので、SB理論に関するレス交換はここまでとさせていただきます。
    >

     そうですか。平行線をたどるようだったら、ここで議論終了にした方が賢明だと思います。

     ただ、考えのズレははっきりしましたね。

     SumioBabaは、「「多世界解釈」(正)は〔仮説〕でも、それを(合)=(正)+(反)と止揚(アウフヘーベン)した「多世界解釈」(合)はトートロジーであり、SumioBabaが使っているのは「多世界解釈」(合)というトートロジーの方であって、「多世界解釈」(正)という〔仮説〕は使っていない」と説明しました。

     パニチェさんは、「多世界解釈」(正)と「多世界解釈」(合)の区別も無視したまま、「「多世界解釈」は〔仮説〕であり、「多世界解釈」を使ったSumioBabaのSB理論も〔仮説〕である」と結論された訳ですね。

     他に理解者を探してみますので、もう少しSB理論の説明を続けさせて下さい。
引用返信/返信 削除キー/
■41752 / inTopicNo.5)  Re[17]: 青色本
□投稿者/ パ二チェ -(2025/04/04(Fri) 22:05:51)
    2025/04/05(Sat) 09:04:46 編集(投稿者)

    こんばんは、ザビビのふくろうさん。レスありがとうございます。

    No41726に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    > カメレスすみません。
    > 書いていたら、どうしても長大になり終わりそうにないので、諦めて思い切って短く書いて見ました。
    > わかりにくかったらすみません。

    とんでもない。またカメレスは以後も全然大丈夫です。

    > >>***********************
    > >>私に「何であれ,それが見られる(本当に見られる)とき,それを見る者は常に私である」※と言わせる[独我論]の誘惑に,私は,「何であれ,それが見られる(本当に見られる)とき,その見られるものはこれである」と言うときにもまた,負けていたのである。なお,「これ」という語には私の視野[全体]を抱くような身振りを伴って,である。(しかし,「これ」という語によって私がその時点でたまたま見ている特定の対象を意味してはいない。)[独我論者である]人は,こう言うかもしれない。「私は視野を視野として指さしているのであって,視野の中にある何かを指さしているのではない。」※※そして,このように言う事は,「何であれ,それが見られる(本当に見られる)とき,それを見る者は常に私である」という[独我論の]表現は無意味である,という事を暴露するのに役立つだけである※※※。
    >>
    > >>※104頁(『全集』p.112 )
    > >>※※『論考』の独我論を考えればよい。
    > >>※※※しかし,何故そうであるかは,後に112頁(『全集』p.126)で述べられる。
    >>
    > >>そこで,[独我論を表す]我々の表現「何であれ,それが見られる(本当に見られる)とき,それを見る者は常に私である」の中の「常に」という語を取り除いてみよう。そうしても私は,私の[論じている]独我論を,「私が見る(或いは,今見る)もののみが,本当に見られるのである」と言って,表現する事が出来るのである。そして,ここにおいて私は,こう言いたくなる。「私は,「私」という語によって,L.W.を意味しはしないが,もしも今まさに私は事実としてL.W.であるならば,他人が[私の]「私」という語はL.W.を意味すると理解しても,それはそれでよい。」私が「私」という語について今言った事は、「私は[、L.W.ではないが、]生命の器である」と言って表現する事も出来よう。しかし、注意せよ。私がそういう相手は、誰も、[一般に]私[の言う事]を理解出来てはならないという事が本質的なのである。即ち、他人は[一般に]「私が本当に意味する事」を理解出来てはならないという事が本質的なのである。
    >>
    > >>『『論考』『青色本』読解」』 ルードヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン 黒崎宏 訳・解説 p.109〜110
    > >>*************************

    >>・上記のウィトゲンシュタインの言説は永井氏がテーマとしている〈私〉に関する「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」を示唆していると思われますか?

