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No41683 の記事


■41683 / )  Re[14]: 青色本
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2025/04/01(Tue) 23:39:37)
    パニチェさん、こんばんは。

    No41558に返信(パ二チェさんの記事)
    > 2025/03/29(Sat) 10:48:33 編集(投稿者)
    >

    > 以下のウィトゲンシュタインの言説をザビビのふくろうさんはどのように解釈されるのかを教えて下さい。
    >
    > *** 大修館書店刊『ウィトゲンシュタイン全集6』青色本P116〜P117よりの引用 ***
    >
    > 「何が見えようと見るのは常にこの私だ」と言いたくさせる見方に捕らえられるとまた、「何かが見える場合常に見えているのはこれだ」と、「これ」と言いながら視野全体を抱えるような身振りをすることにもなる(但し、「これ」でもって、たまたま見えた個別的事物のあれこれを意味しない)。そして、「私の指しているのは視野そのもので視野の中の何かではない」と言うかもしれない。だがそうしてもただ、もとの表現の無意味さを暴露するだけである。
    >
    > [これらの難点は、常に……だということからきているのだから]「常に」をお払い箱にしよう。それでも[私が独我論を代弁して]この独我論を、「私が見るもの(又は、今見るもの)だけが本当に見られるものである」、と言って表現できる。そしてまた、「『私』という語でL・Wを意味してはいない。しかし、たまたまこの私が事実としてL・Wである場合には、他人がこの『私』をL・Wの意味にとってくれて結構だ」、と言いたい。だがその代わりに、「私は生命の器だ」、と言っても同じなのだ。注意してほしい。つまり肝心なのは、私の言うことを聞く人がそれを理解できてはならないことなのである。他人には「私が本当に意味すること」がわかってはならぬことが肝心なのだ。
    >
    > ************* 引用終わり *************
    >

    上掲の『青色本』からの引用文読解の件ですが,パニチェさんの知りたいポイントがいまひとつわからなくて,どう書こうか迷ってたんですが,とりあえず,同じ箇所の別訳を載せてみます。
    これ,訳文中に黒崎先生の解釈を補足として直接挿入してあるのですが,そのおかげで場合によっては(全集版と合わせれば)わかりやすいのではないかと思います。
    参考になればいいのですが。
    ***********************
    私に「何であれ,それが見られる(本当に見られる)とき,それを見る者は常に私である」※と言わせる[独我論]の誘惑に,私は,「何であれ,それが見られる(本当に見られる)とき,その見られるものはこれである」と言うときにもまた,負けていたのである。なお,「これ」という語には私の視野[全体]を抱くような身振りを伴って,である。(しかし,「これ」という語によって私がその時点でたまたま見ている特定の対象を意味してはいない。)[独我論者である]人は,こう言うかもしれない。「私は視野を視野として指さしているのであって,視野の中にある何かを指さしているのではない。」※※そして,このように言う事は,「何であれ,それが見られる(本当に見られる)とき,それを見る者は常に私である」という[独我論の]表現は無意味である,という事を暴露するのに役立つだけである※※※。

    ※104頁(『全集』p.112 )
    ※※『論考』の独我論を考えればよい。
    ※※※しかし,何故そうであるかは,後に112頁(『全集』p.126)で述べられる。

    そこで,[独我論を表す]我々の表現「何であれ,それが見られる(本当に見られる)とき,それを見る者は常に私である」の中の「常に」という語を取り除いてみよう。そうしても私は,私の[論じている]独我論を,「私が見る(或いは,今見る)もののみが,本当に見られるのである」と言って,表現する事が出来るのである。そして,ここにおいて私は,こう言いたくなる。「私は,「私」という語によって,L.W.を意味しはしないが,もしも今まさに私は事実としてL.W.であるならば,他人が[私の]「私」という語はL.W.を意味すると理解しても,それはそれでよい。」私が「私」という語について今言った事は、「私は[、L.W.ではないが、]生命の器である」と言って表現する事も出来よう。しかし、注意せよ。私がそういう相手は、誰も、[一般に]私[の言う事]を理解出来てはならないという事が本質的なのである。即ち、他人は[一般に]「私が本当に意味する事」を理解出来てはならないという事が本質的なのである。

    『『論考』『青色本』読解」』 ルードヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン 黒崎宏 訳・解説 p.109〜110
    *************************
    確か、パニチェさんは、
    永井均著 『青色本』を掘り崩す――ウィトゲンシュタインの誤診 (講談社学術文庫)
    を持っておられたと思うのですが、上記引用の前半のパラグラフについて、永井は次のように述べていますよね。
    *******************
    この段落でちょっとだけ出されている問題は、後に詳述されるが、ひとことで言えば、これは「独我論は語り得ぬ。」ということである。(永井均 前掲書 209頁)
    *****************************************
    ここに関してだけ言えば、私、同意です。
    独我論者の用いる「私」「今」「ある」等々は無意味って話だと思います。
     私だけが存在する
    という独我論のテーゼそのものが無意味なわけです。
    引用文の少し後の箇所で、「ベンチ」やチェスの冠の話が出てきますが、
    まさに「〈私〉」のカギカッコについても、無意味だと言っていると解釈できるんじゃないでしょうか?

    もう少し書こうと思ったのですが、都合で改めにさせてもらいます。
    それと、やはり、パニチェさんが聞きたいポイントを説明してもらっていいですか?
    そのほうが、いいんじゃないかと思いますので、よろしくお願いします。

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