□投稿者/ パ二チェ -(2025/03/29(Sat) 09:47:47)
| 2025/03/29(Sat) 10:48:33 編集(投稿者)
■No41546に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
>>PS.せっかくザビビのふくろうさんが戻って来られたので、ウィトゲンシュタインの青色本に関してあらためて確認してみたいというか、後学のための教えてもらいたいことがあるのですがよろしいでしょうか。 > あの,前にも言ったと思うんですが,私,自分なりにであっても一応読み込んだと言えるのは『論考』だけで,恥ずかしながら,それ以外の著作はとてもまともに読み込んだというレベルではないんです。 > とは言えそれなりに参考書はいろいろ読んできたので,何か知識で答えることができるってことがあるとも限らないので(笑),質問がおありなら一応試しにでも尋ねてみてください。 > ただし,あんまし期待はしないよう,くれぐれもお願いします。
承知しました。初対面では激論しましたが ─ Yahoo!掲示板を思い出すようなプロレスチックというか、かなり失礼な表現(すみません)も使いましたが久々でめっちゃ楽しかったです ─ 私的には得るものが大きかったです。 ザビビのふくろうさんとは今後とも議論はお願いしたいですが、無用な論争めいた(勝ち負けに拘るような)レス交換はするつもりは全くありません。
以下のウィトゲンシュタインの言説をザビビのふくろうさんはどのように解釈されるのかを教えて下さい。
*** 大修館書店刊『ウィトゲンシュタイン全集6』青色本P116〜P117よりの引用 ***
「何が見えようと見るのは常にこの私だ」と言いたくさせる見方に捕らえられるとまた、「何かが見える場合常に見えているのはこれだ」と、「これ」と言いながら視野全体を抱えるような身振りをすることにもなる(但し、「これ」でもって、たまたま見えた個別的事物のあれこれを意味しない)。そして、「私の指しているのは視野そのもので視野の中の何かではない」と言うかもしれない。だがそうしてもただ、もとの表現の無意味さを暴露するだけである。
[これらの難点は、常に……だということからきているのだから]「常に」をお払い箱にしよう。それでも[私が独我論を代弁して]この独我論を、「私が見るもの(又は、今見るもの)だけが本当に見られるものである」、と言って表現できる。そしてまた、「『私』という語でL・Wを意味してはいない。しかし、たまたまこの私が事実としてL・Wである場合には、他人がこの『私』をL・Wの意味にとってくれて結構だ」、と言いたい。だがその代わりに、「私は生命の器だ」、と言っても同じなのだ。注意してほしい。つまり肝心なのは、私の言うことを聞く人がそれを理解できてはならないことなのである。他人には「私が本当に意味すること」がわかってはならぬことが肝心なのだ。
************* 引用終わり *************
PS.私への返信は後回しというか急ぎませんのでいつでも結構です。 SumioBabaさんとの議論を優先して下さい。私も興味がありますので。^^
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