    > (順番を変えて、下の問いへの答えを先に読んでください)
    > この部分だけでそこまで言えるかは、ちょっと微妙です。
    > ただ強いて言えば、本来無意味で余計なものを有意味なものとして語るということは、「比類なき私」「絶対的私」を「ほかならぬ私」「相対的私」に頽落させることであり、これが無限後退の原因であることを示している、とは言えるかな?(笑)

    なるほど、やはりそうですよね。私も同意します。
    気になるのは先の文に続く以下の※箇所です(前回引用した箇所は“>”の部分です)。

    > *** 大修館書店刊『ウィトゲンシュタイン全集6』青色本P116〜P117よりの引用 ***
    >
    > 「何が見えようと見るのは常にこの私だ」と言いたくさせる見方に捕らえられるとまた、「何かが見える場合常に見えているのはこれだ」と、「これ」と言いながら視野全体を抱えるような身振りをすることにもなる(但し、「これ」でもって、たまたま見えた個別的事物のあれこれを意味しない)。そして、「私の指しているのは視野そのもので視野の中の何かではない」と言うかもしれない。だがそうしてもただ、もとの表現の無意味さを暴露するだけである。
    >
    > [これらの難点は、常に……だということからきているのだから]「常に」をお払い箱にしよう。それでも[私が独我論を代弁して]この独我論を、「私が見るもの(又は、今見るもの)だけが本当に見られるものである」、と言って表現できる。そしてまた、「『私』という語でL・Wを意味してはいない。しかし、たまたまこの私が事実としてL・Wである場合には、他人がこの『私』をL・Wの意味にとってくれて結構だ」、と言いたい。だがその代わりに、「私は生命の器だ」、と言っても同じなのだ。注意してほしい。つまり肝心なのは、私の言うことを聞く人がそれを理解できてはならないことなのである。他人には「私が本当に意味すること」がわかってはならぬことが肝心なのだ。

    もっとも実際にはこの私の要求に応えて彼の表示方法の中で[私の言うことの本当の意味は了解不能であることを示すように]私を例外的に扱ってくれることはできる。これでわかるように、上の私の表現は、様々な場合に哲学者が使う、それを言う、それを言う当人には何か意味をもつと思われているが他人には何も伝達できないものがその本質であるような、数多い表現の一つなのである。

    ※だがもし、表現がある意味を伝達するとは、その表現が[それを聞く人に]或る経験をもたらしたり、呼び起したりすることであるとするなら、上の[独我論の]表現はあらゆる意味を持っているかもしれない。だがそれについては触れるつもりはない。
    > ************* 引用終わり *************

    何故、ここでウィトゲンシュタインは「表現がある意味を伝達するとは、その表現が[それを聞く人に]或る経験をもたらしたり、呼び起したりすることであるとするなら、上の[独我論の]表現はあらゆる意味を持っているかもしれない」について「触れるつもりはない」とスルーしてしまったのか大いに疑問が残ります。
    ここ、ザビビのふくろうさんはどう思われますか?

    >>・無意味とする根拠は人に伝わないということでしょうか?

    > いいえ、そうではありません。
    > 永井の言い方を使って言えば、対比項を持たない「私」は論理文法的に無意味だからです。たとえば次の「私の」は無意味で余計です。
    >  私は私の頭痛を感じる

    なるほど。

    > >言葉では一時的に伝わらない対象を指し示すことには成功していると思われますか?

    > この問いが、「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」が「一時的に伝わらない対象(〈私〉)を指し示すことに成功しているか」という問いであるのなら、
    > いいえ、思いません。
    > しかし、この「私の」が無意味で余計であるということは、痛みにとって「私のもの性」が本質であるということを示しているとは思います(もちろん、「私の世界」についても同様です)。

    なるほど、そのように読解されるのですね。
    どうも私は(おそらく永井均氏も)自分の哲学的テーマにかぶせ過ぎているのだと思います。

    >>PS.先回りして言えばこのレス交換は私的言語を認めるか認めないかのテーマになるんだろうなぁ〜。ウィトゲンシュタインは否定的であり、永井均氏は肯定的。
    > 議論を突き詰めていけば、そうならざるをえないと思いますが、
    > そうなると『探究』まで踏み込まざるをえませんし、『青色本』もぜんぜん消化できていないので、今のところはちょっとわたし的には無理かもです、すみませんm(__)m

    了解しました。

引用返信/返信 削除キー/
■41751 / inTopicNo.6)  時さんへ
□投稿者/ パ二チェ -(2025/04/04(Fri) 21:33:33)
    こんばんは、時さん。レスありがとうございます。

    No41725に返信(時さんの記事)

    > No41560 (パ二チェさんの記事)
    >>始仏典にある十四無記の教えは私も支持(師事)しているのですが、釈尊の前世が説かれたジャータカでは、後に大乗仏教では顕著になる神格化の兆しがあるように思われます。

    > 多分ですが、、ジャータカには547経が納められているようですね。ですので、光明寺のジャータカの翻訳までは、まだ数か月先になるように思いますので、今、この経典について、ネット等でざっくりとではありますが調べてみました。やはり、仏陀の前世が説かれているようで、パニチェさんが仰るように仏陀の神格化の兆しも書かれているようですね。
    > そこで「いつでも構いませんので」ということで了解しましたが、あまりに先のことになろうかと思い、ジャータカを読む前にその間に少し興味のある個所とつなげて、推測として考察してみます。^^

    ありがとうございます。

    > まず、以前より私の感覚としては、他の4部経典群と比べて小部経典は異質な経典群だという感じがありました。その原因らしきものも含めて、今回の考察としてみたいと思います。
    > 前回も少し触れましたが、「波羅蜜」という表現が他の経典群には登場せず、この小部経典群の一部にだけ登場するのですね。少し違和感がありましたので、そこを中心に調べてみました。

    > 当時、仏陀が使っていた言語は、マガタ地方ではマガタ語でということだったようですが、これは、その地方の一般庶民等が、その地方地方で使っていたという俗語に当たるもののようです。この当時の仏陀の教えを後に上座部がパーリ語でまとめたものが、パーリ5部と言われる経典群(経蔵)ですが、この中で小部経典群だけは、以前より少しその教えの形態(表現)に違和感を感じていました。

    > 何が違うのかというと、他の4部経典群(長部、中部、増支部、相応部)にはあまり出てこない表現がこの小部には出てくるのですね。具体的には、小部12経 「チャリヤー・ピタカ」 や 13経 「ジャータカ」 に出てくる「波羅蜜」という”パーリ語”で書かれた表現です。この波羅蜜という表現は、小部以外の他の4部の経典群には最高のものという意味合いはあるにしても、仏陀の教えとしては出てこないのですね。

    なるほど。マガタ語→パーリ語→サンスクリット語のようですね。
    ちなみにスッタニパータなどの初期仏典はマガタ語で記されているものがあるようです。

    > ・当時のサンスクリット語は、婆羅門階級等の上位階級の使う言語だったようです。

    > この「波羅蜜」は、もともとは、サンスクリット語で「パーラミター」を語源とするようで、このパーラミターが後世に北伝として伝わり、中国大陸を経由して日本に入ってきたときに、「パーラミター」→「波羅密多」→「波羅蜜」と音写されたものが現在でも使われている「波羅蜜」だということのようです。仏陀存命中の婆羅門教徒たち(婆羅門階級)は、言語がサンスクリット語でした。一方、仏陀は、その地方地方の俗語である言葉を使っていたようで、この当時の仏陀の教えを口伝後に上座部がパーリ語で何度も編纂して、足したり差し引いたりで経蔵として後世(現代)に伝えたのだそうです。

    > では、なぜ仏陀の教えにはない表現(波羅蜜)がダンマパダやスッタニパータとともに小部経典に組み込まれることになったのか?ですが、仏陀の没後に何らかの原因で僧伽が分裂後に大乗が誕生した後、当時の婆羅門階級をはじめとして、インド社会全体の多くの知識人たちが使うサンスクリット語を用いて、彼らを大乗の信者として獲得するために励んだようです。そして口伝の時代を経て、上座部がパーリ仏典の繰り返しの編纂時に、この大乗が取り入れたサンスクリット語のパーラミターもパーリ語に変換して取り入れたようですね。ですので、現在に残る小部経典の中にも「波羅蜜」という表現が、パーリ語原文としてもあるのでしょう。
    > インドから中国大陸を経て日本に伝わった大乗仏教の各宗派の教えに波羅蜜という表現が残るのは、こういった経緯があるからなのだそうです。(波羅蜜という教えは、最高のものという意味合いがあるとはいえ、今のところ仏陀自身の教えの中にはありません。)
    > ですので、仏陀の教えにはない、龍樹の中論、法華経、華厳経、般若波羅蜜多心経等、日本の大乗仏教の経典の原典もサンスクリット語だということのようですね。

    同意です。
    ちなみに偽経の定義はサンスクリット原本あるいはチベット大蔵経にない仏典ということらしいです。

    > まとめますと、
    > ・仏陀は、マガタ地方ではマガタ地方の俗語で教えを説いた。
    > ・婆羅門教徒を含むインド社会の上層階級の使う言語は、サンスクリット語だった。
    > ・仏陀の没後に大乗が生まれ、サンスクリット語を使って信者獲得を行った。
    > ・後に、上座部がパーリ語での編纂時に大乗で独自発展した概念(波羅蜜等を含む仏陀の過去世の修行)等が、上座部のパーリの経典内に取り入れられた。
    > ・後世に、中国大陸を経由して日本の大乗仏教が伝わったので、現在の波羅蜜という表現も日本に伝わった。
    > ・この波羅蜜(パーラミター)という表現以外は、上座部によってマガタ地方の俗語から口伝を経て、パーリ語に編纂されて、いつかの編纂時にこのサンスクリット語のパーラミターもパーリ語に変換されて小部経典の一部を形成することになった。
    > ・このような経緯で、波羅蜜という表現が現代にも伝わる小部経典の一部にある。という経緯を辿ったのだろうと思います。

    > ですので、小部経典群の全てが仏陀の教えというのは怪しくて、小部の中には、僧伽の分裂後の大乗の考え方(小部12経、13経)等が混ざって、パーリ語(上座部編纂)の小部経典として現在に伝わっているということだと思います。

    なるほど。

    > 仮に、サンスクリット語のパーラミターが音写の波羅蜜ではなく、その意味合いとしての最高のものという事で後世に伝わってたのであれば、このような混乱はなかったかもしれませんが、これは上でも書きましたが、上座部がパーリ語での編纂時に大乗で独自発展させた概念(波羅蜜等の仏陀の過去世の修行・仏陀の神格化)等を、上座部のパーリの経典に取り入れた事による現在での混乱だと思います。

    > そして、現在の日本の大乗仏教の経典群の元は中国の漢訳経典であり、その漢訳経典の元が、パーリ原典ではなくて、サンスクリット原典だということになるでしょうか。

    同意します。

    > 今回、少し調べた結果としての感想としては、当時、北インドの各地方で使われていた俗語は判断できませんので、次に上座部により編纂時に使われたパーリ語が現代に残る仏典のその語源にあるのかないのかが、問題解決の糸口になるでしょうか。もしもその語源がサンスクリットにあるならば、恐らくは当時の仏陀の教えではなく、僧伽分裂後に大乗の概念が、当時のサンスクリット語としてパーリ編纂時に混入したのではないのかな?と疑ってもよいように思いますね。しかし当時の仏陀が、婆羅門に教えを説くときには、サンスクリット語だった可能性も否定できませんので、そのところの詳細は、分かりません。
    > ですので、ここ(小部経典の編纂時)から上座部と大乗に分かれていったというよりも、仏陀の没後の僧伽の分裂後に大乗の考え方や見方が、上座部のパーリ語での編纂時に混入し、それを当時の上座部が、パーリ原典として認めたものが現代に残ったという方が正しい見方のように思います。
    > もしもこの考え方が大きく間違っていないのであれば、パニチェさんの仰る、後の大乗仏教で顕著になる仏陀の神格化の兆しも、当時の上座部のパーリ編纂時に混入した当時の大乗の考え方に由来するものですので、小部経典にそのような部分があったとしても、今の理解としては不思議ではないように思います。
    > この神格化ということにつきましての特別な何かがもしもあるのであれば、ジャータカの読後ということでお願いします。

    はい。全然急ぎませんので、よろしくお願いします。

    > 今回は、波羅蜜という言葉から、上座部編纂時における大乗の思想の混入の可能性について考えてみました。

    ありがとうございました。

    No41737に返信(時さんの記事)
    > 失礼しました。分かりにくかったので、少し補足します。

    > ■No41725に返信(時さんの記事)
    >>仏陀の没後に何らかの原因で僧伽が分裂後に大乗が誕生した後、当時の婆羅門階級をはじめとして、インド社会全体の多くの知識人たちが使うサンスクリット語を用いて、彼らを大乗の信者として獲得するために励んだようです。

    > 大乗が誕生した後と書きましたが、、これは、仏陀の没後に、それまでは一つに纏まっていた僧伽が、部派に分裂し、その時に、現在の大乗の思想の大元になる思想の持ち主たちが、恐らくは一定数いたのではないでしょうか。勿論、部派に分裂した時に現在の大乗の大元になる思想集団があったのかもしれませんし、なかったのかもしれませんが、とにかく、大乗仏教の成立時期よりも以前には、この思想の大元の考え方があったことは事実だろうと思います。その時期がいつなのかは分かりかねますが、その大乗思想のある集団が、サンスクリット語を用いて、婆羅門階級や知識人たちの大乗仏教の信者獲得のために使っていた表現が、上座部の仏典の編纂時に紛れ込み、同時に仏陀の神格化等のお話も紛れ込んだのだろうという推論です。

    第二結集で保守派の「上座部」または「長老部」と、進歩的な「大衆部」に分かれたようです。
    年代はアショーカ王の即位前、紀元前383年頃とのことでした。

    参考までに以下、中村元、三枝充よし(“直”の下に“心”と書く)共著『バウッダ[仏教]』より引用

    **************************************
    すでに成立していた律の条文の解釈と、その実行とに関して、また新たな条文の追加制定などをめぐって、一種の寛容を求める進歩派と、あくまで厳格で伝統に忠実な態度を崩さない保守派との対立が、一挙に表面化し、その対立はついに和解ならず、ここに両者は分裂する。これを「根本分裂」と称する。
    保守派は「上座部」(スタヴィラ・ヴァータ)、または「長老部」(テーラ・ヴァーダ)と、進歩は「大衆部」(マハーサンギカ)と呼ばれるが、この名称は、前者が主として西方の長老たち(700人という)を中心とし、後者がおもに東方の自由な立場を主張する多数(1万人)の比丘たちの集合であることに由来する。この二つの部派はそれぞれに自分たちだけの結集、いわゆる「第二結集」を行い、おのおのの在り方を確認しあう。ただし、インドは元来、いわゆる中央集権的な態度が(現在もなお)きわめて弱く、このときにはたしてどれほどの出家者たちが集合したかは、かなり疑わしいものと見られる。
    ************* 引用終わり *************

    この人数差に少し驚きました。

引用返信/返信 削除キー/
■41748 / inTopicNo.7)  理論は仮説
□投稿者/ パ二チェ -(2025/04/04(Fri) 20:34:56)
    こんばんは、SumioBabaさん。レスありがとうございます。
    今回は最後の返信になるかもしれませんので忌憚なく思うところを返信します。

    No41711に返信(SumioBaBaさんの記事)
    >  SumioBabaが「量子力学」「多世界解釈」「梵我一如」といった考え方を利用しているのは確かです。
    >  しかし、これらはみな、そのまま使うと〔仮説〕です。そこで〔仮説〕に過ぎない(正)を、その否定である(反)との間に、(合)=a(正)+b(反)(0≦a≦1、0≦b≦1)と止揚(アウフヘーベン)します。すると、(合)はトートロジーになります。

    多世界解釈を仮説と認めておられるなら、多世界を前提としたSB理論も仮説となります。
    SumioBabaさん自身がSB理論と表記されているわけですから(No41704)SumioBabaさんも仮説と認めておられることになります。
    物理理論も全て仮説です。で、この仮説の正しさは観測や実験によって実証または検証されます。
    アウフヘーベンやトートロジーによって正しさを担保できるものではありません。

    No41705に返信(SumioBaBaさんの記事)
    >  この点にはすでにNo41608で説明しましたが、もう一度説明します。
    >  「多世界解釈」(正)=「存在し得るすべての世界W0、W1、W2、W3、…が存在する」と解釈すると、ただの〔仮説〕になります。「存在する」と「存在しない」のうち、「存在する」の方だけに限定してしまっているからです。
    >  そこでこれの否定である「多世界解釈」(反)=「存在し得るすべての世界W0、W1、W2、W3、…の中には存在しないものがある」を考え、(合)=(正)+(反)と止揚(アウフヘーベン)します。

    まず多世界解釈というのは量子、例えば電子が存在する位置が異なる(ボルンの確率解釈に沿って位置する)世界が並行して存在するということです。
    シュレディンガーの猫で言えば死んでいる猫と生きている猫は重ね合わせで存在するのではなく、死んでいる猫と生きている猫がいる世界が同時並行で存在しているということになり、「存在しない」というのは多世界解釈ではどこにも登場しません。

    No41309に返信(Sさんの記事)
    >  量子論理を使った神論・世界論です。
    >  インド哲学でいう梵我一如を採用し、神の定義は「存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を要素とする集合{M}」とします。存在するのは神(ブラフマン) だけです。神の本来の姿は無意識状態の「空」M0ですが、全知全能であり、存在し得るすべての有意識状態の心である「色」M1、M2、M3、…を作り出し、自ら体験して(夢を見て)楽しんでいるだけ、と考えます。物質世界は夢の中の幻(マーヤー)であり、実在しません。人間の心(アートマン)も「色」M1、M2、M3、…に含まれ、神自身が見ている夢です。そして量子論理を使い、こう表現します。
    >     存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…のそれぞれが
    >     a「存在する」+b「存在しない」(0≦a≦1、0≦b≦1) …※
    > これは、「存在する」(a=1、b=0)かもしれない、「存在しない」(a=0、b=1)かもしれない、「両方」(a≠0、b≠0)かもしれない、「片方」(a=1、b=0、または、a=0、b=1)かもしれない、とすべての可能性を考慮しているため、決して外れようが無く、証明不要のまま論理的必然性で恒真(トートロジー)になります。喩えると、「確率1/6ずつで1〜6の目が出るサイコロを振ると何の目が出るか?」という問に、「1、2、3、4、5、6、のどれかが出る」と答えるようなものです。神は全知全能であるため、個々の心について「存在する」と「存在しない」の片方に限定されず、「存在する」「存在しない」「両方」「片方」のすべてを確率的に実現している、という意味です。しかも※が世界のすべてです。つまりこう考えると、神と世界の謎がすべてトートロジーに解消できたことになります。
    >  間違いが無いかどうか、批評して下さい。

    空観を仏教の根本教理として深化させたのはナーガールジュナ(龍樹)を代表とする中観派です。
    中観派は説一切有部の我空法有を否定し、我空法空を教理とします。
    よってシャンカラによる不二一元論は空性からほど遠い思想となります。
    何故ならマーヤーの幻影、つまり夢見る主体(我空法有)、ましてや全知全能の神などは想定しませんし、その意味においては我空法空です。

    申し訳ないのですがSB理論はさまざまな言説を牽強付会的に寄せ集めた仮説のようにしか私には思えません。
    この反論へ真正面からレスいただけるのであれば返信させてもらいますが、同じ説明の繰り返し(アウフヘーベンやトートロジー)であれば平行線になりますので、SB理論に関するレス交換はここまでとさせていただきます。

引用返信/返信 削除キー/
■41745 / inTopicNo.8)  Re[21]: ?
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/04/04(Fri) 19:21:16)
    過去に生きたキリストっていう名の人とゴータマシダルタっていう名の人の言う「教え?」みたいなのになんでそれほどまでにこだわるのかがわたしにはわかんない。
引用返信/返信 削除キー/
■41744 / inTopicNo.9)  量子力学(合)
□投稿者/ SumioBaBa -(2025/04/04(Fri) 19:19:58)
     例えば「量子力学」は、我々の世界W1の中では、偽ではなく真である「量子力学」(正)=「真である量子力学」として認識されます。

     ところが「量子力学」を「空」W0=W1+W2+W3+…全体の中で見ると、W1では真でも、W2では偽になったり、W3では不定になったりしています。

     つまり「量子力学」という同一のものが、「空」W0=W1+W2+W3+…全体の中で見ると、自ずと、「量子力学」(合)=「真にも偽にも不定にもなる量子力学」に変わるのです。

     しかも物理法則とは、偽ではなく真だ、と片方に限定されてこそ物理法則です。

     真にも偽にも不定にもなるような物理法則は、存在していないのと同じです。

     だから「量子力学」は、「空」W0の中では、「量子力学」(合)という中身空っぽのトートロジーになるのです。

引用返信/返信 削除キー/
■41737 / inTopicNo.10)  Re[15]: パニチェさんへ
□投稿者/ 時 -(2025/04/04(Fri) 11:51:24)
    失礼しました。分かりにくかったので、少し補足します。

    No41725に返信(時さんの記事)
    > 仏陀の没後に何らかの原因で僧伽が分裂後に大乗が誕生した後、当時の婆羅門階級をはじめとして、インド社会全体の多くの知識人たちが使うサンスクリット語を用いて、彼らを大乗の信者として獲得するために励んだようです。

    大乗が誕生した後と書きましたが、、これは、仏陀の没後に、それまでは一つに纏まっていた僧伽が、部派に分裂し、その時に、現在の大乗の思想の大元になる思想の持ち主たちが、恐らくは一定数いたのではないでしょうか。勿論、部派に分裂した時に現在の大乗の大元になる思想集団があったのかもしれませんし、なかったのかもしれませんが、とにかく、大乗仏教の成立時期よりも以前には、この思想の大元の考え方があったことは事実だろうと思います。その時期がいつなのかは分かりかねますが、その大乗思想のある集団が、サンスクリット語を用いて、婆羅門階級や知識人たちの大乗仏教の信者獲得のために使っていた表現が、上座部の仏典の編纂時に紛れ込み、同時に仏陀の神格化等のお話も紛れ込んだのだろうという推論です。
引用返信/返信 削除キー/
■41730 / inTopicNo.11)  (合)=(正)+(反)
□投稿者/ SumioBaBa -(2025/04/04(Fri) 05:22:37)
     止揚(アウフヘーベン)による〔仮説〕のトートロジー化として、最も解り易い例が、(正)=「神は存在する」です。

     この(正)は〔仮説〕です。なぜなら、「存在する」と「存在しない」のうち、真理を「存在する」の方だけに限定しているからです。

     そこで(正)の否定である(反)=「神は存在しない」を使い、(合)=a(正)+b(反)(0≦a≦1、0≦b≦1)と止揚します。

     (合)=「神はa「存在する」+b「存在しない」(0≦a≦1、0≦b≦1)」という内容になります。

     (合)は神が、「存在する」(a=1、b=0)かもしれない、「存在しない」(a=0、b=1)かもしれない、「両方」(a≠0、b≠0)かもしれない、「片方」(a=1、b=0、または、a=0、b=1)かもしれない、とすべての可能性を考慮しているため、決して外れようがなく、証明不要のまま論理的必然性で恒真(トートロジー)です。

     (正)や(反)は〔仮説〕なので、そのように主張する場合には、なぜそう言えるのかという立証責任が生じます。

     「確率1/6ずつで1〜6の目が出るサイコロを振ると何の目が出るか?」という問に喩えましょう。

     (正)=「偶数(2、4、6)のどれかが出るに違いない」とすると、(反)=「奇数(1、3、5)のどれかが出るに違いない」であり、(合)=「1、2、3、4、5、6、のどれかが出る」になります。

     (正)と(反)は、当たる可能性も有りますが、外れる危険性も有り、正しいと主張するためには、なぜそう言えるのか、立証責任が生じます。

     (合)だけは、すべての可能性を考慮しているため、決して外れようがなく、証明不要のまま論理的必然性で恒真(トートロジー)になります。


引用返信/返信 削除キー/
■41726 / inTopicNo.12)  Re[16]: 青色本
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2025/04/03(Thu) 23:46:46)
    2025/04/04(Fri) 08:48:18 編集(投稿者)
    パニチェさん、こんばんは。
    カメレスすみません。
    書いていたら、どうしても長大になり終わりそうにないので、諦めて思い切って短く書いて見ました。
    わかりにくかったらすみません。

    No41686に返信(パ二チェさんの記事)
    > 2025/04/02(Wed) 17:27:14 編集(投稿者)
    >
    > おはようございます、ザビビのふくろうさん。レスありがとうございます。
    >
    > ■No41683に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    >
    >>上掲の『青色本』からの引用文読解の件ですが,パニチェさんの知りたいポイントがいまひとつわからなくて,どう書こうか迷ってたんですが,とりあえず,同じ箇所の別訳を載せてみます。
    >>これ,訳文中に黒崎先生の解釈を補足として直接挿入してあるのですが,そのおかげで場合によっては(全集版と合わせれば)わかりやすいのではないかと思います。
    >>参考になればいいのですが。
    >
    > 引用もいただき、ありがとうございます。お手間かけました。
    > 理論負荷性ではないのですが、まずは純粋にザビビのふくろうさんがどう読解するかを知りたかったのです。
    > 私がヘタな質問してしまうと読解から外れてしまうような気もしましたので。。。
    >
    >>***********************
    >>私に「何であれ,それが見られる(本当に見られる)とき,それを見る者は常に私である」※と言わせる[独我論]の誘惑に,私は,「何であれ,それが見られる(本当に見られる)とき,その見られるものはこれである」と言うときにもまた,負けていたのである。なお,「これ」という語には私の視野[全体]を抱くような身振りを伴って,である。(しかし,「これ」という語によって私がその時点でたまたま見ている特定の対象を意味してはいない。)[独我論者である]人は,こう言うかもしれない。「私は視野を視野として指さしているのであって,視野の中にある何かを指さしているのではない。」※※そして,このように言う事は,「何であれ,それが見られる(本当に見られる)とき,それを見る者は常に私である」という[独我論の]表現は無意味である,という事を暴露するのに役立つだけである※※※。
    >
    >>※104頁(『全集』p.112 )
    >>※※『論考』の独我論を考えればよい。
    >>※※※しかし,何故そうであるかは,後に112頁(『全集』p.126)で述べられる。
    >
    >>そこで,[独我論を表す]我々の表現「何であれ,それが見られる(本当に見られる)とき,それを見る者は常に私である」の中の「常に」という語を取り除いてみよう。そうしても私は,私の[論じている]独我論を,「私が見る(或いは,今見る)もののみが,本当に見られるのである」と言って,表現する事が出来るのである。そして,ここにおいて私は,こう言いたくなる。「私は,「私」という語によって,L.W.を意味しはしないが,もしも今まさに私は事実としてL.W.であるならば,他人が[私の]「私」という語はL.W.を意味すると理解しても,それはそれでよい。」私が「私」という語について今言った事は、「私は[、L.W.ではないが、]生命の器である」と言って表現する事も出来よう。しかし、注意せよ。私がそういう相手は、誰も、[一般に]私[の言う事]を理解出来てはならないという事が本質的なのである。即ち、他人は[一般に]「私が本当に意味する事」を理解出来てはならないという事が本質的なのである。
    >
    >>『『論考』『青色本』読解」』 ルードヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン 黒崎宏 訳・解説 p.109〜110
    >>*************************
    >
    >>確か、パニチェさんは、
    >>永井均著 『青色本』を掘り崩す――ウィトゲンシュタインの誤診 (講談社学術文庫)
    >>を持っておられたと思うのですが、上記引用の前半のパラグラフについて、永井は次のように述べていますよね。
    >>*******************
    >>この段落でちょっとだけ出されている問題は、後に詳述されるが、ひとことで言えば、これは「独我論は語り得ぬ。」ということである。(永井均 前掲書 209頁)
    >>*****************************************
    >>ここに関してだけ言えば、私、同意です。
    >>独我論者の用いる「私」「今」「ある」等々は無意味って話だと思います。
    >> 私だけが存在する
    >>という独我論のテーゼそのものが無意味なわけです。
    >>引用文の少し後の箇所で、「ベンチ」やチェスの冠の話が出てきますが、
    >>まさに「〈私〉」のカギカッコについても、無意味だと言っていると解釈できるんじゃないでしょうか?
    >
    >>もう少し書こうと思ったのですが、都合で改めにさせてもらいます。
    >>それと、やはり、パニチェさんが聞きたいポイントを説明してもらっていいですか?
    >>そのほうが、いいんじゃないかと思いますので、よろしくお願いします。
    >
    > ありがとうございます。
    > はい、私も永井均著 『青色本』を掘り崩す――ウィトゲンシュタインの誤診 (講談社学術文庫)』は持っています。
    > では、今回はきわめて恣意的(笑)な質問をさせてもらいます。
    >
    > ・上記のウィトゲンシュタインの言説は永井氏がテーマとしている〈私〉に関する「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」を示唆していると思われますか?

    (順番を変えて、下の問いへの答えを先に読んでください)

    この部分だけでそこまで言えるかは、ちょっと微妙です。
    ただ強いて言えば、本来無意味で余計なものを有意味なものとして語るということは、「比類なき私」「絶対的私」を「ほかならぬ私」「相対的私」に頽落させることであり、これが無限後退の原因であることを示している、とは言えるかな?(笑)


    > ・無意味とする根拠は人に伝わないということでしょうか?

    いいえ、そうではありません。
    永井の言い方を使って言えば、対比項を持たない「私」は論理文法的に無意味だからです。たとえば次の「私の」は無意味で余計です。
     私は私の頭痛を感じる

    >言葉では一時的に伝わらない対象を指し示すことには成功していると思われますか?
    >

    この問いが、「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」が「一時的に伝わらない対象(〈私〉)を指し示すことに成功しているか」という問いであるのなら、
    いいえ、思いません。
    しかし、この「私の」が無意味で余計であるということは、痛みにとって「私のもの性」が本質であるということを示しているとは思います(もちろん、「私の世界」についても同様です)。

    >
    > PS.先回りして言えばこのレス交換は私的言語を認めるか認めないかのテーマになるんだろうなぁ〜。ウィトゲンシュタインは否定的であり、永井均氏は肯定的。
    >

    議論を突き詰めていけば、そうならざるをえないと思いますが、
    そうなると『探究』まで踏み込まざるをえませんし、『青色本』もぜんぜん消化できていないので、今のところはちょっとわたし的には無理かもです、すみませんm(__)m

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